第21話

 土砂降りの雨の中を、総司は駆けていく。

 雨はほんの数分前から降り出したらしく、まだ道路に水溜りも出来ていない。天候を予測して傘を持つ余裕など無かったため、天から降る雫は、容赦なく彼の全身を伝い濡らしていた。

 枝盛真知子という女性は、家族のいない総司にとって姉のような立ち位置の人間だ。特務局でその人生のほとんどを過ごした彼が、一応はまともな社交性を身につけられているのは、ほぼ彼女と彼女の母親のおかげと言える。家族ぐるみで、それくらい面倒見のいい人たちだった。

「……ッ」

 その彼女たちが、危機に瀕している。おおよそ誰の手にも救い難い危機に。

 総司は血が出るほどに唇を噛んだ。

 ママルが二体以上現れるというのは、数値上どうあっても間違いのない事実だ。計器の故障という可能性もあるにはあるが、そんな都合のいい期待をするには、総司はこの町でどれほど容易く人が死ぬのかを知りすぎていた。

「……やめろ」

 総司の表情は歪まない。固定されたように、ぴくりとも動かない。ただ取り憑かれたような目で、誰に聞かせるでもなく震えた声で独りごちていた。

「やめてくれ……!」

 総司はその声で、何も主張しない。声を張り上げることも、何か感情を込めることもない。ただ平坦に、ほんの僅かに喉を震わせるのみ。

 狂ったように呟き続けても、その様が誰かに目撃されることはなかった。何しろ先日の残酷な事件に加え、この雨である。わざわざ外出しようという人間はいない。

 総司は、この世界にまるで自分が一人きりになったような錯覚を覚えていた。ここには誰もいない。彼の周囲に点在する家屋も、この辺りにあるのは棄てられた空き家ばかりだ。

 しかし幼稚園の建物が見えてきて、そんな錯覚があくまで錯覚でしかなかったことを、総司は悟る。

「ああ、これは——駄目だ」

 理性が否定しようとも、積み上げられた経験は敏感にその匂いを嗅ぎ取っていた。

 ——これは、死臭だ。人が死に、日常という名の幸福が破壊される感触が、あの建物から漂っている。

 この悲惨な"匂い"は、人がいなくてはあり得ない。そこに人がいて、そこにあったはずの生が蹂躙されて初めて、この匂いは成り立つものだ。

「————」

 次第に脚から力が抜けていく。ここまで全力疾走だったはずが、いつの間にかその足取りがよろよろとした頼りないものに変わっている。そうして減速した総司は、玄関の前にまで到着して、完全に足を止めた。

"進め……"

 建物の中に入ることを、体が拒否しているようだった。一つ分かるのは、これが恐怖ではないということだ。自分はこの先で執行人に殺されることを恐怖しているのではない。

"進めよ……!"

 これは掛け値無しの"拒絶"だった。この先で恐らくは知ってしまうであろう、自らの"◾️◾️"を拒んでいるのだ。それ、、を理解することを、神村総司の肉体が拒否していた。

 だが、そんな思考は唐突に中断された。玄関の奥から近づく人影を認めたためだ。

 誰だ、と問おうとして、問うまでもないことと気付く。人影の背丈は総司の二分の一もなく、一目で真知子が預かっている幼児の一人だと判別できた。

「何があったんだ?」

 いくらか声音を和らげて尋ねるも、自分から子供に駆け寄ることは躊躇われた。何故だろうと思案し、一つの違和感に気付く。

 幼児がたった今出てきた玄関の奥が暗すぎる。電気が点いていないどころか、家具の配置もろくに見て取れない有様だ。昼下がりのこの時間帯には、明らかに不自然な状況だった。

 加えて、子供の足運びもどうもおかしい。

 その歩き方に年相応の拙さや溌剌さがまるで見受けられない。ゆっくりと、落ち着き払った大人が歩み寄ってくるような姿勢で、こちらに向かってくる。

 表情にも子供らしさはない。泣きも喚きもせず、瞬きの一つもしない、その顔に鉄面皮を貼り付けたままの幼子が纏う雰囲気は、ホラー映画さながらの不気味さだった。

「く……」

 来るなと咄嗟に言おうとして、総司ははたと気付く。

 子供の背後にもう一つ亡霊のような影があった。暗がりに隠れて容姿の確認できないそいつ、、、をどうにか視認しようと目を凝らし、

 ――ついぞ、突如として空間に咲き誇った命の仇花の、前兆にすら気付くことはなかった。

 血。溢れんばかりの血色。その噴出孔がどこかといえば、ぱっくりと開いた子供の背中である。総司の位置からそれが見えるのは、既に生命を失った幼い体がこちらに倒れ伏したためだった。

 その後ろに立つ人影には見覚えがあった。幾度となく遭遇した、肉体とさえ呼べないほどに無機質な外殻。それは間違えようもない――ヘイデンと呼ばれる、サイボーグのような姿をした執行人だった。

「て、めえ……」

 感情を押し殺しながらも、その声が怒りで震えるのはどうしようもなかった。今この執行人がやってのけたのは、陰鬱を極めた子供殺しだ。

 この時点で総司は冷静さなど完全に失っていたが、結果としては、彼が機械質な執行人に飛びかかることは無かった。

 というのも、足を踏み出すのに先んじて、玄関のすぐ横の壁が崩れ去ったからだ。向こう側から凄まじい力で押されたようなその破壊跡にも、やはり見覚えがあった。

「——あぁ、こりゃ流石に気が滅入る。たしかに俺は人を殴るのは好きだが、何も殺人狂ってわけじゃないんだよ……んん?」

 崩れた壁の向こうから聞こえてきたのは、忘れもしない声だった。高倉を殴り殺し、総司の拳を砕いた張本人——ファニー・ジョーがそこにいた。

「なんだ、おまえか。元気そうだな」

 今のファニー・ジョーの体躯は、三日前に合間見えた時よりも一回り筋肉が膨れ上がっているようだった。が、そう認識した途端、風船が萎むように肉体が見る見る収縮し、三日前と大きさに——それでも人体を遥かに凌駕した体格であることに変わりはないが——変貌していた。

 物理法則を完全に超越した有様に、つくづく目の前の化け物がこの世の法理を超えた怪物なのだと理解させられる。

 声が出ない。ただひたすらに、自らの内に渦を巻く激情に総司は支配されていた。ズキズキと右手が痛み、その苦痛が、目の前の道化師への憎悪を駆り立てる。

「——良い目だ。俺を恨んでいるな?それを忘れるなよ。どんなに薄っぺらくとも、恨みは人を強くする」

 怨恨の視線を受けて、ファニー・ジョーは嬉しそうに笑っていた。上機嫌のままに、隣のヘイデンにも語りかける。

「なあ?この坊主、俺だけじゃない。アンタにも恨みがあるらしいな」

「————」

 ヘイデンは答えない。ただ一歩前に踏み出し、ゆっくりと、仮面に隠された顔を総司の方へと向けるだけだった。

「……!?」

 厚い雲越しに注ぐ太陽の淡い光に照らされ、容貌が明らかになったその「顔」を見て、総司は驚愕した。

 仮面が、破損している。総司から見て左側の、目元にあたる位置が欠けていた。見るからに外側から破壊されたと分かる、荒々しい壊れかただった。

 よく見れば普段ヘイデンの頭部を覆っているフードも見当たらず、代わりに彼は、ブロンドの長髪を風に揺らしていた。

 さらに信じられないことに、ヘイデンは流血していた。仮面の欠けた部分から明らかに人間のものと見える眼球が覗いていて、その周りを覆う白い肌が、赤黒い液体に濡れている。

 あれは明快な「ダメージ」だ。それも負傷箇所が頭部であり、出血量も決して少なくないことから、かなり深刻な傷だと定義できる。

 だが——いったい誰が?

 この幼稚園にいるのは、人畜無害を極めたような人種だけだ。間違っても乾燥銃ドライガンすら持たずにママルに傷をつけられる人間などいない。いや、銃があってもおそらく不可能だろう。

「……つれない男だな。同じ試作型プロトタイプ同士、仲良くやろうぜ」

 耳障りな声が響き、総司は考察から現実へ引き戻された。このあまりに混沌とした、様々な要素の介在した状況へと。

 そう、これはピンチでもありチャンスでもある。

 ママルという上位種が二体も首を揃えて目の前に立っている。これは明らかに、総司の手になど負えない事態だ。戦いを挑むどころの話ではない、安らかな自殺の方法を考えるべき局面である。

 だが同時に、あのヘイデンが負傷している。おまけに身体中を覆っていた硬い外殻は一部が壊れ、執行人の肉体で最も脆い顔面部分が露呈している。これは今までにない、あの厄介な執行人を討つ絶好の機会だった。

 ——だが、結果的に状況は、ピンチにもチャンスにも働くことはなく終息した。

 ヘイデンとファニー・ジョーの体が、やおら極小の稲妻を帯びる。弾けるような音を奏でるそれらは瞬く間に彼らの身体を覆い尽くし、二人と怪人をこの世から消し去った。執行人が消失する際に見られる、一連の現象である。

「——っ、は……」

 あれほどに強大な目に見える驚異の消滅を受けて、流石の総司も安堵に息を漏らした。しかし視線の先に子供の骸を認め、すぐに思い出す。連中が去ったということは、つまり事は終わった後、、、、、、、なのだということを。

 居ても立っても居られず、横目に映る幼子の死体の惨さに歯を食いしばりながら、総司は建物の中に駆け込んだ。


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