第14話

 教室を脱出した純夏と高倉は、息を切らしながら職員室へと向かっていた。総司の指示の通りに、まだ数人ばかり残っているであろう教師たちに危機を知らせるためだ。

 文化祭前日ということで、校内の雰囲気は普段と全く違う様相を呈していた。至る所に案内用の厚紙や段ボールが貼られ、校舎全体に、いかにも「祭り」という趣の装飾が散りばめられている。

 一見して危機とは程遠いそんな雰囲気の中で、二人はとにかく走っていたのだが、一直線の廊下を通り抜けて階段に差し掛かったところで、不意に高倉が足を止めた。

「高倉くん?急がないと」

 純夏は振り返って急かしたが、高倉は何やら落ち着き払った様子で、今走ってきた廊下の方を見たまま動く様子がない。走るのに疲れたのかとも思ったが、見ると彼は大して汗もかいていないようだった。

「——あれが執行人なんだよね、狩宮さん」

 そう言われて、純夏はふと気付いた。彼の視線の先が向く先にあるのは、今まで走っていた廊下と言うより、たった今総司が戦っているであろう教室だ。

「あんな化け物が、この町に……何度も何度も出現してるのか。初めて見たよ。全く情けない事だけど、ビビって一歩も動けなかった」

「……あんなのを目の前にしたら、きっと誰でもそうだよ。私も、足が竦んで動けなかった」

「でもさ、そんな連中を相手に神村は戦ってるんだよな」

 やるせないような苦笑を浮かべながら、高倉は続ける。

「何となく分かったよ。あいつがつまり、特務局って奴なんだろ?執行人と戦ってるっていう。さっきの様子から考えて、狩宮さんもそっち、、、の人間なのかな」

「それは……ええと」

 しどろもどろに答えながら純夏は、単純な言葉で凄いな、と思った。彼がいま口にした憶測は、その全てがおおよそ的を射ている。 

 そんな純夏の内心を読み取ったかのようなタイミングで、高倉は目線だけをこちらに寄越して小さく笑った。

「はは、図星か。ずっと隠してたんだな。もしかして恥ずかしかったのか、あいつ」

「……凄いね、高倉くん」

 純夏は心の内をそのまま口に出す。すると高倉はやや悲しげに目を伏せて、

「僕はさ、昔から要領だけは良かったんだ。一度見れば大抵のことは覚えられたし、勉強だって誰よりもできた。親が二人とも凄い医者だから、まあこれは遺伝なんだろ。だから僕は、自分はできる奴なんだと臆面もなく思ってた」

 でもさ、と高倉は続ける。

「さっきの見て、それが勘違いだって分かったよ。少なくとも僕は、あんな化け物を相手に正面切って戦うなんて絶対にできない。だって怖いからね」

「…………」

 その気持ちは、純夏にも良く分かった。彼女自身、二週間前にママルという化け物に遭遇した時には、一歩もそこを動けなかったのだから。

 そこに突如現れて、まったく物怖じる様子も見せずにあの怪物に銃を向けた総司だ。自分が腰を抜かして座り込んでいる時にそんな姿を見せつけられれば、誰だって自分が情けなくなるし、相手に憧れも懐くだろう。

「……私もまだ、正面から戦うなんてできないよ。でも何かの役には立ちたかった。きっと総司くんは、それを分かってるから私たちに、『助けろ』って言ったんじゃないかな」

「僕らにもできることはある、ってワケか。職員室まで行って先生たちを逃せば良いんだよな」

 そう確認して、それから高倉はしばし考え込むような仕草を見せた。

「でも……それって多分、僕一人で出来ることだ」

「……高倉くん?」

「ねえ狩宮さん。やっぱり君は、教室に戻るべきだよ」

 そう言いながら高倉は、純夏の方へと向き直る。彼の瞳は、優等生らしく真っ直ぐで誠実なものに見えた。

「あそこに戻って何かの役に立てるとしたら、狩宮さんの方だ。神村の言い振りからして、君も何か努力してるんだろ?」

「……それは、そうなんだけど。でもそうしたら、高倉くんが一人になっちゃう」

「大丈夫だよ。あの化け物どもがいるのは教室だ。今ここで階段を降りればほぼ安全だろ」

 それに、と高倉は付け加えた。

「神村は凄かったけど、いくらなんでもあの化け物を三体も相手にして、完全に無事でいられるとも限らないだろ。やっぱりもう一人くらい、サポーターはいるべきだ」

「…………」

 純夏は落ち着いて、しかし素早く今の高倉の提案を吟味する。少なくとも言っていることは正しいし、合理的だ。この先に執行人の危険はほぼ無いだろうし、一人戦っている総司が心配なのも事実である。

 少しでも訓練を積んでいる純夏が戻るべきというのも、また理にかなっていた。

 ベネッドに教わったことだが、執行人を相手にする際に大切なのは体力や筋力でなく、まず冷静に動けることだという。

 ああいう"バケモノ"を相手にすると、人間は身が竦み動けなくなる。その隙を突かれることが、対執行人の戦いにおいて最もまずいことなのだ。そういう意味では、一度彼らと遭遇し、なおかつそれなりの知識を持つ自分の方が、高倉よりは適任だろう。

 それらの要素を三秒かけて整理して、純夏は顔を上げた。

「……一人で行ってもらって良いかな、高倉くん」

「ああ、もちろん。だいたい男が女の子に守られて走るってのも、ほら、立つ瀬がないし。一応僕、モテるからね」

 高倉がおどけ顔で口走ったそれが、別れ際の軽いジョークなのだと悟って、純夏はこの局面で初めて笑みを浮かべた。

「気をつけてね、高倉くん」

「ああ、狩宮さんこそ。みんな無事に済んだら、明日あたりにでも色々と話を聞かせてくれよ」

 そう言い残すと高倉は、純夏の横を通り抜け、階段を駆け降りて行った。残った純夏は、一度深呼吸をして、それから踵を返して走り出す。

 その先にあるのは未だ化け物の気配が溢れ漂う、紛れも無い戦地だ。それは彼女も理解していたが、その胸に恐怖と呼べるものはほとんど無かった。

 それが果たして、二週間前の夜には無かった仲間の存在から来る安心感なのか、それともこの異常事態に感覚が麻痺しているのかは、判断がつかなかったが。

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