第12話
それからの日々は、おおよそ平和と言って差し支えないものだった。
純夏は特務局警備課の所属となり、いわば見習いの扱いを受けている。兎にも角にも、ベネッドの下での訓練の毎日だ。
基準はクリアしたものの、あくまでギリギリであった体力を向上させるためのトレーニングや、野生的かつ凶暴な執行人の動きに反応するための模擬戦など、その内容は多岐に渡る。
総司はその間、夜の闇に繰り出して実際に執行人と戦っているわけだが、純夏が戦うべき当面の相手は、毎日繰り返し体を苛む筋肉痛だった。
純夏の所属となった部署は警備課などと銘打たれているが、その実態は自警団も良いところだった。
上から正式に任務が下される事なども無く、形骸的に決められたシフトに従って戦闘員が巡邏に出るのみ。近いうちにそんな状態も改善するらしいが、今のところはそのきらいさえ見えない。
未熟者である彼女は実任務に出されることは無く、ある意味最も安全な基地の中で、ひたすらに鍛える。
そんな彼女の様子を、総司は相変わらず、どこか不機嫌そうに眺めていた。もっともそんな心の内を言葉にすることはなく、時に皮肉を言い、時に純夏を気遣う彼とのやり取りは、まあ良い関係と言えただろう。
そんな日々が二週間ほど続いた。
逆に言えば、そんな日々は二週間しか続かなかった。
*
その日、純夏と総司は教室に二人居残って、作業を進めていた。奇しくも二週間前のあの日と同じ状況だが、あの時と違うのは、教室から机と椅子がほとんど消えた代わりに、いかにも素人造りのおどろおどろしい装飾が散りばめられていたことだ。
今日は文化祭の前日だった。時計の針は午後四時半を回り、彼らの出し物であるお化け屋敷の準備もいよいよ大詰めという段階である。
「……そんな時に、なんでせっせと作業してるのが俺ら二人だけなんだろうなぁ!」
苛立ちが限界にまで来たのか、総司はそんなことを叫びながら手にしていた厚紙の看板を投げ捨てた。
「ちょっと、投げないでよ。その看板、せっかくみんなが作ってくれたんだから」
「そいつら呼びつけてもう一度作らせろ!なんで前日の大事な時に会場作ってるのが二人だけなんだ!?」
「みんなが早く帰る理由は、多分あなたが一番分かってると思うんだけど……」
実際のところは、純夏の言う通りだった。
二人を除いたクラスメイトの全員がすでに帰宅しているのは、例によって背河内市の特殊な治安事情のためだ。今日に限っては学校に泊まることも許されているが、そんな酔狂な状況を望む生徒は誰もいなかった。
そういう訳で、流石に作業を投げ出すわけにも行かない実行委員の二人だけが残っている現状だ。
「いくら夜が危険って言ってもまだ四時半だぞ。馬鹿にしてんのか」
「文句言っても仕方ないでしょ。それに、私たちが早く帰れるようにって、みんな頑張って進めてくれたんだから」
これもまた、純夏の言う通りだった。
今の教室の内装は、ほとんどお化け屋敷のとして完成している。支給されたボードで区切られた通路や脅かし用の仕掛けなどは設置し終わり、残る作業は「怖がらせ役」の衣装や小道具を置いておくスペース作りくらいのものだ。
クラスの中でも未だ馴染み切れていない二人だが、流石に彼らだけに押し付けるのは悪いと思ったのだろう。クラスメイトたちは、可能な限りの仕事を終わらせてから帰っていた。お陰で作業自体はあと三十分とかからずに終わる程度しか残っていない。
それが少しばかり遅れているのは、総司がぶつくさと文句を言うのを止めないためだ。
「大体ベネッドも過保護なんだよ。『お前はどうとでもなるから良いが、嬢ちゃんはまだ危ないから今日は帰りは送ってやれ』だと。じゃあ俺が基地に帰るのは一体何時になるんだ?雑用係じゃねえんだぞ」
「それはちょっと何も言えない……ごめんなさい」
口を動かす前に手を動かせと言いたいのは山々だったのだが、総司の吐き出す愚痴はこんな具合に、文句の言いにくいものが多かった。純夏にも非がある事だったり、純夏も「それはそう思う」というような事だったり。
とは言え、二週間も経った今となっては、それも彼の持つ人間的な味というやつなのだと理解していた。苦笑くらいはするが、本気で気を悪くするような事は無い。
「……?」
ふと純夏は首を傾げた。虫の羽音のような音が、どこからか聞こえた気がしたからだ。妙に意識を持って行かれるような音だった。
しかし純夏は、その出所を確かめることはしなかった。確かめようとはしたのだが、勢いよく教室のドアを開ける音に妨げられたのだ。
「——暇かな?」
快活な声でそんな事を宣いながら教室に踏み込んできたのは、とっくに帰ったはずの高倉委員長だった。
「暇に見えるか?そう見えるんならこっちに来い、目ぇくり抜いてやる」
「どうどう。残りの仕事を全部押し付けちゃったのは悪いと思ってるよ」
憎悪と呼べるレベルの苛立ちが篭ったその声を軽くあしらいながら、高倉は良い顔で笑う。総司はそれを見て、ますますくっきりと額に青筋を浮かべた。
「悪いと思ってんなら誠意を見せろ誠意を。つーか、何しに戻って来たんだよ」
「その誠意とやらはこれのことかな?」
芝居掛かった口調で言いながら、高倉は背中に隠していた右手を前に出す。
そこには一目見てコンビニのものと分かるレジ袋が握られていた。半透明のビニール越しに見えるその中身には、どうやら様々なお菓子が詰め込まれているらしい。
「わあ」
と、素直に感嘆の声を上げたのは純夏だった。
「そろそろ小腹が空いた頃合いかな、と思ってさ。差し入れを買ってきたんだ」
「……まあ、貰っとこう」
憮然としながらもそんな声で応じた総司の胃袋の具合は、ちょうど高倉が予想した通りだった。
「狩宮さんもほら、どうぞ。脂っこいものばかりだから女子にはアレかもだけど。ダイエットとかしてる?」
「ああ私は気にしないです。ありがとうね、高倉くん」
純夏はそんな風に、障りなく礼を口にする。
この学校に転校して来てから三週間が経ち、彼女もいい加減に新しい環境に少しずつ慣れ始めていた。
マトモに会話が出来るのは特務局で接する機会が多い総司や人当たりの良い高倉くらいのもので、相変わらず全体的な対人関係は上手く行ってはいないのだが、この場にいるのはその二人のみだ。純夏のコミュニケーション能力は、今だけは常人並だった。
「さ、どーぞどーぞ。あ、ついでに僕も食べて良いかな」
「勿論。でも高倉くん、差し入れのためにわざわざ戻ってきたの?いや、ありがたいんだけど」
「まあね。それに僕も、たまにはこういうの食いたくなるんだよ」
高倉はビニール袋からポテトチップスを取り出して封を切りながら、そう続ける。
「親がうるさいもんで、家だとこういうスナック菓子は食えないんだよ。しかも大抵、体に悪いもんほど美味しいからタチが悪い」
「そう言えば、お前の親って医者だったか?」
ふと思い出したように尋ねた総司に、高倉は首肯を返した。
「うん、だから食生活とか徹底管理されてる」
「つまり……間食がしたいから戻って来たの?」
心底うんざりという顔でぼやく高倉に、純夏は苦笑しながら訊き返した。
「まあ、正直に言えばね。気が向いたって言うのかな」
「でも、遅くに帰るのは危ないって話じゃ?」
「執行人のこと?まあ、あの時は口酸っぱくして言ったけど……一緒に帰れば大丈夫でしょ」
言われて純夏は、一瞬その言葉の意味が理解できずに、首を傾げた。そんな彼女の挙動を見て、高倉は呆れたように笑う。
「狩宮さんの家って
「そ、そうだったの?」
「ああ。だから女の子一人夜道を行くなんてことにはならないさ。これでも運動はしてるし、僕はガタイも良いからね」
確かに高倉の言う通り、純夏はそんなご近所事情など知りもしなかった。
クラスの人気者たる委員長と家が近いというのは、ともすれば人から羨ましがられるステータスになったかもしれないが、残念なことに純夏は、それを喜ぶだけのロマンス願望というものを持ち合わせていなかった。
「まあ神村は一人余るわけだけど……」
「ん?俺は一人でも問題ない」
「だろうね。お前、実は腹筋バキバキだもんね」
特段ぎこちない様子もなく言葉を交わす男子二人を、純夏は意外なものを見る目で見ていた。
純夏に負けず劣らず、総司はクラスの中で孤立している。彼が行うコミュニケーションと言えば、純夏と同じく「話しかけられれば答える」というレベルだ。転校生でも何でもない分、より問題ありと言えるだろう。
しかしこうして高倉と話しているのを見ていると、彼の友達付き合いには全く問題が無いように思える。そこは高倉の器量がなせる技なのかも知れないが、ともかく総司がクラスメイトと雑談にふけるという場面は、純夏の知らない景色だった。
「……大体さあ、ウチで出されるラーメンなんか麺より野菜が多いんだぜ。馬鹿じゃねえかって話だよ。ラーメンなんて、健康気にして食うもんじゃ無いだろ」
「そりゃまあ、御愁傷だが。しかしお前も大変なんだな」
他人事のようにポテチを頬張りながらそんなことを言う総司だが、彼は彼でベネッドから割と厳しめの食事制限を受けていることを、純夏は知っていた。体作りの一環らしいので、今ここでの間食がバレたら、大目玉を食らうことだろう。本気でキレられそうだったので、チクってやろうとは思わなかったが。
そんな会話に自分も混ざりに行こうかと、純夏が口を開きかけた時だった。
「……なあ、さっきから電話鳴ってない?」
「え?」
ふと眉を顰めた高倉が、辺りを見回しながら言った。
それを受けて純夏が周囲に耳をすますと、確かに何かしらの振動音がどこからか響いている。彼の言うように、携帯のバイブレーションのようだ。
そう言えば高倉が教室に入ってくる直前、虫の羽音のような音を聞いた覚えがあった。
「本当だ、誰の携帯だろ。私は学校には持って来てないんだけど」
「僕のはポケットに入れてるけど、違うみたいだね」
「……ってことは」
アヒル口のような形で二枚重ねて咥えていたポテトチップスを飲み込むと、総司は空いたスペースに置いてあった自分の鞄を開けて、中身を探り始めた。
「ああ、やっぱり俺のだな」
鞄から取り出されたスマートフォンは、着信を示す振動を断続的に続けていた。
総司はその画面を操作して、首を傾げる。
そこに表示されていた数字の羅列は、記憶に間違いがなければベネッドの電話番号だ。彼女が今まで総司の私用の携帯に電話をかけてくる事など、まず無かったのだが。
怪訝に思いながらも、総司は通話ボタンを押した。
「もしもし、ベネッド?」
『ああ、やっと出たか。坊や、今どこにいる?』
前置きも無しに、ベネッドはそう尋ねてきた。
妙だな、と総司は思う。零ほどでは無いにしろ、彼女もそれなりに話好きな部類だ。こう言う時、挨拶がわりの冗談くらいは言ってきそうなものだが。
それに、画面の向こうの彼女の声からは、冷静なようで何か切羽詰まった印象を受ける。
「……今日は遅くなるって今朝、話したろ?狩宮と文化祭準備で居残ってるんだよ。俺ら二人とも、まだ帰れないぞ」
『つまり、まだ学校にいるんだね?嬢ちゃんと二人で』
「?ああ、そうだけど」
いい加減に何の用なのかと訊こうとして、そこで総司の言葉は遮られた。
お化け屋敷の通路を区切るために設えた布製の"仕切り"の、その向こう。総司ら三人がいる休憩用スペースから、距離にしてほんの数メートルの場所で、唐突に稲妻が迸るような音が響いた。
落雷というほどの轟音では無い。だが、ただの静電気の破裂音よりは確実に巨大な音だ。同時にそちらからは、フラッシュのような断続的な光が漏れていた。
『すぐにそこから逃げろ!』
音のした方へと振り向く総司の耳に、ベネッドの焦燥に駆られた声が響く。
『約三〇〇秒前にその付近でM2反応が観測された!複数の執行人が……』
「……少し知らせるのが遅かったな。くそ、タイミングの悪い」
答えながら総司は、通話状態を継続したままスマートフォンを制服の胸ポケットに仕舞い、ゆっくりと体ごと
黒い布で仕切られた向こう側では、もう稲妻の音は鳴り終えていた。その代わりに今までは存在しなかった「何か」の、息遣いのようなものが漂ってくる。それが何を意味するものなのか、総司に理解できないはずが無い。
布一枚隔てた向こうに、人を殺しに現れた化け物がいるのだ。どの程度の強さで、どの程度の数が出現したのかは分からないが、それだけは確かなことだった。
「上等だ」
総司が呟いたその時、既に教室の空気は、先程までの日常的な和やかさを失い、緊張に支配された非日常の空間へと変貌していた。
荒々しくも冷たいその声は、"ヘイデン"と対峙したあの時と同じ鋭さを携えていた。
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