第5話
SFSと呼ばれるシステムがいつ頃日本に出現したのか、正確な時期は分かっていない。しかしその実在が確認され、広く認知されるようになったのは一九六◯年代後半のことだ。
始まりは、小規模な反社会的組織の成員が不審死を遂げたことだった。
死因は喉を鋭利な刃物で斬り裂かれたことによる失血。その状況から当初、警察は暴力団同士の抗争を想像した。
しかし一週間後、死亡した成員の自宅から一枚の書類が押収される。
それは都心部の人口密集地を標的とした、実行されれば数十人単位の死傷者が予想される規模の、テロ計画書だった。成員が死んでいなければ、沢山の罪のない人間の命が失われていただろうと確実視されるほど、それは現実的かつ巧妙な計画だった。
さらに、犯人の痕跡が全く見つからなかったことから、関係者の間で一つの馬鹿らしい噂が流れた。これは無辜の人々の命を守るために、神のような存在が下した正義の鉄槌だったのではないか——と。
そしてこの噂は、二つ目の事件によって一気に全国規模に拡散され、注目を集めることになる。
その日、日本の上空で飛行機がハイジャックされた。
テロリストたちの要求は現金百万ドルと、逮捕された仲間たちの解放。それが聞き入れられなければ、自分たちの手で機体を東京に墜落させる、と政府を脅したのだ。テロリストのリーダーは元々、ある航空会社の社員だったので、脅迫は現実的と思われていた。
要求を聞き入れるなら、危険な思想を持つ犯罪者たちが野放しになる。それに、テロに屈するという姿勢は国際的な非難の対象だ。安易に選べる選択肢では無い。
だが要求を聞き入れなければ、日本の首都が破壊される。世界すらが注目する中、政府は究極の決断を迫られていた――そんな時だった。
ジャックされた機の操縦士から突然、「テロリストたちは死亡した」と連絡が入ったのだ。
乗客の誰かがテロリストを制圧したのか?
それとも彼らは観念して自ら命を絶ったのか?
それらの質問を機長はいいえ、と否定し、そしてこう答えた。
"突然馬に乗ったカウボーイが現れて、銃で彼らを皆殺しにしたのです"
もちろん、彼は気が触れたのかと疑う者が大半だった。
しかしそれから間もなく飛行機が正常に着陸し、乗客全員の無事が確認され、さらに機内からテロリスト全員の射殺体が発見された。彼らは皆、一発で正確に眉間を撃ち抜かれていた。とても人間業とは思えないほど精巧な殺人だった。
国民やマスコミの興味は、一気に謎のカウボーイに向いた。
人質となっていた乗客の中には、カウボーイの姿を鮮明に覚えている者がいた。そういう者たちは決まって、「アレは人間ではなかった」と証言するのだ。
機械のような体をしていたと言う者がいた。
何回も撃たれていたが痛がるそぶりも見せなかった。そんな風に言う者もいた。
馬に見えたあれはたぶん体の一部で、下半身が馬のような形をしたロボットなんだ。そんな事を言う者がいた。
テロリストたちを殺すと彼は煙のように消えてしまった、と言う者がいた。
当然、人々の中にはそんな荒唐無稽な話を信じようとしない者もいたが、カウボーイの目撃者は皆自分の記憶に自信を持っていたし、彼らの証言に食い違いもなかった。加えて不思議なことに、テロリストの死体からも機内からも、一つとして銃弾が見つからないのだ。
そんな中、ある新聞社が、テロリストの死亡を先の暴力団員死亡事件と繋げて考察した記事を作った。
どちらの事件でも人が死に、結果としてより多くの人が救われた。さらに双方で、現実的な「犯人」の存在が確認されていない。
人間ではない謎の存在によって、日本は救われたのだ——そんな、馬鹿らしい信仰。
しかし信仰という物は、時に馬鹿らしければ馬鹿らしいほど人々を喜ばせる。噂が広がり、全国規模の”救世主信仰”が始まるのに時間はかからなかった。
この国を守る、形のない守護者がいる。神の使いのような、ヒーローが存在するのだと。
——そして三つ目の事件で、
当時の日本では航空需要の拡大に伴い、第二国際空港として、後の成田空港の建設計画が進められていた。しかし騒音問題などによって地域住民の反対運動が過激化し、このままでは開港が予定より大幅に遅れることはもちろん、激しい闘争により死者すら出かねない状況だった。後世においてに成田
もう少し過激なものに発展していれば成田闘争とでも呼ばれたのだろう、この事件は思いもよらない結末を迎えた。
ある夜の事だ。
反対住民や彼らと結託していた革新政党及び新左翼党派の成員——つまり、空港の建設に反対していた勢力。彼らがあろう事か、
犠牲者の正確な数は今も分かっていないが、少なくとも町一つという規模でのことだった。
死因はバラバラで、斬殺された者や射殺された者のほか、人知を超えた力で首を絞め殺された者も何百人といた。さらに、それほどの大量虐殺が行われたというのに、実行犯の痕跡や証拠は一つも見つからなかった。
そして決定的だったのが、被害にあった村から押収された監視カメラの映像だった。
そこには科学の理解を完全に超越した光景が記録されていた。
何もない空間から、ほとばしる稲妻とともに
ラプトルに似た動物は、近くに存在する人間を片端から殺して回りる。そして周囲から生きている人間がいなくなると、煙のようにその場から消え失せた。
一部始終が記録されたその映像を、政府の重役が観賞した。そして当時の総理大臣は、映像を公開すると決めた。どちらにせよ隠し通せるようなことではなかったし、反対住民の死亡に関しては、国内外から政府陰謀論が囁かれ始めていたからだ。
そして――映像は全世界に発信された。
あらゆる国の人間が、その映像を見た。学者たちは映像を解析したが、誰も改竄や合成の痕跡は見つけられなく、信憑性は高いとされた。
沢山の人間が正体不明のバケモノたちに殺された――その悲惨の影にあった、もう一つの事実に人々は注目した。
反対住民が「消えた」ことで、空港の建設は予定通りに進んでいた。その完成は、反対運動が行われていた当初に予想されていたよりもずっと早いものだった。その結果、日本は貿易や交通関係の利益を躍進的に伸ばした。
一万人の死によって、一億の人が暮らす国家はより幸せになった——そう解釈できる状況だったのだ。
その事実から、恐ろしい仮説が立てられた。
日本に出現したのは正義の使者などではなく、
幸福の総量を秤にかけ、多数のために少数を抹殺する。百人を幸せにするためなら九十九人を犠牲にし、淘汰する。——これはそういう
犠牲になるべき者を選別・淘汰する——ならば、そこに善悪の区別はない。
たとえ何の罪もない人間でも、誰かの幸せの邪魔になるからと殺される。暴力団員もテロリストもただの農民も、すべて「多数の幸せ」のために死んだ。
日本という国家社会の「幸福」のために、必要な淘汰を繰り返す。どこからともなく「執行人」が現れ、誰かを殺していく。いつどこで行われるのかは誰にもわからないが、ひとたび淘汰が起これば人が死に、そして社会全体の幸福が増加する。
根拠も理由も不明で、そして対処も不可能。いわばこれは、日本という国家に降りかかった、システムという名の「災害」だった。
"selection for society"――略して「SFS」。
とある海外メディアがシステムを「社会のための淘汰」と安直に表現し、間もなくその呼び名は、広く世界に浸透した。
それからも、多くの人が「淘汰」された。
ある時は凶悪な犯罪者が死んだが、ある時はダム建設に反対した住民が死んだ。
SFSの出現から五十年の時が流れた今、日本は様々な社会問題から解放された「世界で最も豊かな国」となっていたが、その反面、国の人口は一億人未満にまで減っている。
日本は、幸福と引き換えに道徳と安穏を奪われた「矛盾の国」となっていた。
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