第10話

 そうして、放課後。

 五時に訓練室で集合との指令ではあったが、学校の終業時間は三時二十分だ。特にやることも行くあてもなかった純夏が、地下駐輪場の入り口を再利用した基地入り口階段の前に到着した時間は、集合時刻の一時間前だった。

 そしてそこには、仏頂面の総司もいた。彼は彼で他に行くところもなく、到着が二人一緒になったのは自然なことだった。

「一時間……長い。どうする?研究区画の見学でもするか?」

 総司は一応気を使ったのか、そんなことを提案してきた。純夏は正直に応える。

「……あんまり興味ない、かな。先にベネッドさんのところに行くわけにはいかないの?」

「そりゃ駄目だ。あの人この時間は寝てるんだよ。ティディベア抱いてな」

 どうしたものかな、と総司はしばし顎に手を当てて考え、それから妥協したような表情で一つ溜息をついた。

「……喫茶店にでも入るか?」

 そう訊いてきた総司の顔は、嫌に気まずげだった。その提案が、あまりに自分のキャラクターというものには似つかわしくないことを理解しているのだろう。

 頷きを返す純夏の顔からもまた、気まずい雰囲気が出ていた。話の流れではあるが、この状況は客観的にはデートである。別に意識するほどの事でも無いとは彼女も分かっていたが、それでも純夏に残った僅かな乙女性というものは、「何だかなあ」と首を傾げていた。


 二人が足を運んだのは、基地入り口から徒歩で五分ほどのところにある小さな喫茶店だった。店先の扉には「シャングリ・ラ」と書かれた看板が提げられている。モダンな雰囲気の良い店だと、純夏は思った。

 どうやらあまり繁盛しているとは言い難いらしく、店内はガラ空きだった。

 そんな中、総司と純夏は、アルバイトらしい女性店員に通されたテーブル席にそれぞれ向かい合って座った。

「空いてるね。お店には失礼だけど」

 無難にそんな話題を振ると、総司は「まあな」と当たり障りのない答えを返してきた。

「ここはいつもそうだよ。と言うか、背河内の喫茶店は全部そう。何しろ町に人が少ないもんだから、どこでも閑古鳥が鳴いてるんだ。まあ静かなのはありがたいが」

「なるほど……でも、確かに良い雰囲気なのかな」

「ああ。それと、シャングリ・ラにはこいつがいる」

 そう言って総司は、おもむろに右手の指をパチンと鳴らした。

 突然の事に眉を顰める純夏の視界を、ふと影が横切る。座った彼女のちょうど腰元あたりに背中が来るほどの大きさをした、白い毛色の大型犬だった。足元に駆け寄ったその犬の頭を、総司は慣れた様子で撫でる。

「その子は?」

「名前はファフナー。犬種は知らんけど、この店で放し飼いにされてて、どうも前々から懐かれてるらしい」

 そのファフナーは、頭や首やらを撫で回す総司に大人しくされるがままになっている。確かに懐かれているという認識は本人の自意識過剰では無いらしい。

 が、それを微笑ましいと思えるかと言われれば、純夏の答えはノーだった。

 総司が喫茶店で飼われている犬を可愛がっているという光景は、確かに普段とはかなりのギャップがあり、意外なものだ。しかし残念な事に、純夏は犬があまり好きではなかった。犬に限らず、実のところ彼女は、そもそも生き物というものをあまり可愛がる正確では無い。

 彼女がどう反応すべきか判じあぐねている間に、総司は一通り戯れ終えたのか、ファフナーに「ハウス」と命じた。これもまた見事なもので、彼(?)は少し名残惜しそうな表情を見せながらも、素直に店の奥に戻って行った。

「とりあえず、注文するか」

 そう尋ねてきた総司の表情は努めて平静なものに保たれていたが、その奥から滲み出る満足感のようなものは隠せていなかった。とはいえ突っ込むだけ野暮なことだと思い、純夏は「うん」と素直に頷く。

 総司は喫茶店の中で何故かオレンジジュースを注文した。コーヒーが飲めないのだろうか、と思いながら、純夏も同じものを頼む。

 店内に客のいないこの状況で飲み物二杯を作るのに時間がかかるはずもなく、程なくして二人の座るテーブルに、二つのコップが運ばれた。

「なあ、特務局に入るなんてやめとけ」

 備え付けのストローでオレンジジュースを一口飲むと、唐突に総司はそう切り出してきた。純夏は思わず「え?」と訊き返す。

「ベネッドが何を思ったのかは知らないけど、お前には向いてないよ。ここでの仕事は」

「……向いてない?」

「ああ。少なくとも俺が素直に歓迎しないくらいには」

 総司の声音に、少なくとも悪意的な何かは含まれていないように思えた。皮肉や意地悪で言っているのではなく、彼なりに心配してくれているのだろうと、純夏は判断した。

 その上で、自分の意志を覆すつもりもやはり無かったが。

「向いてないのは否定できないかも知れないけど……でも、私は役に立ちたいの。何かの助けになりたい」

「どうしてだ?」

 総司はその答えを予想していたかのように、間髪入れずに訊き返す。

「お前、何で戦いたいなんて思ったんだ?」

 別に彼はプロのカウンセラーという訳では無いが、それでもシステムや執行人と関わる中で、人の死だけはそこいらの大人の何倍も見てきている。死とはその人の人生が結実する瞬間だ。人の死を多く目撃した人間は、必然的に人を見る目が磨かれていく。

 総司の観察眼はまだ未熟な高校生の身にありながら、すでにある程度の正確さを得ていた。

 しかし目の前に座る少女については、どう見ても「役に立ちたい」というキャラクターには見えなかった。だからいまだに、何故純夏が戦おうとしているのか、総司は解せずにいるのだ。

「なあ、狩宮純夏。お前はどうして、戦いたいなんて思ったんだ?」

 今になって総司は、狩宮純夏という少女の"中身"がまったく見えないことに気付いていた。

 最初に教室で自己紹介する彼女を見た時、「こいつは人が嫌いなんだろう」と思った。「人付き合いが嫌いで、ずっと教室で一人でいるような奴なんだろう」と。

 だが実際には、学校で過ごす純夏は傍目から見ても「人付き合いが上手くいかない引っ込み思案」だった。彼女自身ですら、「本当はみんなと仲良くなりたい」と言っていた。

 そんな風に、どうも何か、純夏からはちぐはぐな印象を受ける。

 今もそうだ。目の前にいる狩宮純夏という人間が、どういうキャラクターなのか分からない。臆病なのか、やる時はやる性格なのか、人嫌いなのか、それともただ不器用なだけなのか——人間として表面的で、彼女が「どういう奴」なのか見えてこない。

 その疑問は、胸の内に仕舞っておくには大きくなり過ぎていた。だからこそこのタイミングで、総司は面と向かって尋ねたのだ。

「……どうしてなんだろう?」

 しかし純夏は、あしらう風でもなく至極真面目な顔をしてそんなことを答えるのだった。

「あ、気を悪くしないでね。でも……うん、どうしてなんだろう?」

「お前……」

「本当に、私にもよく分からないの。でも……あの時、そう言わなきゃって思ったのよ。そうしなきゃ駄目なんだって、心の底から思ったの」

 思うよりも先に口が動いたという感覚があるなら、あれがそれだったのだろう。極度の人見知りで、初対面の人間を相手にまともに口がきけた覚えもないほどの純夏が、あの時ばかりは迷わず食い下がった。

 今から考えても、あれはおかしいと思う。ベネッドのような大人を相手にああして我儘を通そうとするなど、自分でも自分らしくないと分かる。挙げ句の果てに純夏は今、入局を認められてここを歩いている。

「正義感、って言うのかは分からないけど……もしかしたら私も、誰かのために何かをしたくなったのかな?総司くんみたいに」

「…………」

 その屈託のない笑顔を目の当たりにして、総司は口をつぐむ。

 「人のために戦う」という姿に憧れたというならそれは——誤解だ。自分こそ、そんな殊勝な人間ではない。

 そんな総司の内心など知る由もなく、純夏は無邪気に言葉を続ける。

「出来れば私も、総司くんみたいに格好いい動きが出来るようになりたいんだけどね。ほら、昨日私を助けてくれた時みたいな」

 遠慮がちなその笑顔を見て、総司はようやく懐いていた疑念を胸の奥へと仕舞った。

 彼女は多分、少し安定していないだけなのだ。新しい環境に慣れていないのか、やはり生来的に弱々しいのかは分からないが、それだけだ。きっと自分の穿ち過ぎなのだと、総司はそう思うことにした。

「……まあなんだ、俺みたいになるのは無理だよ」

 総司は一つ溜息をついてから、かぶりを振った。

「俺は事情があって、四歳の時からベネッドに育てられたんだ。それはそれは鬼のような訓練と共にな。俺の受けたメニューはお前には無理だ。思春期なんだから、きっとホルモンバランスとか崩れるぞ」

「……あ、もしかして総司くんの身長が普通より低いのって」

 その先を口にする事は純夏には出来なかった。総司が今までに見たことのないような鬼の形相を構えて、こちらを睨んできたからだ。

 やはりに気しているのかと思いながら、純夏は一つ冷や汗をかき、「ごめん」と謝った。

「別に……努力した結果だ。俺は恥じてない」

「ああ、うん、そうだよね」

「そうだ。……っと、そろそろ時間だな。出るか」

 総司はそう言って椅子から立ち上がり、会計の方へスタスタと歩いて行った。彼が伝票丸ごと分を支払ったのだと、純夏が思い出すように気付いたのはもう少し後のことだった。



 喫茶店を出た二人はそのまま特務局に入り、少しして最初にベネッドと対面した訓練場へと到着した。

 昨夜と違い、数人の男性たちがトレーニングに勤しんでいる。二人に関わりがある違いを上げれば、ベネッドが姿を隠さずに部屋の中央に立って、二人を待っていた事だ。

「案内ご苦労様、坊や」

「アンタが押し付けた雑用だろうが」

 ベネッドは総司とそんな風に軽く挨拶を交わしながら、早々に純夏の方に、片方のみの眼光を向けてくる。

「嬢ちゃんも、昨日ぶりだね」

「こんにちは。……あの、昨日みたいに上から降ってこないんですね」

「ああ、アレね」

 答えながらベネッドは、首を動かして天井を見上げる。

 そこには、吊革のような金属製の輪がぶら下がっていた。懸垂に使う、簡易なトレーニング設備だ。

 純夏らが昨夜、実際に降ってくるまでベネッドを発見できなかったのは、彼女がこの二つの輪を使い、腕力だけで体を天井と並行にまで持ち上げていたからだ。五メートル間隔で配置された、蛍光灯設置のための"出っ張り"に彼女の体はちょうど隠されていて、二人からは死角になっていた。

「これは、今日は嬢ちゃんに使ってもらうからね。その前に私の手汗をつけるのもどうかと思ったのさ」

「私が使う?」

 首を傾げて訊き返した純夏に、ベネッドは小さく首肯を返した。

「私は確かに昨日、嬢ちゃんの入局を認めたよ。けどそれはあくまで、"スタートに立つことは許してやる"というくらいの意味合いだ。とりあえず、基礎的な筋肉トレーニングくらいはやってもらわないとね」

「入局試験、ってことですか?」

「そんなに大仰な事じゃないよ。ただ、流石に平均レベルの体力くらいは見せてもらわなきゃ困る。それに、一度きちんとした訓練を体験すれば、嬢ちゃん自身が嫌になっちまうかもしれないからね」

 ベネッドはそう説明しながら、親指を右の方に向けて、「女性用更衣室」とプレートに書かれたドアを指差した。

「あそこの更衣室にジャージが一式あるから、着替えておいで。ロッカーは空いてるのを使いな」

「分かりました」

 純夏はそう答えると、言われた通り更衣室に入って行った。

 後に残された総司はその様子を見て、頭を掻きながら溜息をつく。

「なあベネッド。本当にアイツを使うのか?」

「それはこれから決めると、たった今言ったじゃないか」

「体育で走ってるのを見たが、狩宮は意外に体力あるぞ。筋トレくらいで音を上げて、やる気を無くしたりもしないだろうし、アンタの言った条件なら普通にクリアされる」

 先ほど純夏が入った更衣室の方に目をやりながら、努めて冷静に、総司は言葉を続ける。

「そもそも今さら人員を増やす必要があるのかよ?それもただの高校生を」

「随分と文句が出てくるもんだね、坊や。そんなにあの嬢ちゃんが心配か?」

「真面目に訊いてんだよ、真面目に答えろ」

 総司がいくらか声を尖らせたのを聞いて、ベネッドはさも面倒臭そうに頭を搔いた。

「零からのお達しでね。戦闘員を今後、増やせるだけ増やしておけと」

「……どういうことだよ?」

 今日一番の当惑顔で、総司は訊く。

 その疑問はもっともなものだった。特務局の事実上の存在意義は「システムの研究」にあり、総司ら戦闘員には、外部への体裁以上の意味はない。

 何も出来ないのが嫌なら暴れる口実くらい作ってやろう、意味は無いがな——と、そんな人情的な打算があって成立した、閑職の中の閑職だ。当然ながら、増員の必要など皆無と言える。

「あの人の思惑なんざ私が知るわけないだろう?公務員はお上の命令に粛々と従うだけだよ」

「……アンタのナリで公務員ってのは笑える話なんだが、冗談じゃねえんだよな」

 そう軽口とも言えないような軽口を叩くと、総司は話は終わりとばかりに、背中を向けた。

「おい、どこに行く?」

「どこって……外回りだよ。もうじき日が沈むだろ」

「今日は外回りはナシだ。ここにいろ」

「はあ?」

 これには総司も不満を露わにした。

 日が沈んでからのパトロールというのは彼にとって欠かせない日課のようなものだ。背高知のマトモな人間は日が沈んでからは外出しないため、特務局の少々先鋭的な格好も気にする必要が無くなる。その闇の中を闊歩する不可思議な心地よさが、不謹慎ではあるが、総司にとっては日々のささやかな楽しみでもあった。

「悪いがこれも零からのお達しだよ。様子を見て嬢ちゃんが使い物になるようなら、坊やと二人で連れて来いと言われてる」

「局に入るのを許可するだけなら、俺はいらないだろ。何で意味もなくあいつの長話に付き合わなきゃならないんだ」

「知らん。ちなみに私も一緒に呼ばれてる。だから、逃げようものなら死力を尽くして捕まえるからね」

「…………」

 ベネッドは、いわば総司の師匠のような存在だ。その体力も腕っ節も、未だに勝てる要素がない。そんな彼女にここまで言われてしまえば、逆らえるはずも無く、総司は待機を余儀なくされた。


 ——そして、約一時間後。

 ベネッド主導の基礎体力テストを終え、息も絶え絶えに畳の上に倒れ伏したジャージ姿の純夏を、総司は静かに見守っていた。

「ふむ。確かに基本の基本、ド平均レベルくらいの体力はあるんだね。ともかくお疲れさん、お嬢ちゃん」

 芋虫のような格好で返事をする気力も無いらしい純夏に、総司は今日何度目かの溜息をつきながら、タオルを手渡した。特大サイズのバスタオルだ。

「あ、ありが、とう……」

「無理してまで礼言うな。ほら、水飲め」

 と、総司はもう片方の手に持っていた、あらかじめ蓋を開けておいたペットポトルを手渡した。受け取った純夏は上半身を起こし、勢いよく喉に水を流し込んだ。

「……ああ生き返った。ごめん総司くん、ありがとう」

 水分を補給して、ひとまず純夏は落ち着いたらしい。未だに汗も顔の紅潮も止まる様子は無いが、絶え絶えだった呼吸は幾分マシになっていた。

「あの、ベネッドさん。私は……」

「一応、合格」

 合否を気にする純夏に、ベネッドは端的にそう返した。

「ただ、ここで本気で働くってんなら相当鍛え直す必要がある。しばらくはキツイ日々が続くことになるよ」

「それは、覚悟の上です」

 躊躇いなくそう頷いた純夏の横顔を見て、総司は頭を掻いた。

 ベネッドの課した体力テストとやらは、実際には基礎のレベルとやらを少々逸脱した、ハードなものだった。無論、総司が十二年前から受けていた"しごき"に比べれば可愛いものだが、それでも食らいついてきた純夏には、流石に文句を付ける気は起きない。

 そのやる気の理由が本人にすら不明瞭だと言うのは、やはりほんの少し疑念の種だったが。

「……とりあえずお前、シャワー浴びてこいよ。隣にシャワー室あるから」

 これは純夏というより、ベネッドに向けた冷ややかな仄めかしだった。彼女は総司の言わんとすることをすぐに察した様子で、

「おいでお嬢ちゃん、案内してあげるから。……ああ坊や、私らがいない間に逃げるなよ。逃げたら殺すからな」

「…………」

 そんな脅し文句を考えるくらいなら、自分異性が気付く前にシャワーの気遣いができるくらいの細やかさを身につけろと言うのが、総司の正直な気持ちだった。

 

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