第20話
M2因子という未知の物質がこの世に出現する直前、約一〜五分のタイムラグを挟んで、ある特殊なパターンの電磁波が観測される。これを数値化したものをM2反応値と呼称し、特務局は執行人出現の前兆として、危機管理の基準としている。
M2反応値が危機予測の手段として優れているのは、出現する執行人の種類によって数値が大きく異なる点だ。
一般にレプタイルならば五〇〜二〇〇、ママルならば二〇〇〇〜五〇〇〇程度。つまり観測された数値の桁によって、敵の規模がある程度正確に予想することが出来る。
特務局は管制室と呼ばれる部屋を設け、このM2反応を観測することによって、危機予測を立てていた。
——そこで今、警報が鳴り響いていた。
「報告します。異常発生です。異常発生!ああ、もう!何なのよこれ!?」
頭を抱えながら、倉秋博美は事態に対応していた。
観測された反応値が五〇〇〇を超えた場合、管制室には警報が鳴るようになっている。つまりこの警報は、意味合いとして「ママルの出現」を示すものだ。回数で言えば、これが鳴るのは一月に一、二回ほどである。博美ほどこの場の仕事に慣れていれば、さして騒ぎ立てるほどの事態ではない。
だが——、
「こんなの、私にどうしろってのよ……!」
眼下のモニターに明瞭に表示された数字は、「異常」としか表現できないものだった。
「何があった?ヒロミ」
そう後ろから声を掛けられて振り向くと、そこに立っていたのはベネッドだった。
「またママルか?三日前に今日と、随分な頻度だな。
「駄目!」
小慣れた様子で対応するベネッドを、しかし博美は強い言葉で制止する。
「行かしては駄目。誰かが負う怪我や痛みが増えるだけよ。人が行っても無駄なの」
「……どういう意味?」
「これ、見て」
額から冷や汗を流す友人の様子に、ベネッドはただならぬものを感じて、身を乗り出すようにモニターを覗き込み、そして驚愕した。
——前提として。
ママルと呼ばれる執行人は、そう出現するものではない。現れたとしても、三日前のファニー・ジョーのように複数のレプタイルの中に一体だけ混ざっているような状態が常だ。それをM2反応値で表すと、高くとも五〇〇〇以内に収まることになる。
だが、モニターに示された数値は、五桁を超えていた。
「これは、つまり……」
「
ベネッドは歯噛みした。
人の力では太刀打ち出来ないママルを相手にしても、丸っきり出来ることが無いわけではない。
執行人が出現していられる時間には限りがある。およそ十分から三十分の間に、この世に現れたM2因子は消失するというのが通説だ。
つまり早い段階で周辺の人間を避難させ、彼らの目を搔い潜ることが出来れば、あるいは犠牲者を出さずに事を終えることも極小の可能性ではあるが可能なのだ。ほんの数例だが、今までにそういうこともあった。
だが、ママルが複数体も現れたならば——それは無理だ。どうあっても逃げ切ることなど出来ない。
この町でまた、人が確実に死ぬ。希望など一欠片も望めない未来が、大口を開けて待っている。
「……場所は?執行人どもは、どこに現れるの?」
それでもベネッドは尋ねた。何も出来ないことは分かっていても、せめて何も知らずにいることだけは避けようという、何ら意味のない意地だった。
「観測地は、背河内の東側——新鞍二丁目ね。ここには確か、幼稚園があったはず」
「——幼稚園?」
後ろから唐突に少年の声がして、二人は同時に振り向いた。
「……坊や、どうしてここに」
「部屋でじっとしているのがどうにも我慢ならなくなって、そこらを歩いてたら警報が聞こえてきて……気になった」
「いつから——どこから聞いてた」
「ママルが複数体、ってところからだ」
右手の包帯のせいもあるだろうが、ベネッドの目に総司は以前よりも痩せたように見えた。そう感じさせる何よりの原因は、彼の表情に浮かぶ絶望とも見える焦燥の色だった。
「どういうことだよ倉秋さん。幼稚園って、
枝盛真知子という人物は、この町では有名人だった。背河内の少年少女で彼女を知らない者はほとんどいないだろう。総司も例に漏れず、彼女をよく慕う子供の一人だ。
現在彼女が切り盛りしているという、新鞍町にある幼稚園。町から人が減り続けり、子供を他人に預ける親などほとんどいないこの時勢、背河内には幼稚園など他に無い。執行人が出現するのは、まず間違いなくそこだろう。
「——総司!」
ベネッドが名前を叫んだ時にはもう遅く、総司の姿はその場から消えていた。
「あのバカ……絶対安静だってのに!」
こういう場面では、つくづくあれがただの子供なのだと思い知らされる。
たとえ真知子のもとへ駆けつけたとしても、手負いの総司に出来る事など何一つない。仮に彼女が今回の"淘汰対象"ならば、もはやその命は諦めるほか無い。
それがどれだけ受け入れ難いことでも——それでも走る、その思いが、どれほど理解出来ても。ベネッドは総司を止めるしかない。増えずに済む死体を増やすことほど、この世に無益なことは無いのだから。
「待てと言ってる!」
二人を走力で比べれば、ベネッドに軍配が上がる。加えて今の総司は、ろくに腕を振ることも叶わない体だ。廊下の途中でその背中に追いついた彼女は、肩を掴んで引き止め——振り返った顔を見て、瞠目した。
「……おまえ」
力強く強かなその声音に、僅かな動揺が走る。
その表情は何かを堪え押し留めるように、固く凍りついている。普段の突っ張った様子とはまた違う、全ての感情を封殺したかのような顔の中、その瞳だけが僅かに滲んでいた。
何を訴えるでもなく他人を拒絶するその姿が自分が知る総司とはまるで別人のようで、ベネッドはらしくもなく、身が怯んでいた。その一瞬の隙に、総司は彼女の制止を振りほどいて、再び駆け出した。
「…………」
再び追いかけるのも忘れて、ベネッドは立ち尽くす。
その胸にはただ一つの確信があった。——あの顔は、
人として駄目な顔を、総司はしていた。あの瞳に滲んでいた涙の正体は、哀しみでも恐怖でもない。かつて彼女がこの世の地獄で見てきた、生ける亡者の貌と同じなのだ。
あれは——自らに絶望した者の表情だ。
無力にか、本性にか、それは分からない。だが自分の持つ「何らか」に絶望を懐いた者は、ああいう顔をする。そして、ああいう顔をした人間はヒトとして駄目になる。
「おまえは、何に絶望した……?」
一人、問わずにはいられなかった。
その声は誰にも届かず、無意味に消えていく。言葉はもう、あれを救う福音にはなり得ない。総司はすでに、そういう領域にまで追い詰められてしまった。
そしてちょうどこの時、幼稚園の敷地の中で、狩宮純夏が死んでいた。
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