第18話
厚い雲に覆われた昼下がりの空の下を、純夏は当てもなくそぞろ歩いていた。
本日の天気は曇り時々雨。南方から近づく梅雨前線の影響で、これからはこんな日が多くなる。今日も夕方からは本降りになるそうだ。
テレビの向こうから聞こえたお出かけの際は傘をお持ちくださいという予報士の言葉を、純夏は無視していた。雨に濡れるのを不快にも思えないほど、自分の心が沈みきっているのが分かっていたからだ。むしろ冷たい水に打たれれば何か心境に変化も起きるかもしれないという、淡い期待さえあった。——つまりは自暴自棄である。
ふと、すぐ横を警邏のパトカーが通り過ぎていった。
今は平日の午後一時半過ぎ。学生が外をほっつき歩いていい時間ではない。だが暗い面持ちで歩く純夏を、警官が呼び止めることはなかった。町で唯一の市立高校が一昨日から休校になっていることは、彼らも知っているのだろう。
純夏らの通う背河内高校に執行人が出現し、生徒の一人が死亡するという事件が発生したのが三日前。出現した執行人のうち、三体は居合わせた特務局員に制圧された。しかし遅れて現れた一体が避難中だった生徒を殺害し、さらに特務局員二人が負傷。
——世間に伝えられた情報は、概ねこんなところだ。脚色も隠蔽もなく、ただ起こった悲劇を淡々と羅列した完璧な報道だった。
生徒が死亡したため幾らかの非難は学校と特務局に向いたが、それも中身のない、形だけの怒りだった。町の誰もが本当は理解していたのだろう。これは誰の手にも防げない、どうしようもない事だったのだと。
「これからはいっそう、町から出る人間が増えるだろうね」
と、これはベネッドの言葉。
ファニー・ジョーと名乗った執行人が消えた後、教室には彼女を含む数名の特務局員が駆けつけた。意識を失った純夏と総司は彼らによって病院に搬送され、そして高倉の遺体は運び出された。
そして先立って目を覚ました彼女が、事のあらましをベネッドに報告した。怪我の度合いでいえば、純夏は気絶こそしたもののほとんど無傷だったのと、総司本人にあの出来事を説明させるのは酷だろうという判断だった。
レプタイルとの戦闘時はほとんどその場にいなかった上、ファニー・ジョーが現れてすぐに気を失っていた純夏には断片的な報告しか出来なかったが、幸いというかベネッドは繋がったままの携帯電話を通じて状況を把握していたらしく、事実共有に支障はなかった。
二週間前と同じ彼女の自室で純夏の話を聞き終えたベネッドは、沈痛な面持ちで深く頷いた。
「……まず、嬢ちゃんはよくやったよ。アンタの取った行動に、概ね決定的なやらかしは無かった。そのお友達を一人にしたのも、まあ状況を鑑みれば妥当な選択肢だったよ。実際、戻らなければ坊やは危なかったようだし」
「でもその結果、高倉くんは……」
「ママルが出現し、その高倉って子が淘汰対象だったなら、それはもう誰にも防ぎようもないことだった。この町で常々起こっているのは、そういう理不尽な災害なんだよ」
自分を責めるな、とベネッドは言う。その行為には意味など無いと。しかしそんな言葉で慰められるほど、純夏を打ちのめした無力感は甘いものではなかった。
「……それにしても、問題はこの化け物だね」
そんな純夏の心境を果たして察しているのか、ベネッドは手元のタブレットの画面に目を落とす。そこに映っていたのは先日出現した執行人、ファニー・ジョーが高倉を相手に暴れまわる様子だった。
あの化け物が最初に出現したのは、教室ではなく廊下だった。そこで高倉は痛めつけられ、そしておそらくはただの気まぐれで、怪物は彼を生かしたまま教室へと侵入した。背河内高校の廊下には、防犯用の監視カメラが備え付けられているため、ファニー・ジョーが教室に来るまでの間、その姿は映像として記録されていたのだ。
「こいつは異質だよ。強い速いとかそういう事じゃなく、このママルの存在自体が」
「……どういう事ですか?」
「純夏、アンタにはどう見える?この化け物をどう思った?」
ベネッドは質問に答えず、代わりにタブレットの一時停止された映像を指差して、そう訊き返した。
「どうって……何か、他の執行人とは違うような気はします」
「そう、こいつは他とは違う。レプタイルだママルだって話じゃない、根本的にね」
神妙な顔で、彼女は言葉を続ける。
「執行人ってのはシステムの手先だ。そこに個別の意思は無いし、もしあったとしても、淘汰という至上命令のために完全に制御されているのが常。だけどこいつは——」
そこでふとベネッドは言葉を詰まらせた。
「……こいつは、楽しんでいる。人を痛めつけるのを愉悦として味わっている。見ろ、この口元。どう見たって言葉を喋ってるだろ」
この話をしている時点でまだ総司の意識は戻っていない。つまりあの執行人が実際に「喋っていた」という事実や、そもそもファニー・ジョーという名乗りすら彼女らは知らないのだが、それでもベネッドは断言した。
「動物的な闘争本能じゃ無い。こいつは人並みの脳味噌で、殺しを愉しんでいる。こんなのは……まるで人間だよ」
「そんな人間に、会ったことが?」
あまりにも彼女の言葉に迷いが無いので、思わず純夏は訊いてしまい、その後に気付く。今の質問がこの心優しい女兵士の、過去に対する無用な詮索でしか無かったことに。
「まあ、ね」
深々と、彼女は頷いた。
「——私は中東の紛争地帯で生まれ育ったチャイルドソルジャーでね。随分とイカれた人間を見てきた。内戦が終わって行き場を失ったところを零に拾われて今ここにいるけど……あの日々を忘れたりはしない」
「…………」
「人間ってのはね、突き詰めれば何をやっても"人"なのさ。狂気も悪意も人が持ち得る要素の一つだ。『人でなし』なんて、悪逆非道を指す言葉じゃ無い。だから、この執行人も"人"だ」
心底からの忌々しさを交えて、ベネッドは吐き捨てる。
彼女が漏らしたその言葉は、紛れもなく経験に基づく本心だったのだろう。この平和な国で育った人間が語る"死"にはどうしてもあり得ない、リアルな生々しさがそこにはあった。その説得力は、魂が芯から吐き出した言霊だからなのか。
「こんなのが出てくるあたり、システムは確実にどこかが狂ってきている。そもそもレプタイル三体に加えてママルまで出現したってのに、死んだのは一人だったんだろ?」
「……はい」
「ならどう考えても、執行人の数と犠牲者の数が噛み合ってない。こいつが出てきたのには、"淘汰"以外にも何か理由があるのか……」
はっきり言って、純夏に難しいことは分からない。この二週間は"座学"より"実技"の訓練だったし、この町の事情こそ知識で知っているものの、実際にSFSや執行人と何年も関わってきたわけでは無い。
しかしベネッドは違う。彼女は総司や零と共にシステムと戦ってきた当人だ。その彼女がこんな言い方をする以上、予測出来ない事態が今まさに進行しているのは間違いないのだろう。
「本当に零の言った通り、何か大変な変化が起きようとしているのかもしれない。アンタたち二人には悪いけど、休んでる暇は無いかもね」
そんな言葉を締めとして、あの場のミーティングはお開きとなった。
純夏はこの一週間は訓練に出なくていいと言われている。学校が休校になっている期間と一致する時間だ。おそらくはゆっくり休んで傷を癒せという、彼女の心遣いだろう。
だが——果たしてそんな療養期間に、意味があるのか。
純夏は大した怪我をしていない。ファニー・ジョーの蹴りが直撃した腹部にはまだ内出血の痕が残っているが、それくらいだ。癒す必要があるとすれば、心の傷の方であることは自明だった。
級友が目の前で死んだという経験を、果たして心のどこでどう処理すれば良いのか。純夏が欲するものがあるとすれば、その処方だ。
ただ、それでも総司よりは幾分良いというのが現実でもある。何しろ彼は気を失っていた純夏と違い、真の意味で高倉の死を目の当たりにしたのだ。
怪我自体は拳を砕かれたのみで、それも比較的治りやすい折れ方をしていたらしく、結局は彼も一日と経たずに退院出来たのだが、医者とベネッドからしばらくの絶対安静を命じられ、特務局の自室で療養している。
つい昨日に見舞った時にも、そんな彼にいったいどう言葉を掛けていいものかは分からなかった。
純夏が出来たことと言えば、ただ彼の悔恨を聞いただけだ。自責の言葉を発散する相手となるくらいだった。
「俺のせいだ」
開口一番、総司は言った。痛々しく包帯に巻かれた右手を、痛むだろうにそれでも握りしめながら。
「あいつはまだ生きてた。俺が逃せば死なずに済んだ。死なずに済んだ……!俺が、どうにかしてれば!」
呪詛でも吐くように懺悔する姿を前に、果たしてかけられる言葉などあったのだろうか。見舞ったのがベネッドだったなら、あるいは彼を立ち直させることも出来ただろうか。
少なくとも純夏には無理だった。彼の罪悪を無闇に慰めることの無責任さは、そのまま「本当に何も出来なかった」自分へ返ってくるから。
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