第19話

 学校が無ければやる事はない。遊びに誘ってくれる友達も純夏にはいないし、何より、こんな時に何かを楽しもうと外に出る不謹慎な輩は、あの常識的な高校にはいない。そうでなくても高倉は皆の人気者だったのだから、今頃クラスメイトたちは暗鬱とした気分で喪に服していることだろう。

 とはいえ、家でじっとしていることは出来なかった。暗い部屋に一人でいれば、否が応にも二日前の惨劇を思い出す。そんなことを一週間も続けていれば、本当に気が狂ってしまう。

 だから純夏は歩いていた。

 学校に行くわけでも無いのに制服を着ているのは、喪に服すのに相応しい格好がこれくらいしか思い浮かばなかったからだ。彼女が持ち合わせる私服はどれも明るい色のものばかりで、残念ながら黒色の服は一つも無かった。

 とはいえ、客観的に見ればただの散歩であるこの行為のためにわざわざ喪服を出してもらうわけにもいかない。その結果が、制服という選択だった。意味もないのに鞄まで持って出てきたあたり、彼女の内面は相当に錯乱しているらしい。

 ——昼下がり。

 春の陽気というには暑すぎるほど熱気を帯びた光線が、天上の太陽から注がれる。生命を祝福するはずのその光が、今の純夏には厭わしくてしかたがない。暗い部屋の中も太陽の下も、これでは変わらなかった。どこにいようと今は、世界の全てが自分を責め苛むように見えてしまう。

 ——純夏の足先が何かを蹴突いたのは、その時だった。

「——?」

 見ると、アスファルトの上をころころとサッカーボールが転がっていく。放っておくのもどうかと思い、純夏は取り敢えず、それを拾い上げた。

「あーっ、やっぱり外だ!誰かに取られちゃった」

 横から自分の心情とは正反対のような無邪気な声が響き、顔を上げる。

 そこにあったのは金網を組んで作られたフェンスだった。向こう側には数人の子供達が集まっている。まだ小学校にも入っていないような幼児たちだった。

「ねえお姉ちゃん、それ返してー!」

「投げて投げて!」

 彼らは口々に、純夏が手に持つボールを寄越すように催促してくる。そこで純夏は初めて、自分がどういう建物の横に差し掛かっていたのか気付いた。

 そこは幼稚園だった。高さ三メートルほどのフェンスは、車の往来がある公道と彼らの敷地を区切るべく設置されたものらしい。その柵を越えて、園児らの蹴ったサッカーボールが目の前に転がって来たのだ。

「返してー!」

 口々にそう叫ぶ子供達に言われるまま、純夏はサッカーボールを投げる。が、ボールは向こう側には届かずフェンスの上側に当たり、さらに跳ね返ってきた先で、純夏の額に直撃した。

「あっ」

 園児たちの何というか「うわあ」という感じの声を聞かながら、堪らず尻餅をつく純夏。再び目の前に転がったボールを掴んで、惨めな思いで立ち上がる。

 痛い。が、こんな小さな子たちの前で泣き出す訳にも行かない。これ以上の屈辱はごめんだ。というのも、今の子供達の声には「痛そう」というより「下手くそ」という意味合いが込められているようだったのだ。

 何が悲しくてこんな沈んだ気分の中、十歳以上歳下の子供に馬鹿にされなくてはいけないのか。ムキになった純夏は、本気のピッチングの姿勢でボールを構える。

 ボールは返すが、楽に取らせはしない。さめて敷地の奥に投げ込んで、この子達にもうひとっ走りさせてやろう。どちらが子供なのか分からないそんな思いの下、純夏は全力で腕を振り下げた。

 果たして勢い余って植木でも倒したらどうするつもりなのかと、ここに第三者がいれば諌めただろうが、そんな心配は要らなかった。先程とは段違いの勢いに乗ったサッカーボールはまたしてもフェンスに阻まれ、純夏の側に跳ね返ったのである。

 しかも今度は、真っ直ぐ頭に直撃などはしなかった。ボールは頭上を越して後方の石塀にぶつかり、見事な反射角を描いて、純夏の後頭部へ直撃した。

「うわっ!」

 子供達の口から聞こえてきたのははっきりと「うわ」という声だったが、今度は流石に「痛そう」の方が強いようだった。さもありなん、純夏は衝撃のまま前方へにつんのめり、その顔面をフェンスに衝突させていた。四、五歳の子供の目には見せたくないほど思い切りの良い負傷の仕方だった。

「うぅ……」

 ぶつけた顔を抑えながら、純夏は嘆きの声を漏らす。見ると、鼻血まで少し出ていた。

 こんな昼下がりに鬱々とした気分で散歩に繰り出した挙句、一体自分は何をやっているのだろうか。そう思うといよいよ本当に泣きたくなってきた、その時だった。

「——ああ、大丈夫ですか?すみません、私が目を離したばっかりに」

 フェンスの向こうから今までの子供たちとは違う大人びた声が聞こえてきて、純夏は涙目の顔を上げた。

 声の主は、どうやらこの幼稚園の職員らしい女性だった。見たところ随分と若い。二十代前半か、下手をすれば十代では無かろうかというほどだ。

 彼女は可愛らしいデザインのエプロンを身につけて、心配そうな面持ちでこちらに目を向けてくる。

「あら、大変。血が出てるじゃないですか。入ってください、手当てくらいなら出来ますから」

「だっ、大丈夫です。ご心配なく……」

 確かにぶつけた顔は痛むのだが、はっきり言って今は苦痛より惨めさの方が勝っている。純夏の胸に浮かび上がる感情は、一刻も早くこの場から立ち去りたいという情けない願望のみだった。

「いいから来てください。今日は暑いんですから、血が止まらなくなりますよ。見たところ高校生でしょう?なら知ってるはず。人間は半分血が抜けたら、死んでしまうんです」

「……う」

 それは確かに高校生にまで年齢を重ねれば誰もが知るような常識だった。怪我を押して無茶をする人間を諌める際に使う、定型句の一つ。あくまで一般的な常識論であるがゆえに、日常的な響きの域を出ない言葉だ。

 だが今、それを受け取る純夏の心持ちは"常識"などとは呼べない状態にある。子供に使うような脅し文句を無視できないほどには、彼女はリアルな"死"をつい先日に体感してしまった。

「ほら、あそこが玄関ですから。遠慮せず入って下さい」

 女性は和やかな、しかしどこか絶対的なものを感じさせる声でそう促した。純夏はほとんど、それに逆らう気をなくしていた。



「……鼻血はすぐ止まるでしょうけど、額に切り傷が出来ちゃってますね。そっちの方が大変だわ」

「え……と、そんなに切れてますか?」

「いいえ、ごく軽いものです。でも頭には血管が集まっててね、切れるとなかなか血が止まらないのよ」

 女性は枝盛真知子えもりまちこと名乗った。まだ二十歳だという彼女は、この幼稚園の元々の経営者であった寝たきりの母を助けるために、高校を卒業後すぐに資格をとってここで働いているという。

 純夏と二、三ほどしか歳の違わないはずの彼女だが、その身体からはどう見ても母性としか表現しようのないオーラが溢れていた。淑やかな声や知性的な顔立ちも、そう感じる一因だろう。彼女は和服でも着ているのが一番似合うのでは無いかと、純夏はぼんやり思った。

「本当、子供達がごめんなさいね。いつもボールは高く蹴りすぎないようにと言ってるんですけど……」

「い、いえ。私がドジなのが悪いんですから」

 これは謙遜でも何でもなく、純夏の本音だった。

「……はい、これでとりあえずは大丈夫です。額の方は、家に帰ったらキチンとした絆創膏を取り替えて下さいね。ここのは安物で、血が滲むとすぐ剥がれちゃいますから」

 一通りの処置を終えて、真知子は薬箱に絆創膏と消毒液を仕舞う。

 対して手当てを受けた純夏は、右の鼻に脱脂綿の詰め物、額の真ん中に絆創膏が一枚という何とも間抜けな姿に様変わりしていた。この格好のまま総司の見舞いに行けば、それだけで彼は笑い転げて立ち直るんじゃないかというほどである。

「……何でしょうこれ、すっごい惨めです」

「ふふ。鼻の脱脂綿は五分もすれば、取って良くなりますよ」

 はぁ、と一つ溜息をつき、それから純夏は周りを見回した。

 幼稚園。敷地面積は少し広い民家くらいの、小さな施設だ。昔ながらの日本屋敷といった趣の強い建物で、畳張りの床や部屋の障子などは独特の雰囲気を醸し出していた。

 純夏が手当のために通されたのは園庭に面した縁側で、すぐ前の芝生の上では子供達が無邪気に遊び回っている。

「……楽しそうですね、みんな」

 素直な感想を純夏は口にした。

「みんないい子ですよ。元気過ぎる感じも、まあしますけど」

「えっと……枝盛さん一人しかいないんですか?ここ」

 差し当たり気になったことを尋ねてみる。園内で子供達とはすれ違うが、大人は今のところ真知子以外、一人として見かけていない。

「真知子で良いですよ」

 彼女はそう断って、

「普段はもう一人、菅原さんって方がいらっしゃるんですけどね。事情があってお休みしてます。もっとも私一人でも、子供が少ないからなんとかはなるんですけど」

「……そういえば随分と少ないですね、子供達」

 今数えてみたが、庭を駆け回っているので全員ならばこの幼稚園には九人しか園児がいないことになる。待機児童が社会問題となって久しい昨今、いくら小さな施設とはいえ、これはいささか収容人数が少なすぎるだろう。

「この町は、子供が少ないんですよ」

 真知子はどこか寂し気に説明した。

「システムが生まれて、この町では他よりずっと人が死ぬようになりました。それを恐れて、人々はどんどんここから逃げていきます。代わりにガラの悪い人が入ってきて、日に日に背河内は危険になっていく。……気づきましたか?このあたり、ほとんど空き家ばかりなんですよ」

「それは……」

 何に意識を向けることもなく歩いてきた純夏だが、実を言うとその違和感には思い当たっていた。

 二週間前に総司に助けられたあの夜、彼女の感じていた恐怖の正体もそれだ。つまりこの町は、圧倒的に人が少ないのである。ただの暗闇や孤独感では説明のつかないあの不安の正体は、純夏が町全体から無意識下で本能的に感じ取っていた、いわば人の温もりの欠如だった。

「この町に残っているのは、自治体としての機能が欠落した環境を好ましく思う無法者か、背河内に代々住んできた人たちか……私は後者です。母と、母が切り盛りしてきたこの園を守るため」

「……立派なんですね、真知子さん」

「そんなこともありませんよ。私はあくまで自分のためにやってるんですから。本当に凄いのは、特務局の皆さんです」

 どこか遠くを眺めるようにして、真知子は続ける。

「あの人たちは自分以外のために戦ってます。そのためにこの、危険極まりない町に留まっている。立派な人っていうのは、ああいう人たちのこと」

「……局に知り合いでもいるんですか?」

 純夏は尋ねた。特務局について語る真知子の言い振りは、外からの一般人の意見と言うには随分と感情がこもっているように思えたからだ。

「ええ、沢山いますよ。あなたと歳が近い人だと、例えば神村総司くんとか」

「えっ?」

 唐突に聞き慣れた名前が出て、思わず困惑の声が漏れる。そんな様子を見て、真知子はおかしそうに微笑んだ。

「私、これでも顔が広いんです。昔から歳下の子に懐かれる体質なの。背河内全体だと怪しいけど、新鞍町の中だったら、そうね、来年に高校生になる年齢までなら知らない子はほぼいないんですよ」

 みんなのお姉さんみたいなものなの、と真知子は付け加えた。

 純夏はと言うと、嘘臭ささえ漂う話のスケールに瞠目していた。確かにそこらの田舎よりよほど人の少ないこの町なら、そういうこともあり得るのかも知れない。だがそれにしても、今時それほどの顔の広さを持ち合わせるのは、化石のような人種と言えるだろう。

「珍しいのはあなたの方ですよ。私と知り合いじゃないってことは、転校生か何かなのかな」

「こっ、声に出てましたか?」

「いいえ。何となく、そんなことを考えてるんじゃないかなって」

 そう言って真知子は、またくすりと笑った。もう見るのも何度目かの笑顔だが、そこには人を包み込むような妙な嫋やかさがあった。

「あなたが引っ越して来た理由は、多分訊かない方がいいんでしょうね。こんなところに転校してくるなんて、複雑な事情なしにはあり得ないですから」

「……ありがとうございます。気遣ってもらって」

「別に、お礼を言われることじゃないわ」

 と、不意に遠くで雷が鳴る。そういえば予報では雨が降る予定だった。傘を持ってこなかったなと、今更のように純夏は思い出した。

「ねえ——その制服。あなた、市立高校の生徒よね」

 純夏の身を包むセーラー服を指して、真知子は唐突にそう尋ねてきた。

「そうですけど……何か?」

「あなたがこんな平日の昼間に出歩いている理由って、学校がお休みだからなのよね。つまり、痛ましい事故があったから」

 その言葉は漆喰のように純夏の脳髄に染み込み、和やかな雰囲気の中で重苦しい現実から乖離しかけていた彼女の意識を、一気に引き戻した。

「あなたは——亡くなった高倉憲明くんとは、親しかったの?」

 そう尋ねる真知子の表情から、いつの間にか笑顔が消えていることに純夏は気付く。同時にその声は、蚊帳の外側から悲劇を悼むような声音ではなく——親しい故人を偲ぶように、震えていた。

 同時に、また遠くで雷が鳴った。

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