第25話
その言葉は驚くほどすんなりと、総司の脳に溶け込んだ。理解がストンと胸の内に落ちていく感覚があった。
「親元からの保護という形で、嬢ちゃんは祖父母の家に引き取られたらしい。今更施設に入るのは無理がある歳で、しかし身寄りはこの町にしかなく……それで引っ越して来たと、まあそういう経緯だね」
淡々と語るベネッドの口調には、しかしどこか冷たい感情が見え隠れしていた。義憤というほど怒りは感じない、それは哀しみに近かった。
「虐待は、父親が主犯だったんだと。しかし母親は母親で、積極的に娘を庇うことはしなかったらしいよ。どうも『両親からの虐待』というよりは、『父親の家庭内暴力』という事情なのか」
「……それは、つまり、母親の方も殴られてたってことか?」
「話を聞く限り、そんな言い振りだった。娘を庇えば自分が殴られる。そこまで献身的な母親じゃ無かったのか——いや、娘だからってそこまで求めるのは酷か」
暴力的な父と、臆病な母。そんな家族の構図が娘への虐待を野放しにした原因であり、同時に世間からの隠れ蓑だったのだろう。結果、純夏は
「……いや、でも——それは」
確かに彼女の事情は想像を超えて悲惨なものだった。同情し、憐憫の情を向けて然るべき境遇だ。この社会における子供の不幸というのもを体現したような人生を、純夏は送ってきたのだろう。
だが、そう——その結果、彼女はどうなった?
「あいつは——だって、
「もっと、
「————」
はっきりと切り返されて口籠るが、ほぼその通りだった。そこまでの境遇に置かれていながら、狩宮純夏は"普通すぎる"。
総司の懐く違和感はとりあえずのところ無しにして。
純夏は取り立てて特徴のない、年相応の少女だった。当たり前に笑い、悩み、友達を作ろうとし——そんな当たり前の生活を、当たり前に送っていた。
「私はそういうの、全く詳しくないけど……当たり前じゃない、としたら?」
「……え?」
ベネッドに問われて、総司は素で訊き返してしまう。
「嬢ちゃんの家の婆さんが言っていたが——あの子、前は
「あんな、って……」
「アンタの言うように、"普通"じゃ無かったってこと。嬢ちゃんが虐待から保護されて、最初に面会した時には、もっと異常な風だったらしい」
ベネッドはそう言って、短くなった煙草を地面に投げ捨て、踵で思い切り踏みつけた。じゅ、と僅かに炎が搔き消える音が聞こえた。
「目は虚ろで、表情もろくに見せず、そのくせ口は達者で、聞かれたことにはハキハキと答えていたと、そう聞いた。アンタの想像する『被虐待者』のイメージの、多分まんまじゃないの?」
ベネッドが口にした特徴を、総司は頭の中で組み立てた。なるほど容易にその顔はイメージできる。ただその顔を純夏と重ねられるかと言われれば、やはり"否"だった。
「だったら、どうしてあいつはあんな風に……?」
「あの子がどういう心持ちでああしているのかなんて言うのは、私には分からない。ただ、嬢ちゃんがああなったのは、彼女の祖父母が二度目に会った時だったらしいよ」
日数で言えば、それはたった一週間の間隔だったという。自治体との話し合いが終わり、一時的に区の施設に保護されていた純夏を引き取りに行った時のことだ。その時すでに、彼女は今のようになっていた。
にこやかに笑い、どこか恥じ入るようにしながら、お爺ちゃんお婆ちゃんよろしくと挨拶する孫娘。それが彼らの目撃した光景だった。
「話で聞いただけの私には計り知れないが、……まあ、彼らは不気味に思ったんじゃないか。ほんの何日か前まで呆然と無口だった孫が、いきなり表情豊かな年頃の娘に変貌していたんだから」
それはそうだろうと、総司も思った。人が人に接する際に、どうしても取り払う事の出来ない他者への恐怖というものがある。それは血を分けた家族であっても、払拭することはできない。
「嬢ちゃんはあくまで、外面を取り繕っていただけって事だ。私たちが見ていたのはその
「殻——」
「当たり障りのない殻を被った孫の様子が、察するに、あの老夫婦には何か異形のモノに見えたんだろう。自分たちの孫が、そんなモノになってしまった。あの夫婦がどっちの方の祖父母なのかは知らないが、ともかくその原因は、
だとすれば、恐らく夫婦は責任を感じたのだろう。彼らは目撃したのだ。自らの息子が犯した暴力と、その結果として出来上がった虚ろのような孫娘を。
ならばそれを止められなかったという彼らの罪悪感が、純夏本人に向いたとしても何ら不思議ではない。その結果が——孫娘の行動を、望みを決して妨げないという行き過ぎた愛情。
しかしもはや、純夏は彼らの孫であって孫ではない。心身ともに傷付いていたはずの純夏は、健全な少女のフリをし、金輪際本当の自分を見せなくなっていた。その矛盾は二人の老人の心を呑み込み、彼らを思考停止へと追いやったのだろう。
そうして、祖父母の方から孫娘を遠ざけ恐れるという異様な構図が出来上がったのだとすれば。
その在り方は"家族"として、あまりに歪だ。
「これは——私の主観だけど」
胸に湧いた暗鬱な想像を排出するように、ベネッドは吐露する。
「嬢ちゃんの
「————」
ずるりと、その言葉は総司の脳髄に溶け込んだ。ジグゾーパズルの最後のピースが嵌め込まれるように、ただ解する音が、がらんどうの心に響き渡る。
空——カラ。
「——ああ」
そこにあるのは、理解であり納得だった。全ての知恵の輪が解けたが如き、爽快なまでの解答が、今目の前に示されていた。
"空"。それが答えだ。それが全ての理由であり、動機だった。
——そう理解したと同時に、総司はふと、耳に遠くから響く警報音を聞きとめていた。ママル出現時のものではなく、これは火災警報だ。
「何だ?」
ベネッドはさも鬱陶しそうにそう呟き、それからポケットのスマートフォンが震えているのに気付いた。画面を確認して、思わずといった様子で彼女は目を見開いた。
「どうした?」
「……零から連絡だ。病棟エリアで軽い小火が出た」
「原因は?」
急かすように、総司は先を促す。そんな事故程度の連絡ならば、零が自らメールを寄越す事など無いと分かっていたからだ。
想像通り、ベネッドは言葉を選ぶかのような逡巡を見せた後、結局は歴とした事実を口にした。
「嬢ちゃんが姿を消した。病棟エリアの医療機器が破壊されていたらしい。多分、何かのコードが引火したんだろうが……」
目の前の総司が息を呑むのが分かった。当然と言えば当然だ。事を告げたベネッドの胸中がすでに、これ以上ないほど忸怩たるものだったのだから。
それが彼女の意思によるものなのか、彼女に取り憑いた執行人によるものなのかは分からない。しかし彼女は特務局の人間に怪我を負わせ、そして今、特務局の施設を破壊した。
これで彼女の処遇が、いよいよ"処分"という方向に動くのは避けられない。
早急に純夏の身柄を確保する必要があった。このうえ万が一町の人間に被害が出れば、もはや悠長な議論などしている場合ではなくなる——と。
そこまで考えて、はたとベネッドは気付いた。——いつの間にか、たった今まで目の前にいたはずの少年が姿を消していることに。
「——総司?」
思わず呟きながら、ふと横に目をやると、地上へ続く階段へのドアが錆びれた音を立てて閉じるところだった。
それは取りも直さず、あのドアを開き出て行った者がいたということだ。この雨の中で傘も差さずに、どこかへ消えた純夏を見つけ出すために——。
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