第17話

「——とまあ、レディには退場してもらったワケだ」

 戯けるように首を動かして天を仰ぎながら、怪物が次いでその口から発した声を聞いて、いよいよ総司の目は驚愕の色に染まる。

 それは、彼が喋った、、、という事実への驚愕だった。執行人が、ママルが、自分と変わらない流暢な日本語を喋ったことへの。

 確かに今まで、声のようなものを発する執行人はいた。だがそれは総じて、高度な知能の見受けられないレプタイルに限った話だ。あくまで動物のような彼らが発する鳴き声でしかない。

 言葉を発し得る、、、、、、、外見をしているのはママルだが、しかし今まで一度も、実際に彼らが喋ったことなど無かった。あからさまに人間らしいフォルムをした、例えばヘイデンなどもだ。

 内心で恐怖にも勝る当惑を懐く総司。しかしそれを他所に、目の前の道化師は軽々と言葉を続ける。

「ああ安心しろ、骨も折れてないさ。あんな可愛らしいお嬢さんに傷をつけちゃ紳士の名折れだ。眠ってもらった」

 だがな、と耳障りなほど軽快な声で執行人は言った。

「そいつはダメだ。その坊ちゃんはマトモだった。つまり正義の味方ってやつだ。生かしておいちゃいけない。だから坊ちゃんはダメになった、、、、、、

「……!」

 言いながら怪物が指差した先には、窓側に見るも無残な姿で転がる高倉。それを目の当たりにした総司の胸中から、恐れと当惑が消え、代わりにその胸が張り裂けんばかりの怒りを懐く。

「てめえッ……!」

 目の前に立つ化け物が"敵"なのだと、理屈を超えた本能が理解したのだ。目の前の敵は高倉をボロ雑巾にし、純夏を蹴り飛ばした明確な敵だと。その咄嗟の理解が総司に恐れと惑いを忘れさせ、"戦え"という意思を怒りに変換させていた。

 身を焦がすほどの怒りの中、しかし総司は正確な早業で怪物に銃口を向け、照準を定めた。

 先ほどの戦闘で三発の弾丸を消費した。乾燥銃ドライガンの装填数は八発、即ち残弾数は五。それを撃ち尽くす間に、執行人を倒さねばならない。

 いざ引き金に指をかけ——しかし次の瞬間、総司は途方も無い力に襲われる。

 まず最初に解ったのは、自分が宙に浮いていること。次いで、首元から来る圧迫感。さらに呼吸がままならないことに気付き、総司はそこでようやく、苦しげに咳き込んだ。

「がッ、は……!」

 喉の内に溜まっていた息を吐き出しても、一向に圧迫感は消えない。さもありなん、本来空気が通るべき気管は、凄まじい力で外部から押し閉じられていたのだから。

 怪物の片手で首を掴まれ、体ごと持ち上げられている。それが総司の現状だった。

 あり得ない、という思いと同時に絶望的な納得を総司は懐く。

 怒りで多少の冷静さを失っていたことは否めないが、それでも彼は直前まで執行人に銃を向けていた。その頭蓋を打ち砕かんと敵を凝視し、照準を定めていたはずなのだ。それがいつの間にか、、、、、、視界から姿を消し、気付けば、、、、首を絞められていたなど、笑い話にもならない。

 しかし総司は、自分が相対している化け物はそれがあり得る存在なのだということを、今更のように思い出していた。

 "ママル"——未だ人が自力で打ち勝った事のない、SFSというシステムの脅威をそのままに示すような存在。彼らは見たまま"超人"であり、そして"怪物"だ。

 目の前の道化師にしても、つまりこの化け物は半端ではなく速い、、のだ。総司の視覚が正しく認識出来ないほどの素早さで彼の懐に入り込み、そして気付いた時には首を絞め上げられているほどに。

 考えてみれば、なぜ銃など向けたのか。ただ狙いをつけて発砲すれば倒せる相手ではない事など自明だったはずだ。ママルに相対したならば定石として、生存者ともども逃げることを考えるべきだったのだ。

「ぐ……!」

 呼吸困難で薄らぐ意識の中、それでも総司の判断力は消えてはいなかった。

 確かに目の前の化け物は、笑えるほどに速いのだろう。普通に銃を向けたところで当たりはしない。だが今、敵は総司の喉元を持ち上げている。即ち、この苦しみが続く限り敵の位置は"目の前"に固定されている。そして何より、絞め封じられているのは首元のみ——銃を握った右手は、未だ自由。

 そう判じるや否や、総司は全力で右腕を持ち上げ、銃口を眼前の執行人に向けた。外しようもない至近距離。その照準が合う先は、悍ましいほどの笑みに歪んだ怪物の口元だ。

"死ね——!"

 そうして再び、教室に銃声が鳴り響く。

 首の圧迫感はまだ消えていない。化け物は総司の前に立ったままだ。つまり放たれた弾丸は、強烈な笑顔故に半開きだったその口に叩き込まれ、敵の体を内から破壊する。——はずだった。

「な……!?」

 恐怖と戦慄に、今度こそ自分の表情が歪むのを総司は感じていた。

 敵は笑っている。狂気の道化師は口元に引きつるほどの笑みを浮かべたまま、その顔には、毛ほども苦痛の痕跡がない。それもそのはずだ。弾丸はその肉体を破壊などしていないのだから。

 至近距離からの発砲は、およそ常識では考えられない方法で防御、、されている。

 簡単に言えば、弾は"歯"で挟まれていた。上下から人間のように生えそろった歯で、まるで飴玉でも弄ぶかのように噛み止められている。発想自体が児戯に等しいその行為で弾速は完全に殺され、総司の攻撃は無力化されていた。

「どうした。泣きそうじゃないか」

 戯ける調子はそのまま、怪物は咥えた弾丸を吐き出しながらその顔をぐいと総司に近づけ、嘲る。耳元まで裂けた口に、そこから剥き出しになった歯茎。その"笑み"が至近距離に迫り、総司は眉を顰めた。

 が、そんな相手の様子には頓着せずに、執行人は言葉を続ける。

「俺はファニー・ジョー——ジョーとは"JOKER"の"JO"であり、同時に"JAWS"の"JAW"(顎)だ。チャチな正義の弾丸じゃあ殺せんよ」

 猫撫で声とすら表現できる穏やかな声で、まるで教え子を諭すような様子でその執行人——ファニー・ジョーは、言うや空いた右腕を動かし、総司の手に持った乾燥銃ドライガンの銃身を掴む。そこに力が込められていくと、全方位からの圧力に晒された銃身はたちまちひび割れ、破壊された。

 あまりに条理から外れたファニー・ジョーの防御法に呆気にとられていた総司は、為す術もなく、自分が持ち得る最も有用な武器が破壊されるのを眺めていることしか出来なかった。

「"よく狙え、お前はこれから一人の男を殺すんだ"——ただし構えるのは拳だぞ。こんな外道の武器は使うな、魂が腐る」

 ペチペチと、総司の頬を軽く叩きながら笑うファニー・ジョー。あまりに馴れ馴れしい態度に虫酸が走る総司だが、迸った怒りが表に出ることはなかった。まるで再び冷静さを失ったタイミングを見計らったように、次の瞬間、その身体は宙へと投げ飛ばされていた。

「命のやり取りをするんだ。素手が礼儀マナーだ。分かるだろう?」

 頭から壁に衝突し床を転がる総司を、ファニー・ジョーは狂気に濁った双眸で見下ろす。

「く、そ……!」

 先程からの戦闘の疲労がいよいよ祟ったのか、節々が痛む身体に鞭打って総司は立ち上がる。しかしその行為にも、もうほとんど意味はなかった。銃が破壊された以上はもはや、万に一つの勝機すら望めない。

 使い物にならない武器を捨て、それでも総司が拳を構えるのは——果たして怒りのためか、矜恃のためか。

 そんな傷だらけの少年の姿を見て、ファニー・ジョーはさも嬉しそうに哄笑した。

「……何が可笑しい!?」

 まともな会話など望むべくもないと分かっていながら、それでも総司は訊かずにいられなかった。その笑いが嘲笑ならば解る。勝ち目のない勝負にそれでも身を投じる子供を相手には、嘲りもするだろう。

 だが今、ファニー・ジョーは嬉しそう、、、、なのだ。まるで探し求めた宝を手にとった海賊のように、屈託無く高笑いする化け物。その様があまりにおぞましく、問い質さずにはいられなかった。

「……何が、だと?お前が、だ」

 ひとしきり笑った後、ファニー・ジョーは答える。

「お前のような奴と会えたこと。それが歓喜だ。俺とそっくり、、、、、、なお前との出会いへの、祝福だ」

「何を……!」

 あまりにふざけたその返答に、総司の憤りは臨界点を超える。

 自分がこの化け物とそっくりなど、戯言も甚だしい。怒りを懐くことすら馬鹿馬鹿しいほどの口上だが、それでも彼は激昂した。彼はとうに冷静さなど失っていたのだから、それも当然だったろう。

 激情のままに総司はファニー・ジョーへと殴りかかる。もっとも、その行動があまりに無謀であることは誰の目にも明らかだった。執行人は自らへと向けられた小さな拳を、その左手で手首を掴んでいとも容易く止めた。

「俺とお前は同じなのさ」

 囁くように、ファニー・ジョーは言った。

「システムを憎むか?正義を目指すか?成る程どちらも子供らしく素敵な夢だな。だが分かってるはずだ。お前はそれじゃ満たされない」

 がっちりと敵の手元に固定された拳を自由にしようと足掻く総司だが、どれだけ力を込めても枷が解かれることはなかった。どころかファニー・ジョーは、言葉が続くごとに左手に力を込めていく。

「小僧、お前も俺も本質は同じだぜ。気狂いの化け物でしかない」

「黙れ……!」

「俺もお前も同じだ。結局のところ戦うことしか出来ない人種。まずはそれを自分で認めなければ、満足に生きることも出来んぞ?」

 ファニー・ジョーは笑った。痛烈に、痛快に、歓喜した。そうとしか見えなかった。

 そしてそう認識した次の瞬間、総司の手首に重く鈍い痛みが走る。

「ぐ、あッ!」

 凄まじい握力によって、総司の手首は握り潰されていた。まず間違いなく骨ごと砕かれているだろう。多少身体に切り傷が入ったくらいでは動じなかった総司だが、これには苦痛の悲鳴を上げる。

 同時にファニー・ジョーはその手首から手を離し、自由にした。痛みに悶える総司にはもはや脚に力を入れて体を支えるだけの余裕が無かった。彼は途端に、砕かれた右手だけは抑えて庇いながら床に膝をついた。

「ぐっ……!」

 呻くような声には、苦痛と怒りとの両方が籠っていた。それは自らの腕を握り砕いた目の前の怪物への怒りと、為すすべなく敗北した自分への怒りだった。

 そんな様子を一瞥して、しかしファニー・ジョーはそれ以上総司に何をする事もなく、歩を進める。怪物一体のほか、いる人間は全て倒れ伏したこの狭い教室の中、彼が歩む先に転がっていたのは——手足を折られ、執拗に痛めつけられた高倉だった。

「……う」

 身動きも出来ないであろう大怪我を負いながらそれでも息のある優等生は、すぐ傍に立つ巨大な怪物と比べてしまえば、さながら足を捥がれた蟻にも等しい。

「何を……する気だ」

「執行人の本懐だ。忘れてはいまい?我らは人を殺す為に在るのだということを」

 言いながらファニー・ジョーは高倉の前にしゃがみ込むと、その左手を手刀の形にし、彼の心臓の直上、胸のあたりに当てた。

「待て……!やめろ!」

 叫ぶ総司に一瞥くれると、怪物はその口元をさらに歪めた。

「歓喜の時だ」

 その短い言葉を言い終わるより早く、手刀は高倉の胸を貫いた。

 刹那、音が響く。人の肉体が貫かれる音。命が終わらせられる音。幾度も聞いた死の音が、学舎に響く。それと同時に骸と化したその肉体から流れ出た赤が、床を染めていった。

「は——、はは、ははははははははッ!」

 ——下卑た哄笑が、喪われた魂をも穢していく。当人が述べた通りの"歓喜"が、空間を染め上げていく。

 その侮辱を前に、それでも総司の口からは掠れ声すら出なかった。憎悪の叫びも、悲嘆の声も、懐いた絶望の前には掻き消えた。

"——俺は、何を間違えた?"

 この場における、総司が取った行動の誤りは明確だ。そもそも執行人とは誰かを殺し、犠牲にする為に出現するものだ。それを撃退できなければ、最低でも誰か一人が死ぬことは確定している。

 だが、ファニー・ジョーが出現した時点では少なくとも、まだ誰も死んではいなかった。兎にも角にも、生存者を逃すことを考えるべきだったのだ。この状況がベネッドに伝わっている以上、応援が寄越されているのは間違いない。彼らと合流さえ出来れば、全員が逃げ切れる目もまたあった。

 その誤りが、間違いが、あるいはファニー・ジョーという化け物の目の前に高倉を放置させた。

 自分の判断さえ間違えていなければ、あるいは彼は助かったかもしれない。そんな"仮定"は延々と総司の脳裏を回り続け、あるべき結論へと帰結する。——すなわち彼の死は、自らの咎であると。

 自分のせいで人が死んだ。だとすれば、その事実が絶望でなくて何なのか。その白々しい空虚さの前には、滾る怒りも凍りつく哀しみも些末な事だった。

 左の頬を、不意に涙が伝っていく。音もなく溢れ出したそれの正体は、ファニー・ジョーへの憎悪でなく自らへの憤怒だった。

「嬉し涙か?」

 悠然と煽りながら歩み寄る怪物すら、目に入らない。そんな総司を相変わらず可笑しそうに見下ろしながら、ファニー・ジョーは倒れ伏した彼の髪を鷲掴みにする。

「お別れに手品をしようか。三秒数えたらお前は目を瞑れ。次に開いた時には、俺はここから消えている。さん、にぃ——」

 "二"を言い終わる前にファニー・ジョーは、掴んだ頭を勢いよく床へと叩きつける。肉体的にも精神的にも疲弊の極致にあった総司が額からの衝撃に耐えられるはずもなく、たちまちに彼の意識は薄れていく。

 最後には、もはや何の感情も懐かなかった。懐いたところで意味があるとさえ思えなかった。

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