第9話

「……うん、よく出来てると思う。ありがとうね、狩宮さん」

 快活な笑顔で、高倉は純夏の持ってきた文化祭関係の書類一式を手にそう言った。

 怪異の巣窟と化していた背河内も太陽に照らされさえすれば、一応は穏やかな様相を取り戻す。たとえどこかのアスファルトに誰かの血が染み付いていても、照りつける陽光を受ければ、やがてその痕跡は消える。明るさは全てを隠すものだ。

 昨夜の執行人との遭遇や、その後の諸々の出来事は、一先ず終わった事だ。翌日となった今、純夏が頭を回すべきは、当初の責務だった文化祭準備の方だった。

 冗談抜きでかなりの危険を冒してまでの居残りは、幸いにも無駄にはならなかった。

 純夏がこなした仕事量は決して少なくなかったし、作業自体も整然と進めていた。その甲斐あって、出来上がった予定表やその他諸々のチェックを頼んだ高倉からは、何ら駄目出しも無かった。

 もっとも、昨日総司から聞かされた事情に照らし合わせれば、彼には駄目出しをする資格も無いのかもしれないが。

「それじゃあ、先生に出してくるよ」

「うん。……あ、ねえ、一つ訊いても良い?」

 教室を出ようとする高倉を、純夏はそう言って呼び止める。

「何?僕に答えられることなら答えるけど」

「えっと、その……SFSについてなんだけど」

「SFS?」

 訊き返した高倉は、その表情を怪訝なものに変えた。今更疑うまでもないことだが、やはりこの町では、SFSの存在は共通の常識らしい。

「ああ、狩宮さん転校生だもんね。まだシステムのことはよく知らないのか」

「……っていうか、知りたいのは、この町の人がシステムをどう思ってるのかなって事なんだけど。都市伝説みたいな感覚なのかなって」

「都市伝説とも言えなくは無いけど、存在をまるっきり信じてない人はいないんじゃないかな?みんな、実在するものとして認識してると思うよ。きちんと在る、、、恐ろしいものとして」

 それこそがこの町が他と違う決定的な部分だと、純夏は思う。

 日本全国、流石にシステムの実在を疑う人間は少ないが、それでもやはり、実感としては薄いのが事実だった。

 執行人に殺された人間はたびたびニュースで報道されるが、その頻度は今日、交通事故で人が亡くなる数と同程度だ。とりわけ純夏の暮らしていたような都心部では、その傾向が強い。

 何しろSFSは「多くの幸せのために少数の人命を犠牲にする」システムだ。それはこの狭い島国では、必然的に「都会のために田舎を犠牲にする」構図となる。

「……特務局、って言うものについては?」

「ああ、警察のお仲間みたいなもんでしょ?この町に居を構えてるっていう」

 直に見た限り、公的機関というより秘密結社のようだった特務局だったが、これも一応は認識されているらしい。

「正直、執行人より存在感がないよ。この町の地下に基地があるらしいけど、見たことないし……」

 要するに認識としてはSFSと似たようなものか、と純夏は納得した。

 ——と。未だ誰が誰だかイマイチ一致しない同級生の中に、すでに覚えた顔を見つけたのは、その時だった。

「あ……」

 純夏の視線の先では、たった今登校してきたばかりの総司が、机の上に大雑把な動作で鞄を置いたところだった。

「おっと……」

 仕事を押し付け云々で彼に若干やましいところがある高倉は、気まずそうに目を逸らした。

「文句を言われる前に退散しとこう。じゃ、狩宮さん。またね」

「あ、うん」

 書類を持ってそそくさとその場から立ち去った高倉を、純夏は置いてけぼりの声音で見送った。

 さて、と純夏は思案する。

 昨日の経緯を鑑みれば、別にこちらから話しかけに行っても良いような気がする。文字通り命を救われ、ついでに下の名前で呼ぶことを許された仲だ。

 しかしそれを躊躇わせるのは、今の総司の、昨夜とはまるで別人のような態度だ。

 特務局での彼は、お世辞にも人格者とは言えないが、それで周囲の人間と普通に接していた。それに、計ってか計らずか、度々その内面を純夏にも見せてもいた。

 しかし今は、純夏が転校して来てからずっと見てきたあの仏頂面を構えている。まさしく「話しかけるな」という顔だ。

 特務局とここでの彼の態度の違いが意図的なものなら、果たして昨夜の感覚のままに話しかけて良いものか、悩みどころだった。そもそも総司は、特務局で戦っていることは隠しているのだろうし……と、そこまで考えたところで、純夏はすぐ目の前に立つ人影に気付く。

「よう」

 そう端的に声をかけてきたのは、他でもない総司だった。見るからに眠そうな顔で、冷ややかな眼光を純夏に向けている。

「えっと……おはよう?」

 やや面食らいながらの挨拶を無視し、総司は純夏の前に、一枚のメモ用紙を差し出した。

 そこにはいささか拙い筆跡の日本語で、『午後五時半に昨日の訓練室集合』と書かれている。

 文化祭資料で見た総司の字ではない。おそらくはベネッドのものだろう。

「これは……?」

「書いてある通りだ。遅れるなよ」

 それだけ言うと、総司はさっさと背中を向けて、自分の席に戻ってしまった。隠しようもなく不機嫌な態度だ。それがこの教室特有の彼の「キャラ作り」のみによるものではないのは、明白だった。

 はて何か怒らせるようなことをしただろうか。そう考えて純夏は、一つの事柄に思い当たった。

 昨夜——総司がベネッドの私室から姿を消した後に、純夏は「特務局に入りたい」と願い出た。

 総司が特務局での生活を普段の日常に持ち込むことを嫌っているのは、見ていれば分かる。そんな中で「日常の側」の純夏が特務局に入るというのは、彼からすれば癇癪の種でしか無いのだろう。

 とはいえ純夏は、総司の上司であるところのベネッドに、口約束の上ではあるが入局を許可されている。それもこれも自分でも驚くほどの強情さを発揮しての交渉の成果なのだ。総司には申し訳ないが、その生半の苦労を水の泡にするつもりは、今のところ無かった。



 




 

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