第3話
背河内市という町のことを、純夏はよく知らない。引っ越してきたばかりということもあり、そもそも、現在の在宅地である祖父母宅と学校くらいしか訪れたことのある場所が無いためだ。
知っているのは、祖母が教えてくれた市の人口は八万人くらいという情報と、あとは住んでいれば分かるようなことばかりだ。
東京二十三区に隣接しているためベッドタウンとしての役割を担っていることや、雑木林や畑が点在していること。国立の研究所があることは、つい一昨日教えてもらった。
だから当然、日が暮れてからこの町を歩いたことなどなかった。
下校時刻ギリギリに正門をくぐり、純夏は早足に帰路を進む。
多少の居残りならともかく、夜七時はやりすぎだ。放課後に作業をするということは今朝決まったのだから、事前の連絡などしていない。祖父母にどれだけ心配をかけていることかと思うと、胸が痛むばかりだった。
だからこそ純夏は、何なら走ってでも急ぐべき状況にいるのだが、そんな思いとは裏腹に、彼女の足取りは重くなる一方だった。——恐怖がそうさせるのだ。
総司の言っていた「この町は異常だ」という言葉の意味が、宵闇を迎えた道を歩いて初めて実感として感じられていた。
目につく異変を挙げれば、まだ七時過ぎだというのに人ひとり歩いていない。
純夏が歩いているのは大通りでも何でもないただの住宅路地だから、人がいないというだけならそれほど不自然ではない。完全な静寂というわけでもなく、時たま車も走っていくし、五分に一度ほどのペースで、すぐ横の線路を電車が通っている。
それでも純夏は、自らを包み込んでいるこの闇を、「恐ろしい」と感じた。
強いて言葉にするなら、等間隔で訪れる静寂の種類が他とまるで違うのだ。音と音の間にあるべき無機質の、自然な「静けさ」ではない。何かに怯えて息をひそめるような、いかにも心をざわつかせる「切迫」がそこにはあった。
「――――」
その中で純夏も息をひそめると、静寂であるはずの周囲から様々な物音が聞こえてくる。
ガサガサという何かが茂みを動くような音。ききき、と爪で硬いものを削るような音。極めつけに、虫だか鼠だか分からないような不気味な鳴き声までもが耳に届く。純夏は努めて音のする方を見ないようにした。
確かにこの町は何かがおかしい。純夏自身、そう思えてならなくなっていた。
――そして恐怖は、目に見える怪物の登場によって一気に表面へと溢れ出る。
「――――っ!」
純夏の前方五十メートルほど、三つ先の街灯の下。その光の下に一つのシルエットが浮かび上がってるのが見えて、純夏は息を呑む。
二本の足で直立し、真っ直ぐこちらに向いた影。
両肩の端からそれぞれ腕をぶら下げたその容姿は、間違いなく「ヒト」のものだ。だが同時に、その「ヒト」は強烈な異物感を醸し出している。
原因は、滑らかな皮膚を持つ人間にはありえない硬質な起伏の数々だった。
四肢や胴体、その体のあらゆる箇所に、外から何かを取り付けたような凹凸がある。正面から見たシルエットはそれらを含めても完全に左右対称で、そのことがさらに無機物感を煽っている。
人であり、同時に人ではない存在。たとえ見間違いであっても、逆光で顔の消えたその「人影」は純夏の恐怖を臨界点に達させるには十分だった。
「ひっ――」
悲鳴の出来損ないのような声を漏らして、純夏は来た道を戻ろうと振り返った。
冷静に考えれば今は下校途中だというのに、いったいどこへ逃げようとしていたのか純夏にもわからない。ただ漠然とした恐怖に駆られての反射的な行動だったのだろう。
そのためか、純夏はついぞ振り向くべき後方に注意を向けることも、そこに初めから近づいていた他人の存在に気づくこともなく、気付けばそこにいた男とぶつかっていた。
「すっ、すみません……」
後ろに倒れそうになるのを何とか堪えて、純夏はそれだけ言って頭を下げ、すぐに立ち去ろうとした。彼女の心理状態はすでにそれどころではなかったからだが、その淡白な対応が状況を悪化させる。
「おい、待てよ」
顔を上げると、男が操作していたのだろうスマートフォンをポケットに仕舞いながらこちらを睨んでいた。
薄汚れたツナギに身を包み、酒でも飲んでいるのか、街灯に照らされた顔は赤くなっている。いかにもガラの悪い男だ。
「なあ、そっちの不注意でぶつかっといて謝り方が簡単すぎるんじゃねえか。スマホ一台あたりの単価を知ってるか?今もしかしたら、落っことして壊してたかもしれねえだろ」
この状況を、普段の純夏なら今よりは冷静に捉えられただろう。
物腰は野蛮だが実際のところ、目の前の男からは肩を掴んでくるような気配さえ感じられない。相手が法律的にも倫理的にも絶対に傷つけてはならない、か弱い少女であることを理解しているのだ。
大方、ぶつかった拍子にゲームの操作ミスでもしたのだろう。その鬱憤を、適当に罵声を浴びせて晴らしたいだけなのだ。
しかし、純夏の心はとっくに擦り切れたボロ雑巾のようになっていた。
総司の「この町は異常だ」という言葉は実際、夜を異常に恐ろしいと感じるこの感覚を指していたのか、それともこの恐怖は、怯えた純の頭が勝手に生み出した幻影なのか、判断はつかない。
重要なのは、純夏がすでに限界まで恐怖に晒されていたということだ。
そんな中でこれ以上トラブルを加えられても対応できるはずがない。この状況で出来るのはさらに謝罪を重ねることくらいだが、それすら恐怖と緊張で息が詰まってままならない。
そうして、いよいよ瞳に涙すら浮かんできたその時だった。
――純夏の視界を覆う色彩が一変した。
不意にバチ、と静電気が走るような音がする。それに押し出されたように、男の罵声は世界から消えていた。
そしていつの間にか、今まで空洞だったはずの空間を赤色の流動体が埋めている。
男の胸部から腹部にかけてを起点とする紅蓮の花模様は、不規則な噴出と飛沫を繰り返し、その一部が純夏の頬をも濡らしていた。
景色を黒から赤へと一転させたそれは、鮮血だった。
純夏にも流れる生の流脈が今、外の世界へと解き放たれている。
「がっ?……あ、ああああああああああッ!!」
理解不能の四文字が形作った静謐を、狂乱的な慟哭が打ち砕く。
男はもはや純夏になど目もくれず、自らの体に居座る激痛を、その叫びをもって表現していた。そこには助けを求める気持ちもあったかもしれない。
しかし彼は、その胴体の前半分を縦にぱっくりと割られている。どれだけ声を上げようと、その命が今さら助かる可能性など微塵も残っていないのは、誰の目にも明らかだった。
「——ぁ——」
突如眼前に現れた地獄を前に、純夏は悲鳴も上げられずにいた。——ただしそれは、男の身に起こった惨状に目を奪われてのことではない。彼女の視線が釘付けになっていたのは、もっと異形の存在にだ。
のたうち回る男を見下ろすようにして——怪物が立っていた。
フードで隠された頭部。機械質な装甲を至る所に纏ったその体は、さながらサイボーグのようだ。化け物が右手に持った刀のような武器は妙に現代的なデザインで、日本刀と言うよりブレードと呼ぶのが相応しいと思えた。その武器で、男は斬り裂かれたのだ。
純夏から見て後ろ姿の化け物は、人の形をしていながら人でないことが明らかだった。近未来めいたその姿を見ていると、ただの町中にいながら、SFの世界に迷い込んだような錯覚を覚える。
――と、純夏が呼吸を整える間もなく、怪物が再度その武器を眼下でのたうつ獲物に突き立てる。純夏からも見えた、その場所に位置するのは心臓だ。
断末魔の一声すら漏らすこともなく、男は息絶えた。
「あ、ぅっ……」
目の前で人が死んだ。そんなあまりに突然過ぎる現実に目眩がする。
死んだのは何の関わりもないどころか、今しがた自分を脅かしていた不良だ。純夏が悲しむ道理はない。
だが目の前で人間が生きた死んだのだ。それもただ死んだのではなく、考えうる限り最も凄惨に、体を切り開かれて殺された。純夏が吐き気を催したのは人間として自然なことだったろう。
だが、その胃袋の中身がアスファルトに吐き出されることはなかった。
男を殺し終えた怪物が、ゆっくりとこちらに顔を向けたからだ。
「……っ」
その視線に射抜かれ、息が止まるほどの圧迫感が純夏を襲う。
怪物の顔は仮面で隠されていた。外見からでもその硬質さが伺える、機械的なマスクだ。
当然表情など見えるはずもなく、ただ唯一、そのマスクの隙間から漏れる呼吸音が、怪物の実在を物語っていた。
怪物が音もなく、武器の切っ先を純夏に向ける。
殺意を向けられたのか、それともただの牽制なのか。そんなことを判断する余力は、もう純夏には残っていなかった。
ただ彼女の心を、はっきりと差し迫った「死」という感覚だけが絞め上げていた。
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