第16話

 執行人の肉体は、M2因子と呼ばれる特殊な細胞で構成されている。これは地上に存在するありとあらゆる分子カテゴリーから外れた未知の物質で、現状ではどこか、、、から執行人が出現する際にのみ、観測されるものだ。

 当然ながら、この物質の研究・解析には途方も無い時間を要した。

 何しろ根本的に、ほんの一時のみにしか実在できない物質だ。完全なサンプルと呼べるものは存在せず、唯一手がかりとなるのは、時折彼らが残していく、爪や牙の破片などの「残りカス」のみ。

 結果として、今から十五年ほど前。

 最初に執行人が出現してから約四十年が経ち、零の号令によって全国の研究者が集結してようやく、それ、、は完成した。

 特殊細胞拡散化粒子——人工的に作り出されたこの物質は、接触と同時にM2因子の固形性を打ち消し、拡散させる。

 この化学兵器を銃弾として利用できる携帯武器が、乾燥銃ドライガンだ。総司はいざという時のためにこの銃を、"すぐに使える"状態で教室の外付けロッカーにしまっていた。

 そしてそれは——その"万が一"において、やはり効果覿面な備えだった。

 総司が全身を使って床に固定した執行人の、その肉体が崩壊していく。最初はタイヤから空気が抜けていくような音だった。徐々にそこに、パキパキとコンクリートの表面が劣化し剥がれていくような音が混ざり、最後にはガラスが音を立てて割れるような、甲高い破壊音となる。

 銃弾が撃ち出された先は、仰向けに押し倒されたレプタイルの口腔内。そこは執行人にほぼ共通する「弱点」だ。

 乾燥銃ドライガンは執行人に対してとりわけ有効な武器だが、その弾丸の性質は、何も皮膚を掠めさえすれば殺せるというほど強力なものでも無い。一発で確実に仕留めようと思うならば、弾丸は表皮や骨格のさらに奥、内臓部分にまで届かせる必要がある。そうした体内からの侵食こそが、執行人を殺す際に狙うべき決定打だ。

 取りも直さず、この場での効果は絶対だった。

 口腔から体内へとそのまま弾丸を撃ち込まれた執行人の有様は、まさに波に崩れ去る砂城そのものだった。

 内側から肉体は崩壊し、見る見るうちに崩れていく。熱に晒された氷が溶け、風に晒された岩が砂と化すように、この世からその存在が消えていく。もはや総司の足元にあるのは、化け物の残骸でしかない。

「一匹!」

 その様を見下ろして得意げに手柄を叫びながら、総司は右手に銃、左手にアルミ脚を握り込み、辺りに視線を走らせる。

 残る二体の執行人は、突然に味方を失った動揺からか再びの攻撃を躊躇した。一方総司はたった今、敵勢の一体を始末したばかり。この精神力テンションの差は、彼我の間に決定的な隙を生み出した。

 総司は脇目も振らず、残った二体のうち自分に近い方の執行人に飛びかかる。まず振り下ろしたのは、アルミ脚を握り込んだ左手。敵の頭部にその先端を叩きつけ、床を転がった執行人の体が仰向けになった一瞬を見計ると、間髪入れずその腹に踵を落とし込んだ。

「二匹!」

 踏みつけによる動きの封殺に加え、腹部への一撃による怯み、硬直。真上から口腔を狙い、弾丸を命中させるには十分すぎる。

 かくして総司が叫ぶと同時に、銃声が響き渡り、二体目のレプタイルはこの世から消滅した。

 一体目から二体目、その始末作業に要した時間は僅か五秒ほど。ただその間は、最後の一体となった執行人が体勢を立て直すのにも、流石に十分だった。

 仲間を失いながらも単身、敵を屠らんと跳躍するレプタイル。しかしこの局面、総司の手に"殺し切れる武器"が渡った時点で、もはや執行人側に勝ち目は無かった。

 自らに迫る執行人を冷徹に見据えた上で、総司はいよいよ仕上げにかかる。

 まず彼は、左手のアルミ脚を投げ捨てた。一対一サシの現状、わざわざ片手に重石、、を抱え込む必要はないと判断したからだ。もちろんその際、敵の来る前方に投げるのも忘れない。

 空中に放り出されたアルミ脚は、執行人の横腹を掠め、カーテン越しに窓ガラスへと激突する。

 その衝撃音の中、総司は迫り来る執行人の首元に手を伸ばし、筋力だけを頼みにその勢いを封殺し、敵を宙に掴み止めた。

 首元から持ち上げたられた執行人は、その口を中途半端に開いたまま、何やら金魚のようにぱくぱくと動かしている。その僅かな隙間に咥えさせる形で、総司は無理矢理に銃口をねじ込んだ。取りも直さず、外しようもない完全な照準の固定である。

 すなわち——

「——三匹!」

 乾いた爆音は執行人の体内に反響し、くぐもった重低音と化して響く。放たれた弾丸は敵の体内を跳ね回り、その肉体を蹂躙したことだろう。レプタイルの主細胞たるM2因子は崩壊し、三体の執行人は共に屍と果てた。

 疑いようもない、総司の勝利だった。

 一つ息を吐くと、総司はボロ切れ同然の屍と化したレプタイルを、無造作に後ろへ放り投げた。と、その時、やおら仕切りの向こうから純夏が顔を出す。

「あ、総司くん……」

「よう、終わったぞ」

 決着がついてみれば、それはほんの一分程度の戦闘だった。とはいえ決して生半な戦いでなかったことは、総司の乱れた息や手元の出血が物語っている。

 諸々の感慨は抜きにして、取り敢えず純夏は労いの言葉をかける。

「その、お疲れ様」

「ああ。……まあなんだ、お前にも助けられたよ」

 右手に握り込んだままの拳銃を見下ろしながら、総司はやや恥じ入るように言った。

 純夏が特務局で活動することには何かと否定的な彼だが、とはいえこの局面では、彼女の存在は大いに助けとなったのも事実だ。そこは認めなければ筋が通らない。

「こう言うのもなんだが、さっき指示を飛ばした時は、賭けをした気分だったよ。咄嗟のことで、お前が冷静に動いてくれるとは限らなかったからな」

 これもまた事実だった。あの時にもし純夏が指示を聞き漏らしたり、指示の意図を図りあぐねて教室に入って来たりしていたら、ここまで五体無事に事を運ぶことは出来なかった。

「……まあ、いきなり教室から大声が聞こえた時はそりゃあ驚いたけど。でも私だって役に立つために戻ってきたんだから、やれることはきちんとやらないと」

「ああそう、それだ。お前が戻ってきたのはやっぱり、高倉の考えか」

「うん。迷ったけど、まあ私が戻るべきって言うのも正論かなって思って。その、ごめんね?」

 思わずといった感じに、純夏の口からは自然と謝罪が漏れる。

 実のところ高倉の提案に頷いた時点で、彼女は戻った先で総司の機嫌を損ねる覚悟をしていた。あくまで対執行人の先輩である総司の指令は「高倉と職員室に行け」というものだ。ここに戻ってきたということは、その彼の指示と高倉の提案とを秤にかけ、後者を選んだということに他ならない。

 それゆえの気まずい謝罪だったが、総司はさして気にした風もなく、かぶりを振った。

「結果オーライだ、それに関しちゃ文句はねえよ。文句があるとすれば……」

 そこまで言って総司は、癇癪を起こしたように唐突に地団駄を踏んだ。

「……これで全部バレちまった事だ!くそ、今までずっと隠してたのに!」

「あ、ああ……そういう事ね」

 頭を抱える総司を前に、純夏は苦笑する。

 総司が特務局での生活を隠しているというのは言うまでもない。純夏はべつだん秘密にする必要も感じなかったが、総司がそうしているならばと、今までそれに倣っていた。

 しかし今日の件で、少なくとも高倉にはその秘密が露見した訳だ。「文句がある」のはつまり、そこに関してだった。

「でももう、バレちゃったものは仕方ないじゃない。それに高倉くんだったら、お願いすれば秘密は守ってくれるんじゃ……」

「あのな、この学校に執行人が出たってのは事実なんだ。流石にその根本的な情報は広がっちまう。そうなれば、『じゃあ誰が執行人を退治したんだ?』ってことになるだろ」

 さも忌々しげに、総司は続ける。

「人の噂に戸は立てられねえ。……くそ、それもこれもこいつらが、よりによってこんなところに出でくるからだ!」

 吐き捨てながら総司は、燃え滓のようになったレプタイルの死骸を踏みつける。

 そんな荒々しい様子を眺めながら、純夏は対照的に笑顔だった。まだ殺伐とした戦闘の残り香が漂うこの雰囲気の中、むしろ個人の範疇の悩み事で頭を抱える総司の様子が、なんとも滑稽で安心したからだ。

「でも総司くん、この分だと文化祭は中止なんじゃない?というか、二、三日は休校になるのが普通じゃないかな」

「……は?」

「だからほら、この惨状をどうにかしなきゃじゃない」

 辺りを見回しながら言う純夏を見て、総司はようやく彼女の言いたいことが分かったらしい。

「ああ……ぐっちゃぐちゃだな」

 執行人が暴れまわった最も分かりやすい証拠として、この教室の散らかり具合だ。

 準備期間の数日、丹精込めてクラス全員で設えてきた内装が、もう見る影もない。通路用の仕切など、ほとんどが倒れるか壊れるかしていて、無事で残っているのはたった今純夏が通ってきた教室前側のものを含めて三枚程度だ。

「ねえ、まさかこれ、今から私たちが直すなんてことは……」

「あるわけねえだろ、文化祭とか中止だ中止。窓割れてるしな。流石にこんな事件の翌日に部外者を招き込んでお祭りやるほど常識ナシじゃねえだろ」

 まあそれが妥当なところだろうと、純夏も思ってはいた。

 もしこのまま文化祭を開催したいなら、今あったことを隠し通すほか道は無いだろう。しかし教室の状況は惨状も惨状で、このまま二人で隠蔽作業というのは無理がある。

 この町に往々にして執行人が出現するのは周知の事実だから、「信じてもらえない」なんてオチも無い。そもそも高倉はとっくに職員室に着いているだろう。

「でも、やっぱり少し残念だな……文化祭は私、ちょっと楽しみだったのに」

「……まあ、少しな」

 渋々といった風に頷く総司を見て、純夏はくすりと笑みを漏らす。不機嫌な、それでいて素直でない彼の様子は、見ていて安心を覚えるのに十分な"日常"で、純夏は胸を撫で下ろす。

 執行人との戦闘。彼女にとっては紛れもなく初体験のことだ。正確には純夏がしたのは戦う総司のために武器を運んだことくらいだが、それでも今この件に関しては、戦いの当事者と言って良いだろう。

 それが無事に終わった。誰も死ぬことなく、実際に敵と殺し合いを演じた総司も、擦り傷程度の怪我で済んだ。

 二週間前にヘイデンというあまりに恐ろしい執行人と出会っていた純夏にとっては、その事実は、過剰なほどに安堵してなお余りあるほどの事だった。

 ——そんな和やかな空気が、次の瞬間に瓦解するまでは。

 まず初めにその空気を打ち破ったのは、コンクリートの壁が総じて崩れるような破壊音だった。

 否、「ような」ではない。実際に二人のいる教室の壁は、凄まじい力で破壊されていた。

「な——!?」

 驚嘆の声は、しかし掻き消される。崩れた壁の向こう側から何かが投げ込まれたからだ。未だ倒れずに残っていた窓側の仕切り二枚をまとめてなぎ倒し、勢いのままに床を跳ね、窓へと激突したその物体は、至る所から赤黒い液体を垂れ流していた。

 物体には手足があった。四本のそれらは全てあらぬ方向へ折れ曲がり、クラスの異性を虜にしていた整った幼顔は、見る影もなく腫れ上がっている。

 それは高倉だった。

 見るに耐えないほど痛めつけられてはいるものの、どうやらまだ息はあるらしい。その顔には生々しく苦痛の表情が浮かんでいるし、何本か歯の欠けた口元からは、僅かに呻き声のようなものが聞こえる。

「高く……!」

「待て」

 名前を呼んで駆け寄ろうとする純夏を、総司はそう叫んで制止する。少なくとも本人は、叫んだつもりだった。それほどに声量が出なかったのは、まず間違いなく、恐怖で身が竦み上がっているからだ。

 彼の目は、崩壊した壁の向こうからこちらを見る化け物に釘付けになっていた。純夏も総司に呼び止められて、ようやくその存在に気付く。

 ——鼻歌、だった。壁の向こうから聴こえてくるのは。

 二人には馴染みのない、独特のリズム。察するにどこか外国の民謡か、それとも洋楽か。

「————」

 何かを言おうと、身構える。高倉の身を案じる言葉か、それとも、もう片方に逃げろと言うか。しかし二人の口からはただ一言の言葉すら漏れなかった。二人が二人とも、その存在に圧倒され、寸分も動けずにいる。純夏に至っては、その目尻に涙さえ溢れていた。

 それほどまでに圧倒的な、恐怖を孕んだ存在。崩れた瓦礫が巻き上げた粉塵が晴れ、いよいよその全貌が明るみに出ようという時——突如、二人の眼前からそのシルエットが消える。

「え……」

 純夏の口から漏れた声は何かを言おうとしたのではなく、横合いから襲った衝撃と痛みに耐えかねた彼女の体が空気を吐き出しただけのことだった。つまりは苦痛からなる悲鳴なのだが、その悲鳴がきちんとした発音を成す前に、彼女の身体は藁屑のように宙を舞い、吹っ飛ばされていた。

 弾かれるピンポン玉さながらに、純夏は教室前側に残った最後の仕切りを倒し、黒板へ激突した。人の体をそのまま宙に弾くほどの衝撃に続き、硬質の黒板への後頭部からの衝突。それらのダメージを前に意識を保つことなど望むべくもなく、純夏はたちどころに気を失った。

「…………ッ」

 仲間の危機を前に、しかし総司はやはり、声を上げることはできなかった。

 純夏が食らったのは、横合いからの裏拳である。つまりは彼女に攻撃を加える意志を持つ敵が、そのまま彼女の横にいたということだ。そこは、総司からすれば目の前も同然の位置関係だった。

 息を詰まらせたまま、総司は眼前の体躯を見上げる。

 見るからに筋骨隆々とした、衣類や装甲の類に遮られることなく外気に晒された上半身。肌は生物らしさの全く感じられない白色で、その相貌には不気味なほどに剽軽なメイクが施されている。

 有り体に言って、そこにいたのは巨大な道化師だった。

 その笑えるほどの存在感と掛け値無しの"圧"は、まず間違いなく一般種レプタイルではあり得ない。当然、こんな異形の怪物が人間であるはずもない。

 上位種ママル——自らの前に立つ化け物が、未だヒトの身で勝つことの叶わない存在なのだと、総司はそう理解した。

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