第2話



 窓から差し込む夕陽を眺めながら、純夏は今朝の高倉の言葉を思い出していた。

『誰だって、殺されたくはないだろう?』

 誠実で爽やかなあの人物像からは、およそ想像し難いほど剣呑な言葉。なぜ彼は、あんな事を言ったのだろうか。その真意を問う前に、彼は席に戻ってしまっていた。

 朱に染まった黄昏の雲模様を眺めていると、そんな疑問が再燃してくる。

 血塗られた町、などという単語がふと脳裏に浮かんだ。見ていると、あの空を染める赤の美しさは、血のそれによく似ているのだと気づいた。

 と、視界の外から何かを動かすような音が耳に届く。見ると、教室の端で総司が机を持ち上げ、近くの机と前合わせにしていた。

「さっさと座れよ、転校生」

 そのまま見ていると、机を運び終えて席に座った総司に焦れたように呼ばれ、純夏は慌てて彼の前に座る。

 掃除当番も下校し、今は完全に二人きりの状況だった。

 目の前に座る彼が、暴力的な人間ではないというのは聞いている。だからと言って、不良と呼ばれる人間と顔を合わせているのは怖い。加えて総司は、今まで純夏の前では不機嫌な態度しかとっていない。

 しかしそんな風に緊張しているのは純夏の方だけらしく、総司はクリアファイルから書類を取り出し、すでにそれらに目を通し始めていた。

「どこまで聞いてる?」

 唐突にそう尋ねられ、純夏は「えっ?」と訊き返す。

「文化祭について高倉からどの程度まで聞いてるかって、そう訊いてんだよ」

「あっ、ああ……ほとんど何も、かな。お化け屋敷をやるってことくらいしか……」

「……あいつ、手伝うようなこと言って何も把握してなかったのか」

 ぶっきらぼうに吐き捨てられ、純夏は反射的に「ごめんなさい」と声に出してしまう。

「お前にイラついてるんじゃない。……親切で忠告するけどな、あいつの笑顔にホイホイ篭絡されない方がいいぞ」

「……どういうこと?」

「高倉だよ。外面は優等生だけどな、中身はただの面倒臭がりだ。今回のことだって、お前、やらなくたっていいことを押し付けられてるんだぞ」

 口を動かしながらも、総司はしっかりと作業を進めている。自分も何かするべきなんじゃと不安に思いながらも、純夏は再び「どういうこと?」と尋ねた。

「実行委員の欠員はもともとあいつが補うはずだったんだ。でも今まで、予定が合わないとか言って仕事は全部俺に放り投げてた。いい加減文句の一つも言おうと思ってたところで、『あとは転校生に』ってわけだ」

「そ、そうだったんだ……」

 純夏の目にはむしろ、クラスに馴染むための糸口を提供してくれたようにすら映っていたのだが、事実は違うらしい。自分も総司の言うように、彼の笑顔に篭絡されていたのだろうか。

「面倒に思うんだったら、担任にチクれば辞められると思うぞ。受験勉強で忙しい、とでも言っとけば」

「……そう言ってくれるのはありがたいけど、大丈夫だよ。頼まれたことはきちんとやりたいし、それにそんなことを言ったら、高倉くんを悪者みたいにしちゃうから」

「物好きだな」

 大して興味もなさげに吐き捨てる総司を見て、純夏は遠慮がちに苦笑した。

 彼は少なくとも悪い人ではないのかもしれないと、純夏は思い始めていた。

 前々から認識していた通り、やはり暴力的な印象は感じないし、ぶっきらぼうではあるが、口にするのはただの愚痴と呼べるような言葉ばかりだ。

 あるいは彼も、自分と同じ人づきあいが苦手なタイプの人間なのかもしれないと、純夏は勝手に想像する。一度そんな風に考え始めてみると、単純なもので、純夏の中で総司に対する苦手意識のようなものはほとんど取り払われていた。

「ねえ神村くん。好奇心で訊くんだけど、好きな食べ物ってある?」

「ん……果物全般。特に葡萄とメロンだな」

 完全に雑談に過ぎない質問に、しかし総司は特に煩う様子もなく返答した。

「嫌いな食べ物は?」

「乳製品全般。特にチーズ」

「好きな動物は?」

「犬。あと馬」

「じゃあ嫌いな動物」

「両生類と、虫だな。あいつらはマジで気持ち悪い」

「得意な教科ってある?」

「全部好きじゃないけど、国語はまあ、マシだ」

 矢継ぎ早の質問に総司は淡々と答えていく。気分を害した様子も今のところ見受けられない。転校生とクラスメイト同士の会話としての体を保った、真っ当な言葉の応酬だった。

 この新しい環境の中でようやく「友達らしい」付き合いが出来た気がして、純夏は気を良くする。それで彼女は、一つ冒険をしてみる気になった。

「あの、一つ噂を聞いたの。神村くんは進路志望調査を白紙で出したっていう……」

「それが?」

 今までよりも一歩踏み込んだ、いわば無用な詮索でしかない問いかけだったが、短く返された言葉にはそれほどの棘は感じなかった。

「つまり、本当なの?そういう奇行の噂は……」

「奇行で悪かったな。噂は本当だよ」

 案外常識人なのかも、という想定は挫かれたらしい。不良でなくても変人ではあったということなのだから、純夏が内心でまた多少委縮したのは言うまでもない。だからその後に質問を続行したのは、彼女の精一杯の勇気だったと言えるだろう。

「……その、どうしてそんなことを?」

「将来なんてどうでも良いからだ。今やってることを、一生やってくつもりだからな。進学も就職もするつもりはない」

「今だけで精一杯……ってこと?」

「そうとも言える。今以外、眼中にない」

 いささかの迷いもなくそんなことを言われて、かえって純夏の方が、返された言葉を理解できずにいた。何か意味深に感じられる気がしないでもないが、その意味を正しく咀嚼できるほど、彼女は頭のいい人間ではない。

「ほかのことが目に入らないから……いつも一人なの?」

 純夏が返したのはそんな、ともすれば相手の気分を損ねかねない言葉だった。言ってしまってからそのことに気付くが、幸いにも総司は嘲るような微笑をこぼしただけで、怒るようなことはなかった。誰に向けた笑みなのかは、よく分からなかったが。

「そういうお前はどうなんだ?転校生」

「え……?」

「お前だって、俺に負けず劣らず孤立してるじゃないか。お前にも、人間関係がおざなりになって良いほど、打ち込める何かがあるのか?」

 純夏は一瞬、訊かれたくないことを訊いてしまったから、同じように反撃されたのかと思った。だがどうやら総司に悪意はないらしい。ただ雑談の延長で、同じことを訊き返しただけのようだった。

「ええと……私は、本当はみんなと仲良くなりたいけど。でも、まだ転校してきたばかりだから」

「もう一週間だろ。上手いやつなら教室に溶け込んで、歓迎会でも開かれてる頃合いだ」

「……だって仕方ないじゃない」

 思わず口をついた、それは純夏の本音だった。

「私だってなんとかしたいけど……人と喋るのも仲良くなるのも、上手くいかないのは仕方ないでしょ?人付き合いは苦手なの。どうしても、知らない誰かに話しかけるのが怖く感じて……」

 いつの間にか、総司の手が止まっていた。紙をめくる音もペンを走らせる音もなく、純夏が言葉を吐ききった後には、息が止まるような静寂が教室を包んでいる。

 何時間にも感じられたが、実際には数秒の沈黙の後、それを破ったのは総司だった。

「これは俺の持論なんだが、いじめを受けるやつってのは男にしろ女にしろ、ほとんどみんな不細工な人間だと思うんだ」

「……え?」

「少なくとも俺は、容姿が整っててもいじめられたなんて話は聞いたことがない。顔の良い奴らはそれだけで好感度が高くなるからな。そういう連中は自ずと自分に自信を持てるだろうから、人と上手く話せないなんてことにもならないだろ?」

「…………」

 その言い方だと、「孤立している人間」なら誰しも多少は不細工ということになる。それを分かっているのだろうか。つまり、総司自身と目の前に座っている純夏に、「俺たちはどっちもブスなんだぜ」と言っているようなものだと。

 いかに内気でもそこは女子である、純夏はそんな風に「ムッ」としたのだが、総司は気にも留めずに言葉を続ける。

「ところが、例外もある。……なあ転校生、お前は自分で、自分の顔がどれくらい可愛いと思ってる?」

「なっ、なにそれ……?少なくとも、あなたが言うように『不細工』だとは思いたくないけど」

 デリカシーのかけらもない質問に、純夏はますます憮然として答えた。すると総司は僅かに失笑するような表情を浮かべて、言葉を続ける。

「客観的に意見を言うんだが、お前は『不細工』じゃない。じゃあ、なんでお前は孤立してるんだ?転校生なんていう、周りの方から寄ってきてくれる肩書を手にしてるのに」

「……何が言いたいの?」

「お前、俺と似てる気がするんだよ。俺と同じ理由で、人付き合いを避けてるように見える」

「?」

 そんな事を言われても、純夏には正直、いったい何のことだが分からなかった。

 総司と自分が似ていると聞いて、思い浮かぶ共通点は教室で孤立していることくらいだが、粗野な彼と繊細が極まって人とまともに喋れない純夏とでは、まるで違うだろう。

 いわば彼は人と付き合うのを「嫌って」いて、純夏は「苦手として」いる。結果は同じでも、それは大きな違いのはずだ。

 と、そんな風に首を傾げる純夏の前で、総司はやおら立ち上がった。

「悪いけど、俺はもう帰る」

「え?」

 純夏は再び首を傾げた。何しろ時計はまだ午後四時を回ったばかりで、時間的には十五分もたっていないのだ。放課後に作業をすると言い出したのは総司の方なのに。

 しかし純夏が訊き返す間にも総司は荷物をまとめ、もう鞄を肩にかけていた。

「用事があるんだ。とりあえず準備に必要そうなものは書き出しておいたから、あとは準備にどれだけ時間かかりそうか、予定だけ立てといてくれ」

「あ、あの……どういうこと?用事って?」

「バイトだよ、バイト」

 そう言われても、確か転校前に確認した校則では、アルバイトは禁止されていたはずだ。しかし総司はぽかんとした純夏に構うことなく、足早に教室の扉から出ようとしていた。

 と、そこで総司はふと思いとどまったように足を止め、純夏の方を振り返った。

「なあ転校生。分かってるだろうけど、暗くなる前には帰れよ」

「え……?」

「この町では簡単に人が死ぬ。お前だって、そうなりたくは無いだろ」

 なんだって?とそう訊き返したかったのは山々だったが、純夏が口を開く前に、総司は姿を消していた。

 ——今、彼は何と言った?人が死ぬと、そう言わなかったか?

 聞き間違えかとも思ったが、純夏の中の冷静な部分はそれを否定する。高倉も、「殺される」というような事を言っていた。

 ふと純夏の瞳に、机の上に放置された書きかけの計画表が映る。総司が任せると言っていた仕事は、三十分とかからずに終わるようなものだ。

 しかし純夏には、そのほんのちょっとの作業にさっさと取り掛かることはできなかった。総司の残していった言葉はとても「まあいいか」と流せるようなものではない。字面そのものは冗談めいていたあれを冗談と受け流せないのは、あの言葉に感じた妙な「本気度」のせいだ。

 簡単に人が死ぬ。もちろん普通の神経の持ち主なら、戯言として切り捨てるだろう。純夏は年相応に夢見がちな部分はあるが、基本的には常識的なリアリストだ。

 しかし以前に聞いた噂話の記憶が、教室までを赤に染める血色の空が、総司の醸していた相手を心底から案じるような雰囲気が――あの言葉が大真面目に放たれたものなのだと、どこか真実味をもって純夏に思わしめていた。

「……いけない。仕事しないと」

 現実を口にすることで、純夏は取りあえずそんな空想を一蹴した。

 筆箱からペンを取り出し、頼まれた通りに仮の予定表を組み立てていく。総司の作った必需品リストは、概ね不備と思えるような部分もなく、よくできていた。純夏はそれを目で追いながら、現実的に無理がないようにスケジュールを考え、別の紙に書き出していく。背河内高校では文化祭準備期間として、丸二日間が使えることになっているが、整理してみると、どうやらそれ以外の時間を使う必要はなさそうだった。

 そうして結果的に、総司に頼まれた仕事は十分を待たずに終わってしまった。

 自分の時間の使い道を持ち得ない純夏でも、いたずらに居残り時間が延びることを望みはしない。だがこの場合、「居残り」とも言えないような時間しか作業をしていないので、「もう少し何かやるべきなんじゃないか」という不安が先に立つ。

 そんな、いわば奴隷根性的な罪悪感に駆られた純夏は、出来上がった仮のスケジュール表を眺めて、

「これ、作業の班分けとかもしておいた方が良いかな……?」

 総司の残していったクリアファイルの中に、クラスメイト全員分の座席表もあった。自分はまだ彼らの得手不得手など知らないが、たかが高校の文化祭の準備作業で、そこまで気にする必要もないはずだ。

 各作業ごとに効率のいい人数を考えて、その枠に座席表の片端から名前を突っ込んでいけば良い。簡単な作業だ。だったらついでに、当日のシフトも考えておいた方が良いだろう。受付とお化け役、非常用にお化け屋敷内で待機しておく役割。それぞれ適当な人数を割り出して、部活の展示がある人もいるだろうから、名前を入れるのはまだやめておく。

 こうなると、純夏は止まらなかった。

 仕事を一つ進めてはその間に新しい仕事を見つけ、順繰りにこなしていく。側から見ても異常な作業スピードだ。そこには、自分を放置して帰った総司に対する意趣返しという意味もあったのだろう。

 そんな彼女の頭の中からは、血塗られた云々という真偽のほども分からない話など、とうに消え失せていた。

 だから、「暗くなる前に帰れ」という総司の忠言も忘れていた。

 純夏が次に時計を見たのは、下校時刻の五分前を知らせるチャイムが鳴り響いたとき――つまり、午後六時五十五分のことだった。

 十月も中旬に入ろうというこの季節、当然、太陽などは地平の彼方に沈み切っていた。

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