第15話


 執行人と総司の死闘は、その悉くが鮮烈を極めていた。

 何しろただ一人の人間に対して、執行人が三体だ。緩急織り交ぜた三方向からの攻撃に対応するならば、自ずとその動きも苛烈なものになる。

 レプタイルは、もはや完全に総司のみを敵性の者として捉えているようだった。

 彼らが執行人である以上、そこにはシステムに選抜された特定人物の淘汰という命令オーダーがあるはずだ。だがそのことは既に、彼らの頭からは抜け落ちているらしい。

 動物的な側面の強いレプタイルは、いったん目の前の相手を「敵」と見定めると、それを倒す事を行動原理とし、集中してしまう。ひとえに"一般種"たる、性能の限界だ。

「ギイイイィィィ——ッ!」

 蝉の声と獣の咆哮を織り交ぜたようなデスボイスじみた威嚇の声が、鼓膜を震わせる。その中で総司は、努めて冷静に立ち回っていた。

 幸いにも、教室の状況は普段とはまったく違う。障害物となる机椅子の類は移動が済んでいるし、仕切りがなぎ倒されたことで一定の広い空間も確保された。その上でこの場には、彼我の戦力差を埋めうる小道具も、ある程度は揃っている。

 先の彼の体捌きからすれば意外に思われる事実かもしれないが、これは総司にとって不利な勝負だった。

 いくら卓越した技能を身につけようと、所詮はたかだか齢十七のヒトの身体。対する敵の戦力は、大まかに「狼サイズのライオン三頭」と考えて相違ない。

 さっき彼らの攻撃に対応できた理由を問われれば、状況に恵まれたとしか言えない。

 敵三体と自分との距離が離れていたこと。三体同時の直線的な攻撃だったこと。それらの要素が揃って初めて、あそこまで効率よくカウンターを合わせられたのだ。

「……!」

 壁際に立つ総司への、左後方からの鋭い爪による薙ぎ。察知した彼は、身体を前方へと倒してそれを回避する。

 その勢いのまま床に手をつくと、総司は腕に力を込め、下半身ごと両脚を振り上げた。空中で弧を描いた二つの爪先はそのまま、たった今攻撃を躱されたレプタイルを両脇から挟むと、重力のままその肉体を壁へと叩きつける。

 人間であれば脳震盪ものの一撃だが、この執行人の体は昆虫の外骨格のようなもので覆われている。これで倒せるほど柔らかくはないだろう。

 総司もそれは理解していた。だからこそ彼は壁を蹴って立ち上がると同時に、たった今釘打ちの憂き目に遭ったレプタイルの頭をそのまま掴み、振り向きざまに投げ飛ばしたのだ。

 かくして——後方に迫っていたもう一体のレプタイルは、哀れ投擲物として扱われた個体とそのまま衝突し、再び床に転がった。

"————ッ!"

 危機回避の安息も束の間、総司は咄嗟に首を右へと傾けた。するとコンマ一秒前まで彼の首筋があった場所を、鉤爪の切っ先が鋭く通り抜けて行く。

 仲間二体が倒されるその裏での、もう一体が背後からの奇襲。回避できたのは六割がた勘のおかげだ。

 学習している——そう理解した途端、総司は不意に足元からバランスを崩して倒れ込んだ。

 今しがた攻撃を回避された執行人が、着地するや否やその"後脚"を伸ばし、足払いを仕掛けていたのだ。彼らの前脚に鋭い爪が備わっている反面、後脚は太くできているらしく、総司の直立姿勢を崩すには十分だった。

「ぐっ——!」

 背中を壁に擦りながら尻餅をつく総司。それは執行人を相手に、決定的な隙だった。

 うち二体は離れた位置にいたので攻撃を食らうことは無かったが、至近距離の一体は話が別だ。払った足の回る勢いそのままに、執行人は鉤爪を掲げるように上げると、一息に総司の喉笛を目掛けて振り下ろした。

 爪の先端がその喉仏へ吸い込まれて行き——刹那、総司の血肉と執行人の鉤爪とが接触し混ざり合う。

「——!?」

 驚愕はしかし、執行人のものだった。

 何しろレプタイルの低程度な認識能力からしても、そこには確実に"獲った"という感触があったのだ。現に、鉤爪の先には肉を貫く感触があったし、爪を伝って指には血が滴っている。

 にも関わらず、目の前の獲物は未だ絶命していない。

 どころか、そこにあるのは口角を吊り上げた顔の形。つまりは総司がその表情に浮かべた、不敵な笑みだった。

「——舐めんな」

 声を荒げるでもなく、苦痛に悶える気配をも微塵も漏らさずに総司は嘯き、同時にぐいとその右手に力を込め、握ったモノを前へと押し戻す。彼が利き手を使って捕らえていたのは、まさしく執行人が携える"凶器"——触れれば切れる爪そのものだった。

 人差し指と中指の間に挟まれる形でがっちりと固定された鉤爪は、実際に総司の指の肉を抉っていた。その場所には三センチほど切り込みが入り、手のひらを伝った鮮血が

教室の床を汚している。

 しかし——不思議と苦痛は感じない。

 鋭く滲むような"痛み"は、確かに手先から脳へと伝達されている。だがそれが苦痛ではない。むしろ、総司が今その胸に懐く感覚は痛みに対する苦悶と言うより、何故だか高揚感に近い。

「ははッ」

 短く笑い声をその口から吐き出すと、総司は鉤爪を捕らえた右手から、やおら力を抜いた。途端にレプタイルは体勢を崩して、空中に放り出される形となる。

 そこはちょうど、床に投げ出された総司の脚のうち、膝の直上にあたる位置だった。かくして執行人は真下からの膝打ちを食らうこととなり、その挙句に次いで突き出された総司の拳と直撃すると、教室の向こうへ吹っ飛んでいった。

 辛くも敵を捌き切った総司だったが、それで攻撃は終わりではなかった。

 一個体を処理する間に、さっき遠ざけた二体は既に体勢を立て直している。彼らは間髪入れずに、しかし絶妙にタイミングを違えて飛び掛かってくる。

「く……!」

 総司は身を捻ると、床を転がる形でそれらの攻撃を回避し、そのまま足の裏を地につけ、無防備な格好から脱却する。だがそうしている間に、たった今殴り飛ばしたばかりの個体すらが立ち上がっている。

 さらには、たった今躱したはずの二体が再び目の前に迫っていた。衝突しかかったロッカーに爪を食い込ませ、ブレーキをかけた上で方向を転換していたのだ。タイミングのズレこそ消えたが、獲物を取り囲むような位置関係は変わっていない。対して総司は、もはや教室の角隅にまで追い詰められていた。

 ——否、それは"追い詰められた"わけではなかった。

 次の瞬間、二体のレプタイルは弾き飛ばされていた。間合いで考えれば総司の腕も脚も届かない位置で、だ。

「今日という日に助けられたな……」

 そう漏らす総司の手に握られていたのは、展示ボードの固定などに使われるアルミ製の"脚"だった。

 普段の教室なら、その隅に置かれているのはせいぜい箒が数本だ。しかし今日は違う。文化祭当日とその準備日程期間には、ほぼ必ず、数本のこれ、、が安置されている。

 この教室では、スタッフルームサボり部屋を仕切るために数枚配置されているボード。それを固定するアルミ脚は、年々数本は余るのが常だ。そしてそれらの余りは、大概において文化祭が終わるまで、その教室の隅に片付けられる。

 木製の箒やプラスチック製のモップの柄とは違う。本気で使えば人を殺せるレベルの、硬度と強度を誇る紛れも無い"凶器"だ。空中の執行人を撃ち落としたのは、このアルミ脚の先端だった。

 ——が、殺し切るには足りなかった。

「硬い……!」

 憎々しげに総司は吐き漏らす。

 思いの外、というより無い。この執行人が備えていた装甲は、それなりにそれなりの硬度を誇っているらしい。金属製の武器による殴打は結果として、その甲羅に亀裂を入れただけだった。

 これが例えば生物相手ならば、十分な打撃だったかもしれない。しかしこの場合、ただダメージを与えるだけの攻撃は意味を成さない。やるならば、致命傷を与えなければならないのだ。

 執行人は普通の人間や猛獣と違い、痛みに怯むことも、敵の脅威を推し量り退く事もない。"殺す"以外の方法で、その行動を阻止することはできない。きちんと息の根を止められなければ、永遠にこの殺し合いは続くのだ。——さもなくば、総司が生き絶えるまで。

 さてどうしたものか——思案する総司の耳に、ふと意識の外側から、足音が響いた。

 一瞬は新手を疑った総司だが、そのぱたぱたという音がどうも上履きで廊下を走っているものらしいと思い当たって、当惑に眉を顰める。

 足音の軽さからして、走っているのは純夏だろう。音の聞こえる方向から考えればこちらに戻って来ていることは明白なのだが、総司が彼女を含めた二人をここから逃がしてから、まだ数十秒しか経っていない。指示された役目を果たしてから戻って来た訳ではないだろう。

 足音は一人分だ。ならば、職員室には高倉が一人向かったということだろうか。

"あいつ……!"

 確かにこの教室から離れれば、護衛など無くともその人間の身はほとんど安全だろう。職員室で教師らを逃すのに、二人分の人手は必要ない。ならば委員長であり、ある程度の信頼がある高倉を行かせるのはまあ自然な判断だ。そうして純夏の方は、総司のサポートに戻る。

 合理的ではあるが、しかしこの場面で高倉を一人にするという判断を、純夏が下したとは考えにくい。おそらく、高倉が自分で言い出したのだろう。

 なるほど傑物たる彼らしい判断だが、しかしその判断が総司にとって有利に働くかと言えば——否、だ。

 執行人との戦いは、想像上に苛烈を極めている。純夏の力では、まだこの状況で戦力にはなれない。つまりこのまま彼女が教室に入ってくれば、必然的に総司は、足を引っ張られることになる。

 それは、些か以上にまずい。

 面倒なことをしてくれた——そこまで考えて、総司はいや、と思い直す。

 この状況で、純夏の存在を最も役立てるにはどうするべきか。そこに思い当たったのだ。

 彼女がここに来ると足手纏いになるならば、彼女をここに来させなければいい。外のロッカーの中には、あれ、、がある。

「——止まれ狩宮!」

 総司は叫んだ。あらん限り、廊下にまで響き渡るように。

「俺のロッカーを開けろ!中に入ってるものを持ってこい!大至急だ!」

 この場に戻ってきた仲間を活用する、これが最善の指令だった。

 外からは最初、戸惑い立ち止まるような気配があったものの、総司が叫び終えると再び足音が鳴り始めた。先ほどまでのいたずらな全力疾走とは違う、明瞭に目指す場所を定めた確かな足どりだ。

 良しと内心で頷いて、総司は硬い"脚"を掴む右手に力を込めると、同時に強く床を蹴った。

 そうして再び、戦闘は再開する。

 指示を飛ばす間に、執行人たちはとうに四本の脚で正常に立っていた。こちらに牙を剥く三体は、間隔を大きく開けて陣取っている。

 総司はそのうち右端の一体に狙いを定め、全力を込めて手に持った鈍器を振り下ろす。あまりに直線的だった攻撃は当然のように回避され、代わりにアルミ脚が床に叩きつけられると、派手な衝突音を奏でた。

 大振りの攻撃というものには、それに比例した大きさの"隙"が伴うものだ。今の総司にも、それはあった。だからこそ執行人はそれを逃すまいと、三方向から飛びかかった。

 が、そんなことは総司も織り込み済みだ。

 握り込んだアルミ脚は、床となるべく垂直の方向になるように叩きつけられていた。勢いはそのまま床からの反動に転じ、総司を持ち上げる。つまりは棒高跳びの要領で、その身体は宙に浮かび上がり、迎撃の体勢をとる。

 ポールダンサーのような格好になった総司だが、その視界内にはきちんとこちらに向かってくる三体の敵影が捉えられていた。一時的に地上の重力から解放された二本の脚は明確な意思のもとにその動きを統率され、腰の駆動に合わせて回転し、今まで何度もあった戦闘のパターンを再演するように、執行人を薙ぎ払った。

 ただしその回転の支柱となったのは、固定などされていない俄か仕立ての柱に過ぎない。仮にも男性としてほとんど成熟した総司の肉体を支えていられるのは、せいぜい一回転半ほどが限界だった。一度直立姿勢を崩したアルミ脚は大きくぐらつき、それに合わせるようにして、総司は足元から軽やかに着地する。

 一連の流れにおいてただの脚蹴りしか食らっていない執行人たちは、当然ながら無傷も同然の有様だ。さもありなん、総司にはすでに、この素手も同然の状態から敵を仕留め切ろうなどとは考えていなかった。

 もうすぐこの場に、執行人を殺しきれる武器が届くからだ。それを待つまでの間、彼がなすべき役割は、襲い来る敵を適当に捌いて無事でいることだけだった。

 ――そして。

 時間にして、総司が純夏に指示を飛ばしてから約十秒後。教室の扉が唐突に勢いよく開き、こちらへと踏み込む足音とともに、荒い声が響く。

「総司くん、これ、、――!」

 多少の息切れはあれど、その声はあくまで鮮明だったが、同時に問題もあった。純夏が立っている入り口付近は、位置は総司から見て、仕切りを一枚隔てた向こう側だったのだ。未だ執行人に囲まれたこの状況で、まさか彼女をここに呼びつける訳にもいかない。

投げろ、、、、狩宮!」

 再び、総司は叫ぶ。

 仕切りと言っても、ここにあるのは搬入した布とボードで作られた安い作りのものだ。上には人一人が倒れる規模の隙間が空いている。そこを通せば、目的のモノは送り届けられるはずだ。

 総司の意図はきちんと通じたのだろう、向こう側からは、やおら何かを投擲するような気配が伝わった。そして一秒ほどの間をおいて、こちら側に黒い物体が投げ込まれる。

 ただしそれは、先ほどの回し蹴りで撃ち漏らしたレプタイルの残り一体が、牙を剥きながら総司の喉元寸前にまで迫ったのと同時のことだった。

「——ッ!」

 目の前にまで近づけてしまった敵をその眼差しは正確に捕捉しながら、総司は上半身を後ろへと傾け、空いた隙間を通し、敵の身体に渾身の力を込めて右の拳を叩き込んだ。

 しかしその反撃は、いよいよ学習を重ねた執行人に見切られていた。

 レプタイルは空中で、太い後脚を動かして攻撃を防御する。さらに、そこに備わった三本の指を腕にがっちりと絡めると、自らの首を捻れるほどに大きく曲げて、総司の拳に噛み付いた。

「————!?」

 が、困惑したのはまたしても執行人の方だ。

 総司は右手から伝わる鈍痛も厭わずに、全体重を身体の右側に傾けていた。重力を加算したその勢いを殺さぬままに、レプタイルを床へと叩きつけ、さらには空いた左手もろとも自分の全体重を動員し、敵の動きを封殺した。

 自身に匹敵する体重にのし掛かられた執行人も、両手を既に動員した総司も、これで互いに、あらゆる動作は禁じられたも同然だ。

 この局面の最中、しかし総司は、純夏に投げ込まれた"武器"から目を離していなかった。

 放物線を描いて落下するそれは今、彼のちょうど頭部のあたりに差し掛かっている。

 総司は正確無比に首を動かした。具体的には、落ちてきた"武器"を右肩と頬の間に挟み、固定するように。つまりは、床に封じた執行人から左手を離してすぐに、その引き金、、、に指を掛けれる位置にだ。

 かくして、そのは彼のもとへ届けられた。

 特務局技術課によって最初に開発された対執行人、、、、兵器。コルトM一九一一ガバメントをプロトタイプに、限界まで操作を簡略化し、より速攻で扱える武器として生み出された特殊拳銃。

 俗に乾燥銃ドライガンと呼ばれる——そこから発射された四十五口径の特殊弾丸は、響き渡る爆音とともに今、眼下でのたうつ怪物を撃ち抜いた。

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