第23話

 一時間ほどで止むはずだった雨は、予報から外れて半日以上降り続け、背河内を包む空気を確実に澱んだものにしていた。

 時刻は午後九時。総司が幼稚園に駆け込んでから六時間以上が経過し、昼の事件にも一応の始末がつき始めた頃合である。

 ママルが二体同時に出現するという前代未聞の事態は、結果、幼い九つの命を奪って終結した。幼稚園に預けられていた子供の、うち五人は何らかの手段で身体を切り裂かれ、二人は首を絞め折られ、二人は頭蓋骨が割れるほどの力で殴打され殺されていた。

 加えて幼稚園に勤める職員が負傷。こちらは頭部に深い傷を負っており、命に別状は無かったものの、しばらくは入院を余儀なくされた。——これが世間に伝えられた情報の、おおよそ全てである。

「……一人、足りねえな」

 基地の廊下に座り込み、手元のスマートフォンに映し出されるオンラインニュースを目で追い終えて、総司はそう呟いた。

 雨音が聞こえてくる。彼が座っているのは、特務局にいくつかある地上への出入り口の前だ。ここからなら外の様子がよく分かった。未だ雨は止みそうにない。

 総司は昼頃から何も口にしていなかった。胃袋はいい加減に栄養を欲しているのか、ぎゅるぎゅると刺すような痛みを訴えてくる。加えて右手の負傷部の疼きも、消えてはいない。今の彼にある感覚の、半分は苦痛だった。

 しかし総司は表情一つ変えず、ただひたすらに待っていた。

 ——疑問があった。

 狩宮純夏という少女と、最初に言葉を交わした時からの疑問。

 最初から、総司はあの少女に対して親近感を懐いている節があった。どうしても、「自分と似ている」という感覚が消えなかった。

 冷静に考えるなら、二人はほとんど正反対の人間だ。

 彼女は自分で言っていた。「本当はみんなと仲良くなりたい」と。

 それは、総司と正反対のスタンスだ。総司は人付き合いを疎んでいた。一人でいる方が気が楽だった。他者から見れば年相応の突っ張った意地でしかないそれも、本人からすれば本気だ。自分は人嫌いなのだと、総司は信じていた。

『本当はみんなと仲良くなりたい——』

 そう、やはり違う。自分と純夏とでは。

 心の内はともかく、総司はあんなことを赤裸々に口にしたりはしない。あんな恥ずかしいことを言えるはずがない。

 他の点を鑑みても、結論は変わらない。あの少女はどこまでも素直な人間だった。文化祭の準備に勤しむ時も、特務局で訓練に打ち込む時も、あくまでこいつは真っ直ぐな人間なんだなと、そう思った。

 しかし——今になってそんな感想に、疑念が挟まる。

「……お前は、何だ?」

 外見通りに素直で真っ直ぐな印象を受ける中、純夏の言動にはいくらかのちぐはぐさがあった。そのせいで総司には、未だ彼女が「どういう人間」なのか見えてこない。

 その最たる例が、特務局に入りたいと志願した時だ。

 総司は尋ねた。何故ここで戦いたいと思ったのか、と。

 純夏は答えた。——理由など自分にもわからない、と。

 そんなことはあり得ないと、今になれば分かる。

 あの時点で彼女は一度ヘイデンに遭遇していた。システムや執行人という存在がどういうものなのか、嫌というほど理解していたはずだ。にも関わらず彼女は、システムと関わることを望んだ。自分でその動機さえ理解せずに、ただ「戦いたい」と申し出た。

 それは真っ当な人間、、、、、、のすることではない。

"——あいつは、何だ、、?"

 もはや総司には、狩宮純夏という人間の"中身"が全くもって理解出来なかった。

"——なら、俺は?"

 考えて、総司は目を伏せた。

 肝要なのはそれなのだ。この疑問は結局、そこ、、に終着する。

 純夏のことを理解出来ないというのは、まあ良い。元より人が他人を完全に理解することなど不可能だし、理解しようというのは傲慢だ。

 問題は、狩宮純夏を理解出来ないということは、自分自身をも、、、、、、理解出来ない、、、、、、ことに繋がってしまうことだ。

 ベネッドに言わせると、初めて彼女に会った時の総司と純夏は同じ目をしていたらしい。その時の状況は思い出した。両親から流れた血の海の上で、彼はベネッドと出会った。

 加えてもう一つ思い出したことがある。それは、「戦いたい」とベネッドに申し出たのもその時だったという事だ。あの場で、出会い頭に総司は、彼女に願い出た。あの時点でそう決意していた。

 つまり——ベネッドが純夏から感じ取ったものが総司から感じ取ったものと同じならば。

 それは純夏の戦う理由というものが、総司が戦う理由と同一だということになる。

 もちろん発想の飛躍だと言われれば、否定出来ない。きっと精神が追い詰められ過ぎたが故の考え過ぎなのだろうと、思えるのなら思いたかった。

 それでもこの疑惑を無視できないのは、総司自身、十二年前に「戦おう」と思った理由ワケを思い出せないからだ。狩宮純夏が自分が戦う理由を知らないように、同じく総司も、自分が戦う理由を理解出来ない。そんな事実に、こうして一人省みて初めて気付いたためだ。

 返すも返すも酷い話だった。十二年もの間、鍛えに鍛えて執行人と戦ってきたというのに、今になってその理由が分からなくなるとは。

「……」

 十八年ばかりの総司の人生は、システムとの戦いが多くの割合を占める。

 その中で出来た働きは、SFSという巨大な闇に立ち向かうに当たってはあまりに矮小なものでしかない。ほんの少し、どこかの誰かを痛みから守れたくらいのものだ。全体から見れば自己満足の草の根の域を出ていない。

 それでも、彼の人生は戦いだった。その理由が分からないとあれば——それは、自分の生の意味を失うも同然である。

 それは駄目だ、、、、、、。それを失うということは、今までの人生全てを無に帰す事と同義。それは断じて、許容できない。

 しかし——初めてベネッドに会い、戦うことを志願したのが十二年前。そこから先が思い出せない。どれだけ記憶を掘り返しても、自らの戦いの起点ルーツを思い出すことは出来なかった。

 ならば——問わなければならない。

 自問して答えを得るのがもはや不可能ならば、自分と酷使した「誰か」に答えを求めるしかない。それが純夏ならば、彼女に問おう。何故お前は戦うのか、と。

 だがそれさえも、ほとんど叶う望みは無いというのが現実だった。

 ——と、不意に総司の耳に届く雨音の中に足音が混ざる。すぐ側の地上に続く階段を誰かが降りてきているのだ。

「……酷い面だね、坊や」

 彼の前に立ち、そう声を掛けたのはベネッドだった。

「悪いニュースが二つある。体の方と精神こころの方、どっちから聞きたい?」

「……は。何だそりゃ、意味が分からん。どっちからでも同じだろ、そんなもん」

「なら体からにしとこうか」

 ベネッドは言いながらポケットから取り出した煙草を加え、先端に火をつけた。普段彼女があまり吸うことのない苦味の強い銘柄だ。ベネッドがそれを吸う時は、見せかけではなく本当に気分が沈んでいるのだと、総司はすでに知っていた。

 一つ紫煙を吐き出してから、彼女は話を始めた。

「あの嬢ちゃんの、今の状況について。アンタ、まだ何も知らないんだろ」

「……あいつ、狩宮は生きてるのか?」

「死んでいる。生き物としては間違いなくね」

 ベネッドは粛々と、事実を述べた。

「あの嬢ちゃんは、発見された時点で既に異様な状況にあったらしいね。医療チームの連中も目を丸くしていたよ」

 彼女の話はこうだった。

 まず、彼女の肉体は生命活動を停止していた。呼吸も脈拍も完全に消えていたのだから、それは確たる事実と言える。だが奇怪なことに、こと脳に限って言えば、純夏は「眠っているだけ」の状態だという。脳波もレム睡眠時と同程度のものが見られたらしく、夢を見ていてもおかしくないらしい。

 肉体的には「死んでいる」が、脳的には「生きている」。いわば純夏は、単純な生命としては死に絶え、精神的動物である人間としては生きている状態だった。

「おそらく医学的にもあり得ないんだろう。一体どういう仕組みなのか、局の学者にもお手上げらしい。解剖して調べる訳にもいかないし」

「……確かに、それは奇怪で奇妙な事実なんだろうけどさ」

 感情の籠らない、しかしどこか焦れたような声で総司は答えた。

「そんな小難しい話じゃなくて、もっと単純明快に『おかしい』部分が、今のあいつにはあるんだろ?」

「——ああ、そうね」

 深く、沈鬱に頷いて、ベネッドは続ける。

「嬢ちゃんの様子を最後に見たのは二時間前だけど……その時点で、もう人間とは呼べない姿をしていたよ」

 そう前置きをして、ベネッドは話し始めた。彼女がほんの先程に目撃した、狩宮純夏の状態を。


 

 基地の北に位置する研究区画の一角には、負傷者などの治療を行う簡易的な医療エリアが存在する。ベネッドがそこに足を運んだ時、すでに純夏は隔離病室のベッドに寝かされ、何者も傍には近寄れない状態だった。

「……何だ、これは?」

 隔離室のガラス越しに彼女の身体を見て、ベネッドは開口一番、困惑しきった声で呟いた。

 その外見的特徴は、もはや人間とは呼べない状態だった。

 まず目につくのは右腕。純夏の右肩より下は、昼の時点ではどこかに切り飛ばされ失われていたと報告があった。しかし今、横たわる彼女の右側にはしっかりと腕が生えている。

 ただし、それは決して「元通り」ではなかった。

 一目で分かる特徴から話せば、その色である。純夏はもともと日焼けとは無縁な色白の肌をしていたが、"再生した"右腕は薄暗い色をして、さらに至る所に鱗のような亀裂が入っている。その上、何やら何本も赤い筋のようなものが入っていて、淡く光が放たれていた。

「腕の長さ自体が、そもそも左腕より八センチほど長いようです。加えて皮膚そのものが硬質で、注射の針が通りません」

 同伴していた若い研究者にそう説明されると、ベネッドは微かに震えた声で訊き返した。

「何故……彼女を隔離してる?治療はどうなっているんだ?」

「危険だからです」

「危険?」

 研究者は頷いた。

「彼女の身体に人間ではないモノ、、、、、、、、が混じっているのはご覧の通りなのですが、つい先程、"それ"が我々を攻撃したのです。彼女の全身が……」

 言われてベネッドは、もう一度純夏の身体を見渡す。異変はすでに、彼女の全身に広がっていた。

 客観的に事実のみを述べるならば——彼女の身体から、何本もの「棘」が生えていた。

 例えるなら、ガラス片が突き刺さったような状態だ。岩のような質感の突起物が純夏の皮膚から何本も生えている。どうやら硬質化した上皮が突出して出来たらしいそれは、薔薇の棘と表現するのか一番合っているように思われた。

 見た目は岩のようだが、しかしあくまで「肉体」らしく、時折"棘"はそれのみで動いている。形を変え、伸縮し、脈打つそれは、特に右肩あたりに集中していた。

 純夏は今、眠りながらも蠢いていた。まるで肉体だけが別の生き物になってしまったかのように。

「受診衣に着替えさせようとしたスタッフが、あの棘に刺されました。幸い手のひらに小さく穴が空いた程度で、それは治るのですが……一時間ほど前から、近付く者を全て攻撃するようになっています。止むを得ず、運び込まれた際の格好のままにしています」

 研究者の言わんとすることは、ベネッドにも理解できた。全身から発生した棘は衣服を下から突き破り、結果、あちこちの肌が露出している。見方によってはあられもない姿と言えるが、この純夏に劣情を懐く人間が果たしているのか、微妙なところだった。

 皮膚の変質にしても右腕に限った話ではない。彼女の身体は生気を失ったかのような薄黒で、どこにも色白の部分など残っていないのだ。赤い筋もとうに全身を包んでいる。

 これを果たして生きた人間と断言できるのか、ベネッドには自信がない。

「今、彼女はどういう扱いになっている?」

「静観するしかありません。点滴を打とうにも研究員は近付けませんし、第一、皮膚が硬くて針が通らないのです」

 つまり、どうしようもないということだ。

 今の純夏を仮に"生きている"と仮定するならば、酸素や栄養は必要なはずだ。しかし彼女はそれを自分で摂取する事がおそらく出来ない。尚且つ外部からそれを与えることも不可能ならば、どの道"詰み"と言える。

「他に……何か処置は?」

「何も出来ていません」

 申し訳なさそうに研究者は答えた。

「恥ずかしい話、我々にもこの患者をどう扱えば良いのか分からないのです。どういう病気なのか、そもそも治療できるものなのかも。一般の病院に任せるわけにもいきませんし」

「原因は?それも何も分からないのか?」

「ええ。ただ……」

 一度口ごもってから、研究者は続けた。

「……彼女の頭部に真新しい切り傷がありまして。どうもその付近に、執行人の血液、、、、、、が付着した痕跡があるんです」

「何——?」

 ベネッドは思わず唸った。

 彼らは虚空から現れ虚空へ消えるが、その実、彼ら特有の肉体というものも有している。人間と同じ形態であるとは流石に考えずらいが、内臓や脳など既存の組織の存在も確認されており、血液もその中の一つだ。

 もしも、その血液が頭部の傷口から純夏の体内に入ったのだとすれば――?

「……まさか」

「ええ、まさか、、、です。しかしそうだとすれば、、、、、、、、納得は出来ずとも説得力は生まれます」

 研究者は、的確にぼかした言い方をした。

 執行人の血——M2因子という未知の物質で構成されたそれが、仮に人間の体内に入ったならば、その時に何が起こるのか。

 科学的根拠は一つもない。M2因子には未だ謎とされる性質が多く、人の細胞とどう作用し合うかなど分かるはずもない。そういう意味で、"納得"は不可能だ。

 だがその未知の物質が未知の作用を起こした結果、純夏の肉体に未知の変化が起きたのだとすれば——少なくとも、文脈的な辻褄は合う。つまり"説得力"はある。

「————」

 ベネッドは目を伏せ、思案した。

 あり得ない、と断じることは出来ない。何しろ執行人自体が、科学を超越した存在なのだ。それに関連することならば、未だどのような事が起こっても不思議ではないという段階に、人類はいる。

「これは、何の根拠もない私個人の勝手な予想でしかないのですが」

 若い研究者が、躊躇いがちに口を挟んだ。

「彼女の身体は、人間から執行人のものへと変化しているのでは無いのでしょうか?だとすれば、我々がすべきことは……」

「——いや」

 頭の奥底に、久しく忘れていた畏怖の感覚が降りてくるのを感じながら、ベネッドは努めて冷静に命令を下した。

「これはもう、君らや私の判断で動かせる事態じゃない。零に報告してくれ。局長の判断を仰ぐ」

「……分かりました」

 言葉からはどうしても苦し紛れという感じが抜けなかったが、研究者はその命令に頷いて、素直に部屋を出て行った。

 後に残されたベネッドはもう一度、ガラス越しに純夏の身体を見下ろす。

 身体中に入った赤筋や、黒々しく変色した皮膚。硬質化した肉体からはいくつもの"棘"が生え、それらは今この瞬間にも蠢き変異を続けている。

「————」

 沈鬱な面持ちで、ベネッドは冷静に自らの胸中を省みる。

 考えを整理するまでもなく明らかなことだ。純夏を今、人間と呼ぶのが正しいのか——それは自分にも、自信の持てないことだった。

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