たがいちがいいじめ

@fiiyu

たがいちがいいじめ(約83枚)

 騎乗動物は、腹部の革袋にいる主人の感情を察知した。小さな体による、本人でも気づかないくらいの身じろぎは、ファナの解釈では不安に他ならない。もしも人間が馬やロバやラクダに乗っているならば、鞍を通そうとも、勇気を与えたり、蹄のついた足がすくむほどの恐怖を与えたりもできるだろう。この場合に当てはまるのだろうか、とファナには疑問だったが。乗られるほうは歩行を躊躇したり、毛づやが悪くなったりするに違いはなかった。

 もう、主人は高所など平気のはずで、さもありなん、まるで生まれつきの有翼人のごとく泰然自若としていた。最初に乗っていただき、下ばかり見ていたり、目をつぶってばかりだったりの頃とは大違いだった。まだ町は見えてこないので、植物もまばらな、乾燥しきった大地だけが下方には据えられている。地面で、こちらと伴走しているのは円に近い影だった。人間ほどの身長と、それを飛ばせるだけの背中の翼がある体躯。時折、なくもない起伏によって影の形は歪むのだった。

 ファナは、帯でしっかりと固定している革袋越しに、小さな女主人を撫でた。「どうされました、メリ様?」

「ねえ、ファナって学校に行ったこと、ある? それとも」

「メリ様の送り迎えをするようになってから、存在は知りました。なんでも、物事を学ぶ場だとか」

「じゃあ、ないのね」

「なぜ、ご家庭で教わらないのですか」

「知らなあい」

「旦那様は、ご学友と一緒に学んだり、遊んだりするのが良いのだとおっしゃっていました」

「ファナは、疲れない?」

「お嬢様は、まだ十分に軽いです」

 メリは、これをあまり快く思わなかった。「お母様は、もっとあがりなさいって言うわ。いつもいつもいつも」

「学校を卒業なさる頃になれば、お嬢様のほうから、食事を控えるようになるかと存じます」

「なんで?」

「そういうものなのです。有翼人ほどではないでしょうが」

「やっぱり、重いと飛ぶのも大変なのね」メリは言った。「あの話、聞いた?」

「気にしてはおりません」

「ファナの、お友達でしょ」

「同じ種であれども、違いはあります。わたしは、あんな腐肉食らいではありません。腕も翼も、それぞれわたしにはございます。それに、誰が落ちようとも、わたしは無視させていただきます。お助けするのは、お嬢様だけです」

 かつて、山頂の学校には、みな自力で登っていた。当然、子供の手でつかめる手がかりなどたかが知れており、事故があり、ファナのような者も雇われるようになった。

「そう、なの」メリは革袋の中でうなずいた。「そうよね。そのために、お父様はお給金を払っているのだものね」

「疑問を挟む余地はありませんわ。わたしは違います」

「……一体、どっちに? ファナ」

「あ、そろそろ、学校が見えてきたようです」

 学校以外で学ぶことのほうが、実際は多いのではないだろうか。ファナはそのように思うのだった。メリは、はぐらかされたという多少の不満を持ったが、学校が見えてくるとさっぱり忘れていた。

 生まれたての頃は母が抱擁しており、続いて乳母がやるようになったのだという。今は、主目的は運搬であるものの、抱かれながら運ばれているようなものだ。メリには残念さがこみ上げたが、心を切り離し、耐えることに成功した。耐える? いや、影響を消すというほうが正しかった。耐えるのは、切り離せないからだ。感受性を全く別の地へ流刑にしてしまえば、ほとんどの苦難には対応できると、子供心に知っていた。勉強というより、身に染み込んだ処世術だった。

 ファナがおもむろに下降していくと、山頂にある校舎や、続々と集まっていく子供たちの姿がはっきりとした形を持っていった。例の事件があってから、お金があったり、ファナのような種族を使役していたりする人たちは、将来をになうべき存在に登攀をさせなくなった。そして、学校に行かせるくらいの家は、大抵が裕福だった。有翼人であらずとも、体格の大きな使用人に背負子をつけさせ、体を固定して岩壁を上がっていく子供もいた。

 とっ。ごく軽い音で、ファナはいつもの着地点に降り立った。他の子供たちも、有翼人の袋からもぞもぞと出ていったり、背負子から降りたりしていく。メリも同じように、地面に足をつけた。

「それでは、ホウカゴ、ですか? その時刻には、お迎えにあがります」

「ね、ファナ?」

「はい、何でございましょうか。お嬢様」

 ファナは片膝をつき、見上げた。

「あなたにも、お父さんやお母さんがいるのよね」

「ええ、まあ、一応は。没交渉ではありますが」

「いつまで、運んでもらってたの?」

「無論、自分で飛べるようになるまでです。しがみついて空中まで上がり、飛び降りると申しますか、ほとんど振り落とされるのに近いやり方で訓練を受けました。下では教師役の有翼人が待っていて、もしも飛べなかったならば受け止めてくれます。それが、飛べるまで続きます」

「どのくらいかかったの」

「一回です」

「本当?」

「嘘をつく理由もございません」

 長短がある。短ければ、最初の振り落としで、最短ならば他の有翼人の見よう見まねをしているだけで習得できる者すらいる、とファナは説明した。

「不幸な有翼人には、一生がた飛べない者もおります。受ける扱いは、ご想像の通りです」

「ファナは、幸運なほうだったのね」

「左様です。学校に通えている、お嬢様と同じでございます」

「それからは、もう誰にも抱きついたりしていないのね?」

「当たり前です、が?」

 ファナは、気づかなければならなかった。幼子という表現から脱したばかりのような子供が、一日の大半を親元から離れ、同じような子供たちのばかりの中で過ごさなければならないという事実に。しかし、想うということ事体、越権行為ではないのか? それでも、他の子供たちや先生が、みな聞き分けが良く、横に座っている子の髪の毛を引っ張って泣かせないという保証など、どこにもないのだ。

「お嬢様。何卒、ご内密に」

「ナニトゾ? ゴナイミツ?」

 言い終わらないうちに、ファナは抱きしめていた。包み込んでいた。両腕と、両翼。ファナとしては窒息させるつもりで、長い時間、二人だけの空間をその両翼と両腕の内部に作った。殻。もう十分だという合図で、メリが身悶えしたので、ファナはゆっくりと翼を開いていき、戒めのような抱擁をほどいた。

 もう、周囲には誰もおらず遅刻すれすれだ。大変だと、メリは駆けていった。ファナとしては「このまま、どっかに行っちゃおうよ」という発言を危惧していたので、息をつけた。

 学校の中にメリの姿が吸い込まれ、消えたとしても、ファナはずっと見守っていた。心が粟立つような不安があっていいはずだとしていたのに、むしろ逆で、乾いた土に水が枝の形で染み込んでいくようだ。迎えに行くまでの、メリがいない時間も、再会をさらに瑞々しくするためだと思えていた。このような感情など、感傷など……干渉など、してはいけないはずだ。あったとしても、隠しておけるだけの技術が必要になるが、あるはずがない。どうやったら感情など捨ててしまえるのだろう?

 そうだ。どうやったら、心を嗄らしてしまえるのか。ファナの目の前に現れた、もう一人の有翼人が考えを後押しした。

「お前、まさか? 久しぶりだな、ファナなんだろ?」

 お前まさか、と、久しぶりだな、の二つの言葉の間には多分に隔たりがあるにもかかわらず、黒い翼の有翼人は一目でファナを、その人だと見抜いていた。時の隔たり。流れの隔たり。上流と下流? それとも、戻れないくらいに遠い対岸のことなのか。両翼が黒い男性有翼人は、かなりの勢いでファナのほうを向いたのだった。胸につけた、空の革袋が揺れるくらいに。

 ファナは、その男性をまじまじと見つめた。送迎役のように見えるが、後は首をひねるしかなかった。

「あの、お会いしたことが」

「忘れたとは言わせないぞ」男性は、つかつかと歩み寄った。

 もう、他に有翼人の姿はあらず、みな飛び立った後だ。足跡が崖に向かってあるだけで、つけた人そのものは影も形もない。わざわざ登攀している子供も同じだった。

「あのう」

「一緒に学んだ仲じゃないか。おれだよ。バルキだ」

「あ、ああ!」ファナは言った。「憶えてるわ! というか、思い出した。久しぶりね!」

 ファナは笑顔になったが、どことなく頬は別の緊張を帯びていた。

「憶えてるか? 一緒に、飛び方を教えてくれた先輩に悪戯をしかけたじゃないか。枕元に鼠を追い込んでいって」

「ああ、ああ、あれね! あれは、大笑いしたなあ!」

「それで、大目玉を食らって」

「そうそう!」

「何を言ってんだ?」と、バルキ。「おれが今言ったのは、全部嘘だよ。女子のリーダー格だったファナ。とうとう、十年以上は待ったが、とうとう馬脚を現したってわけだ」

「え、えっとー。ごめんなさい。話、合わせてた」ファナは困り、笑いかけるしかなかった。「記憶力はいいはずだったんだけど、わたし」

「どうして、お前がガッコウに子供の送り迎えなんかしてるんだ?」

「冗談。今、有翼人が最も役に立つ仕事じゃないの。ガッコウに行かせるくらいなんだから、どの家だって裕福に決まってるし、授業の間は自由時間ときてるじゃないの」と、ファナ。「バルキ、だったっけ? あなたも、その倍率で受かった口なんでしょ」

「おれが、そういった理由でこの職を選んだって言いたいわけか」

「みんな、自分が基準になるもんでしょ。わたしはそうだったし、言ってみただけよ」

「楽して稼ぎたかった、ってわけか。まさに、いつも女子たちの中心人物にいたファナってわけだ」

「本題に入ってよ。お金と、暇以外に理由でもあるの? そりゃ、わたしだって子供は大切にするけど。種族が違ってたって」

「お前がか? いつ、そんな考えを身につけた」

「あのねえ」

「おれは忘れないぞ。忘れてなどいない」バルキの翼がわずかに揺らいだ。有翼人が不快感を表す、共通した仕草だ。「ある日、としか言いようがなかったが、お前たちにとっては、きっかけなどどうでも良かったんだろう。お前たちは示し合わせて、飛び方を教わっている一人の子供を無視しだした。シカト、とかいったか。それから、その子はひたすら日の当たらない道を歩むようになった。飛び方も誰にも教わらずできるようにしたし、一人で精神を矯正していく術も学んだ。色々と、それこそ多岐に方法を試した上でな」

 ファナに鮮やかに、まざまざと記憶が蘇っていった。同時に、身を切られるような痛みが、想像上なのに体を切り裂いた。

「ま、さか、あんた。バルキ。あんたは」息が荒くなっていく。バルキと同様に翼が、そこに繋がっている羽根の一本一本が潤いをなくし、不穏さを身につけていった。「そんなわけ、あるはずが。ただ、わたしに復讐するためだけに、ガッコウになら現れると思って? 見つけるためだけに、この職に?」

「見損なうんじゃない」バルキは言った。「ガッコウや、学びの場と呼ばれるものは、おれにとって最も忌まわしい。できれば近づきたくなどなかったが、子供が沢山いれば、それだけ危険ということにもなるだろう。そう、我が主のお嬢様を例外ではないのだ。ただ、守りたい。それだけの話だ」

「安心したけど」ファナは言った。「わたしと関係している子のほうにも、手なんか出さないでもらいたいわ」

「おれは、お前とは違う」

「わたしだって」思わず、大声になりかけた。「思い出してみれば、そう」

 言ったほうが楽になるだろう。わたしが悪かったわ。だが、言葉はつっかえ、出すことはできなかった。代わりとして、羽根がざわめくだけだった。

    ※

 石造りの学校に入ると、少しばかり気温が低くなったようだった。メリは慌てて、所属しているクラスのある、床にいくつかあるくぼみの一つに駆けつけ、腰かけ、鞄を置き、息をついた。授業開始すれすれだったようで、先生は口を開く直前だった。もう少し遅れてしまえば、授業に関する内容ではなく、叱責がそこから飛び出していただろう。

 授業は退屈だった。退屈ではない授業など珍しかった。あくびを我慢するのは本当に大変で、気づかれずに大口を開けるのは、半ば賭けだった。

 生徒となっている子供たちが成長し、ある者は文学者になるかもしれなかったが、その子供が私小説を著すとして、学校についてどのように書くのか。ごく一部だけが教育を受けていたので幸運とするか、選民意識になるか。少数という意識は、授業を面白く感じさせるのか。授業と授業の合間にある時間では、騎乗動物を自慢するのか。動物につけさせているデコレーションについて、比べあったりするのか。

「あのねー」休み時間にその子は、鞄に忍ばせていた焼き菓子をかじりながら話した。周囲には子供たちが壁を作っており、見つからないようにしている。だが、もしや先生は見て見ぬふりをしてやっているのではないか。その先生は、学校に行った経験の有無に関わらず、子供時代には盗み食いをしたことがあるのかもしれない。「あたしんちの子の袋、見た?」

 見た見た、という次々にあがる声は、お義理だったのかもしれない。

「でしょー」と、その子は得意そうだった。

 メリは子供たちによる壁のパーツとなりながらも、何について会話をしているのかは理解できていなかった。袋? 珍しい革でも使っていたのだろうか?

「すごかったよね」と、メリは言った。

「へー」と、その女の子は言った。「じゃあ、言ってみなよ」

「えっ?」と、メリ。

「何がすごかったのよ」

 メリは素早く返答した。言い淀むか、押し黙るか、普通の答えより早すぎるか、の反応しかできないからだった。その子を拳でぶちのめす、という選択肢はなかった。

「だ、だから」メリは言った。「袋についた、飾りでしょ」

 一応、場は収まった。

 一か八かの賭けではあったが、メリとその子の考えが似通っているのも幸いした。まだ、鞄にオリジナルな飾りをつけていくほどの度胸は誰にもない。しかしながら、送迎をしている有翼人の、その鞍に相当する袋ならば、可能性はあった。どんな飾りなのか、色や素材を訊かれなかったのは幸運だった。

 子供は、さらなる自慢も隠し持っていた。あるいは、言葉で飾りを説明するのが難しかったからかもしれない。次に出したワードは「お揃いなのよ」だった。

 その子は鞄に手を伸ばし、取り出した。焼き菓子ではなく、学校の外で身につけるであろう、紐を編んだ飾りだった。黄色、赤、アクセントとしての緑。花を模した形で、緑色の編み紐が何本も伸びているのは茎を表しているのだとみえた。どこで教わったのか、特に女の子たちには大好評で、反響するような声があがるほどだった。見せて見せて、触らせて、という言葉が続き、メリもまた同じことを言うしかなくなった。確実にお義理の言葉で。

「見せて」と、メリ。

「順番よ? じゃ、最初はメリに貸したげる。特別に」

 あるいは、先生は見計らっていたのかもしれない。それとも偶然か。あたかも、披露ではなく受け渡しのほうに罪があるとばかりに、その先生は大声を発したのだった。紐飾りはメリに向かう途中で先生の手がひったくり、手の中に消えた。子供たちは「えーっ」という声すらあげられなかった。

 休み時間は終わった。その後に控えている授業において、子供たちはとても静かで、それどころか従順ですらあった。

 やっと今日の学校が終わり、子供たちが帰途につく時間がやって来た。だが、このままではいけないし、まずいとわかっていたので、メリは声をかけた。

「ね、ねえ。ごめんなさい。わたし、なんとか先生に言ってみるから」

 返事はなかった。べっつにー、も、いいよいいよ、もない。全くの無。メリの存在は消えていた。

 こうなると、どうしても誰かに返事をしてもらいたくてたまらなくなり、次々に声をかけていった。普段はあまり話もしない子や、男子にも、年長の子供にも年少の子供にも話しかけた。返事はなかった。前者はメリの厄介者扱いに同調し、後者はよくわからないまでも雰囲気を察知し、行動を真似していた。

 メリは焦ったが、理由は言い知れぬ不安があるからだった。時間に追われていたり、友達とかけっこをしたりしての焦りとはまるで次元が違った。立ち場、立つ瀬が揺らぎ、自分がどんどん目減りしていくのを必死で押しとどめようとしているような、そんな不安だった。

 それでも、子供たちはメリを無視しつづけた。あれほど目敏かったはずの先生たちですら気づかないほどの巧妙さで、メリは透明にさせられた。メリ以外の生徒たち全ては学校から出ていき、一人だけ残る。外からは、雇っている有翼人が着地したり、また飛び立ったりする音がしたが、何よりメリの気が滅入ったのは、彼もしくは彼女がかけてやる愛情深い言葉が聞こえたからだった。外には、別世界が広がっている。

「メリ様、メリ様ー? お嬢様ー?」

「ファナ!」

 メリはファナに飛びつき、革袋があるのにも構わず顔をうずめた。ファナにしてみれば、あずかっている子供がなかなか出てこないので、翼をたたみ、なんとか戸口をくぐっていったところに、これに遭遇したのだった。

「ファ、ナ。ファナ! どこにも行かないで」最後のほうは、ぐじゅぐじゅして言葉にならなかった。

「お嬢様? 一体?」

「もうやだ。もうやなの」

「何があったのですか」

 ファナは、飛行の訓練を思い出している。有翼人の子供が嫌がるのは、今に始まったことではない。そう結論を出しそうになったが、しかし違和感があった。それにしては、あまりに泣き方がひどく、異常と思えるくらいだった。有翼人としての誇りを左右する飛行ならばまだしも、人間にとっての文字や算術は相当するとでもいうのだろうか。いや、人間の全てを知っているわけではないが、考えにくい。

 ファナは人間については多少知っているだけに過ぎないが、仲間外れや無視に関しては誰よりもよく知っていた。やり方も、その恐ろしさも含めて。意識したのは、つい先程だった。

「誰にやられたのですか」

 しがみついていたメリが、びくっと震えた。「い、言えない。言ったらきっと、もっと」

「わたくしめが、そいつを八つ裂きにしてや……」八つ裂きに? そんな!「わ、わたくしが、その子にわけを話してみます。それで、できるなら解決へと導きたいと思います」

「お願い。お父様や、お母様には言わないでおいて」

「そのようなわけには」これが、バルキの味わっていた辛酸なのか。「くそったれが!」

「フ、ファナ?」メリは声を震わせた。「やっぱり、意気地なしの子は嫌い?」

「そうではありません。大変、失礼をいたしました」ファナは抱き寄せた。「わたしは、メリ様のことが大好きです。お守りします。命に代えても」

 嘘ではなかった。この子が将来、復讐の念に突き動かされるのを考えただけでも、恐ろしくてたまらなくなる。

 ファナがメリを伴って校舎から出ると、一組だけ、送迎役と生徒が待っていた。崖のほうを向いてはおらず、出入口のほうを注視していた。バルキと女子。

 ひくっ、とメリが震え、しがみついていたファナにも伝わった。

「バルキ、お前」ファナは言った。「やるなら、わたしだけにしたらどうだ」

「何の話だ?」

「すっとぼけるなっ! お嬢様の御前だから、お前の羽根をむしってやらないでいるところだが、もしこれ以上やるようなら、わたしも黙っちゃいないぞ!」

「だから、何の話だと」

 女子は、バルキの袖を引っ張った。「ね、行きましょ。わたし、お腹が空いちゃったよう」

 猫撫で声だった。

 バルキは、その子を胸の革袋に入れ、飛び立ってしまった。隣に、今にもここから飛び降りそうなメリがいる以上、追うわけにもいかず、彼らが空の点になるまで無力感を味わいつづけるしかなかった。立ち尽くしているうちに、とうとう先生たちすら校舎から出てきてしまう。みな一時は気を惹かれたようだったが、隣にファナがいるので、ほとんど無視するだけだった。

 自覚を促されたのだ。そうだ、わたしは送迎のため使役される動物であると同時に、お嬢様の護衛だ。絶対に、なんとかしてみせる。

 そして、自分の過去にも決着をつけてやる。

    ※

 ファナはわざと遠回りし、予定となっている刻限をかなり過ぎてからメリの家へと戻った。既に薄暗くなる時間帯で、外には使用人たちが集合し、今にも散り散りになって探しにかかりそうだった。この家にいる使用人で、非人間はファナのみだ。ほとんど真四角の、装飾も何もない家だが、母屋や離れなどが塊になっていた。垂れ布をくぐり、家の中からまた一人、また一人と加わっていく。明かりを手にした男女が群れになっていると、それだけで何事かと誰もがいぶかるだろう。そこにファナは、大事な人間を胸に抱きながらふわりと着地していくのだった。地面に足をつく直前、強く一度はばたいたのは、彼らに無事を知らしめたかったからでもある。刻一刻と目立っていく松明が、まるでメリの帰還に驚いたかのように逆方向へと平伏した。

 使用人たちの目つきは剣呑なものへと一変した。炎の揺らめきを通してファナを刺すようでもある。しかし、袋から出たメリはまっすぐに立ち、ふらつきもしなかった。ファナは、この子は聡いのではないかと気づく。メリは言ったのだ。

「わたしが頼んだのよ。ちょっと、色々とまわってもらったの」

 使用人たちは取り囲むようであったものの、壁と呼べるほどではなかった。それでも、人ごみをかき分けるような勢いで、その人物は駆け寄った。

「メリ!」

 当人は超然としていた。「遅れてごめんなさい。でも、わたしが頼んだんだから、ファナを叱らないであげてね」

 父親は娘をかき抱いた。ファナは、自分の翼がぴくりと反応してしまったのを、それとなく感じた。この人物の胸の中にある熱は、ついさっきまで自分のすぐそばにあった。いや、自分だけが味わえていた。いいや、違う。借りものにすらならない。ただ単に、必要悪としてそばにいさせていただいているだけに過ぎないのだ。他に良い移動手段でもあれば、たちまち取って代わられるのは目に見えているし、そのほうがいい。偏見の目でこの子が見られるのだけは、避けねば。

 偏見の目? 広義で、それはいじめと呼ばれるのではないだろうか。これが、バルキの過去にあった出来事なのか。ならば、わたしは味わう必要があるのかもしれない。彼の気持ちを理解するためにも。

 いつ、悪ガキから脱せたのかはファナ自身にも不明だった。彼女は考えた。主人を無事に帰宅させてしまえば、馬など、ただ厩に戻って草を食んでいればいい。自分以外の全員がメリを中心にしているので、ファナは安心して離れることができそうだった。

「待て、ファナ」主人の、そのまた上にいる主人の低い声だった。

「はい」ファナは、はっきりと返事し、振り返った。

「後で顔を出せ」

「お父様」

「かしこまりました」

 有翼人(騎乗動物)の今後を予想してか、使用人たちの復讐心は満足したようだった。その場での叱責や鞭よりも効果的だったかもしれない。これに戸惑ったのは、ファナのほうだった。過去の出来事は思い返せたとしても、感情はそうはいかない。いつでも、新鮮な喜びを味わえれば、これほどいいことはないが、今は意地悪だった頃の感情を知りたくてたまらなかった。昔のままならば、絶対に復讐を遂げてやると心に誓っていただろう。何が、こうまで? 時間か? 人か? 出会いってやつなのか? と、ファナは問わねばならなかった。

 義務感だ。その場しのぎでいい、そう仮称しておこう。メリを守らねばならないし、過去にも決着をつけるのだ。

 明かりから離れていき、ファナは巣へと腰を落ち着けた。狭いほうが落ち着くのだが、屋根はなくても構わない。実際の厩のそばなのは、たまたま空間があったからだ。口さがない噂で、やっぱり人よりあっちのほうが近い、と言われようがどうでもいい。家畜のように柵で囲ってあり、大きさはそれこそ厩程度だった。木の枝を組んで作った巣。財産のような財産などない。ファナは革袋を外し、どさりと置き、背伸びを何回かした。翼で毛布のように体をくるみ、食事も水も後回しにして、ただ休むだけにした。いつものところ、いつもの手触り、いつもの安心感。

 少しの懸念があった。壁を隔てていたとしても、ぱちんという音は、あまりくぐもらないだろう。泣き声も。まさか、食事すら? ならば、どんなに止められたとしても真実を伝えねばならない。だが、ファナはメリを信じていたし、メリが信じられる人柄という事実は、後ろに信用のおける家族や、周囲の人間関係がある証左だった。

 だから、屋内の悲鳴ではなく、爪先で小突かれて起きられ、むしろ安心した。その使用人には傍若無人に映る、まるで小鳥のさえずりで目覚めたような大きな背伸びをファナはしていた。朝ではなく、まだ夜は続いていた。

 一家の主人は、ただ一室だけある、一人用の小部屋に座っていた。閉め切りが必要となる気候ではあらず、また、個室を作れるくらいの裕福さがある家などほとんどない。この部屋の名称を誰もが決めあぐねており、自然にここは「懲罰室」と名がついていた。ほとんど書斎としての使い方にせよ、使用人にとってはそのものだった。主人や、その家族が知っているかどうかは怪しい。

「失礼いたします」

 主人は、分厚い敷物の上で胡坐をかいていた。机は正面の壁際にあるので、見ている方向もまた机で、ファナには背を向けるようだった。ファナは棒立ちになったままで、どのような命令もなされないまま時間は過ぎていく。しかし無為ではなく、濃く、粘っこかった。

「何もおっしゃらないようなので、申し上げます」ファナは言った。「もうご存知のことでしょうが、メリ様が気紛れを起こされ、わたくしめに周遊をお命じになりました」

「聞いた」

 人間の習慣についてはあまり詳しくないが、嘘をつききれるだろうかと自問した。「下で子供たちは、子猫と遊んでいたり、親から言いつかった用事のために小走りになったりしていました。メリ様はご覧になって、勉強になったとおっしゃっておいででした」

「あの子が、そんなことをするかな?」

「わたくしは、見たまま、聞いたままを申し上げるしかございません」

 またもや沈黙が下りた。ファナは疑心暗鬼になっていき、もしや眠っている間に平手打ちも悲鳴もあったのではないか、とどんどん猜疑心が膨らんでいった。

「あのう」とうとう、ファナは声を発していた。「メリ様は、もうお休みになったのですか? お食事は、きちんとお召し上がりになりましたか」

「学校で何があった?」

「どうやら、ベンキョウというものらしいですが。いえ、ベンガクでしたか。わたくしは、立ち入りませんでしたので」

「メリは、後はお前に任せると言っていたぞ。言葉にすれば『ファナがやってくれると思うから』だったが」

「左様ですか」

 口止めされている。いい? ファナ。誰にも言わないでね。お願いね。袋の中で発していた言葉は、まるで体の内部が語るかのようだった。

 どのような言葉を続けたかったのか理解できる。心配をかけたくないの。困らせたくないの。そこに、ファナ自身の罪の意識も加わった。過去と決別しなければならない。決別してみせる。何より、バルキの暗い心が、いじめっ子に移らなかったとなぜ断言できる? いや違うわ、とファナは思いとどまった。バルキは確かに暗い心になったかもしれないが、あの家の子はやった側だ。バルキが、もしも処罰感情にとらわれたとしたら。

 まずい。保護すべき子供が倍になるなんて。

「よろしいでしょうか、旦那様」ファナは冷静さを装った。

 踵を返そうとすると、主人は言った。「待て」

「わたしは忙しいんです。失礼します」

 樹木が、あり得ない速度で成長し、大木になったとしたら。それが背後で演じられていたとしたら、こんな威圧感を覚えるのだろうか。ファナの視界で、むくむくと大きくなっていったのは明かりによる主人の影であったが、あっという間にファナの影を飲み込んでしまった。明かりが近くにあったから、という理由以外にも何かがあったとしか考えられない。両翼の根本が別の生物のごとく蠢き、それぞれの羽根も風を受けた森のようにざわめくのだった。

「待てと言っている」

 ファナは微動だにできなくなり、おもむろに振り返るしかなかった。男性ゆえにファナより上背があり、表情は、子供に対して怒る父親そのものだった。似た顔を、ファナは目にした経験がある。自分の父親だ。

「座ってもらう」

「旦那様」

「座れ、と言わせるな」

 使用人である以上、主人を先につかせるのは当然だ。だが、どんなに待っても相手がそぶりを見せなかったので、ファナは先に腰を下ろし――膝を屈するしかなかった。翼をしゅんと折りたたみ、体の周囲に巡らせる。繭。盾。緩衝材。ファナの脚が床につき、完全に座った姿勢になってから主人はゆっくりと腰を下ろした。二人の距離は、ごく近い。やろうと思えば、主人は使用人を一瞬で組み伏せたり、刃物で突き刺したりできる近さだった。そのつもりならば、ファナが姿勢を低くした時点で、その主人はいかような行動にも出られたはずだったが、ファナは可能性を思い浮かべることすらできなくなっていた。ひたすらに、蛇が苦しまずに死なせてくれるのを望むだけだった。

「最近、どうだ」

 曖昧な質問ですら恐怖の権化だった。心配事はメリのこととバルキのことの二つしかなかったはずなのに、二者が混合してしまうと、それだけで手に余るような問題になったようだ。人生をかけても解決できないような大きさ。正面にいる主人の座った目つきは、弁解だろうと、最良の解決手段であろうと封印してしまうかにみえる。ファナは、じっと我慢の時を過ごさなくてはならなかった。足をたたんで座っているわけでもないのに、徐々に痺れが足元から駆け上がっていく。太腿にも、骨とはまた異なる、その周囲にある筋肉の真ん中あたりから音もなく、びりびりが忍び寄ってきていた。同じ姿勢を同じ時間だけしているのに、主人はまるで平気のようだ。体の構造からして人間と有翼人は異なるものの、これは精神からして、主人もまた他の人間より頑健なのではと推し量るに十分だった。

 まだ我慢はできる、もう少しだけ無言でいよう、というのを何度続けたかわからない。これまでの経験から、あまり効果的な方法ではないとわかっていた。が、他にやり方も見つからなかった。忍耐。きっと、メリ様も……ファナは雷に打たれた。

 脳裏に、雷光が形を変えた像でメリが描き込まれていった。部屋の隅っこにうずくまっていて、表情はうかがい知れない。それでも、苦しんでいるとわかる。一番の、最悪の苦しみとは、それを誰にも話せず、共有もできず、言葉にして煙のように排出できないことだ。あんな小さな体、有翼人が袋に入れて運べるような体一杯に、我慢をみなぎらせていて。

 わたしは、一体何をやっているんだ? 一番、強いられているのが誰かは明らかじゃないか。立ち上がると同時にファナは両翼を花開かせており、影を入れれば部屋全体に満ちるようだった。きっ、とメリの部屋のほうに視線を向け、続けて主人を見下ろした。

「失礼、いたします」

 返事を聞きはしなかったし、止めたとしても聞き入れなかったろう。ファナは飛び出すのだった。口さがないのが取り柄のような使用人たちは、もう寝静まっていた。廊下を飛ぶように駆けた。

「メリ様!」

 わたしは、何がしたかったんだ? 過去の清算か? ファナは部屋に飛び込んでいる。

 そこは、いつものメリの居室ではなくなっていた。だが、暗かったり、すすり泣きが響いていたわけではない。正反対で、とても明るく、空の上のそのまた上にある太陽が赤々と燃えていた。屋外だって? ファナは混乱している暇もあらばこそ、何人かの人間が目に飛び込むのだった。全員、小ぶりな翼を背中にいただく有翼人の子供たちで、白い翼も黒い翼も、茶色地に貝のような何本もの曲線が入った模様の子もいる。彼らは車座になっており、中心には大人の有翼人がいて、座学をやっているようだった。

「お嬢、様?」ファナは見回したが、メリの影も形もなかった。

 知らず知らずのうちにファナは、数歩だけで立ち止まっていた。砂地の足音はしたのに、足跡がついていないと知る。振り返ってみても廊下はなく、戸口もなく、ただただ足元と同じ、黄色い砂の土地が広がっているばかりだった。ところどころ、思い出したように自然が配置した、頼りのない樹木があるだけだ。

 この情景は、有翼人ならば誰でも憶えがある。教師役となる大人が、子供たちに飛行を教え込むのだ。だが、どうしてこんなところに、こんな時に? それでも、ファナの心は焦るというより、不思議さに満たされていく。汗をかくような気ぜわしさは少しずつ追い出されていった。

「おい」と、教師役の有翼人がファナを見つけた。「どうしたんだ、ファナ。早くこっちに来て、座りなさい」

 同名の別人かもしれなかったが、教師の目にも憶えがあるのだった。どれだけの生徒が、教師に対し恋愛感情に近いものを持つのか知らなかったが、月並みであるとファナはわかっている。それでも、抗えなかった。でも、どうして?

「は、はい。すぐに行きます」

 ファナは、女子は女子だけ、男子は男子だけで、それぞれ輪の半分ずつになっている中に、なんとか割り込んだ。

「それじゃあ、始めるぞ」教師は言った。

 教えていく内容は、ファナが既に知っているものばかりだったが、彼女は思い出せてもいなかった。一言一句、過去と同様であることに。大人の有翼人が中心におり、周囲には子供たち。ファナは左右が子供である中、一人だけ体も大きかったのに、みなには違和感もないようだった。不可思議だという感覚と、感覚を意識する感覚、とでも呼ぶべきものすら薄れていき、ファナは心すら子供時代に回帰していくようだった。

 座学の後は、もちろん忘れないうちの実技となった。子供たちは砂を払って立っていき、その後に全員が緊張した。

「よし。じゃあ、最初は誰がやるか?」教師は訊いた。

「はいはい、はーい!」と、ファナは元気良く返事をした。「えっ、なんで?」

 子供たちの、くすくす笑いが洩れた。

「じゃあ、ファナ。やってみろ」

 まるで操られているようだった。自動的に体が動き、進み出ている。飲み込みが早く、教えられた通りに動けるファナは、まず教師役に抱えられた。空高く飛び上がり、落とされた。勢いを受けて背中の両翼が開いていくに任せる。いまだ開け、と教師が手を叩く合図もいらなかった。この中で一番早く、かつ速くファナは、一度も失敗せず最初に飛行を習得していた。

 自由自在に、それこそ天才児のように空を舞ったのち、最後にとんぼ返りをしてから、ゆるやかに滑空、着地した。子供たちは、ぽかんと口を開けて見上げていて、多少の大きな音はあれど、助走ならぬ勢いを殺すための走りを終え、ファナはみんなの元へと戻っていった。

「そうだ。みんな、今のを参考にするといい。なかなかだった」

 ファナは知っていた。これほどまでに上手にできる子供など、いまだかつていなかったという事実を。そして、昔の自分は尊大で、居丈高で、鼻持ちならない有翼人だったということを。性格が変化する瞬間があるとしたら、今こそがそれだった。

 他のみんなが、落とされたり、翼を開く訓練のため頑張って走ったり、踏み切ってすぐ前のめりに転んだりするのをファナは見ていった。攻撃の対象として選んだのは一人の、黒い翼を持つ有翼人の少年だった。

 やめて。もう見せないで。お願い。

 少年は、この頃はまだ自信満々だった。男の子の常であるのか、他の子供たちと助走のために離れていくのですら競争にしてしまっており、豆粒のようになるまで離れていく。教師の、もう十分だという声も届かないか、届いても無視している。よーいスタートで、最初から全力で走っていき、そこから踏み切り、飛び立とうとする。誰もが知っている結果がついて回り、砂に腹から落ちてばつが悪くなったり、膝をすりむいたりしていた。服の中にも細かな粒が入り込んでいき、気持ち悪さを味わわねばならない。口を動かし、唾と一緒に砂も吐き出していた。

 ファナは軽々と飛び立ち、一番出来が悪かったバルキの前へと降り立った。「ばっかみたい」

 それは、少年の心をずたずたに引き裂いただろう。

 もう、やめて。わたしが彼を傷つけたのは、もうわかった。わかったから、お願い。もうやめて。過去は、現在を構成する一部として、現在のファナすら八つ裂きにかかるのだった。

 夜の家屋。ひっそりさの権化において、他者の粗を探すことにかけては右に出る者がいない使用人たちは、それ自体が一つの不定形の生物であるように動いていた。彼らが発見したのは、最も大事な子女がいるその部屋で一人、頭を抱え、上半身を左右に動かしているファナだった。彼らが目にしたのは背中で、両翼もまたそれぞれ別の動きをしていた。子供ながらの無遠慮な指弾を受けていると思い込んでいたので使用人たちには意外だったが、罰を与えるべき人間は寝床にはおらず、めくれた布が殻として残っているのみだった。彼らは、ファナの行動の原因はメリの行方不明と結びつけるしかない。誰も、ファナ自身ですらも、過去のせいだとは思ってもいなかった。

 いい気味だという含み笑いを、ファナは聞きつけていた。使用人からの光景として、まずファナの翼の動きは停止し、あたかも死を受け入れた貝のように閉じていく。続いて手の動きも止まり、鳥が空中で命を終えたように落下し、肩からの肉の命綱によって繋ぎ止められていた。

「お嬢、様」ファナは言った。「一体、どちらに」

 いけない、と瞬間的に思えたのは、あるいは過去から視線を反らす手段であったのか。自覚するいとまもなく、ファナは寝床のそばに屈んだ。まだ、多少のぬくもりは残っていた。それでも、毎日のように胸で、腹部で、顎で体温を感じていたファナには物足りなかった。決心を行った。必ず見つけ出し、過去もまた清算すると。してみせると。

 ファナの動きは一直線で、混乱の動きとは別人で、使用人たちは彼女こそが主人であるかのように道を開け渡さねばならなかった。

 外はいまだ暗かったし、もっと闇は書き加えられ、寒くなっていき、筆の側だった闇もまた、他の闇に重ね塗りされていくだろう。左右を見回しても、昼間にそこにあったはずの何か、壁や家具の形も色もわからず、メリを探している人たちの灯りも見えなかった。見せてやる、最初からやり方がわかっていた有翼人の飛行というやつを、とファナは思った。バルキをいじめた、過去の精神性の副産物であるとわかってはいたが、意図的に思考は切り離していた。後で、罰ならいくらでも受ける。今はただ、メリを見つけたかった。ファナは飛び立った。

 夜闇であれど、子供がいきそうな場所ならば心当たりがあり、行き慣れてもいた。親族の家も候補ではあるが、ほとんどの日にちが家とそことの往復ならば、見知ったところにメリが赴くのは当然のようにみえた。

    ※

 騎乗や荷役のための動物、乳のための、あるいは肉のための、あるいは子供の送迎をさせるための必要悪の手段としての存在、が敷藁ならぬ敷草の上でゆっくりと目を開いていく。他の動物はうずくまって寝入ったり、習性として立ったまま夢の中であったりする。バルキの閨には、雨を防ぐための屋根も、風を防ぐための壁もなく、足元の枯れ草があるのみだ。言い分としては「その翼は偽物なのか? お前は家畜とどう違う?」であり、金を余分に使ういわれがないのだとわかっている。それに……それに……。

 格下扱いには慣れている。

 またか、とバルキは嫌々ながら立ち上がった。嫌でなかったことなどない。眠れない夜が何度となく訪れ、そこらを散歩する必要に見舞われたり、酒の助けを借りたりしなければならなくなる。他の者にとって夜を司る神や、闇の神は時に味方となり、睦言を交わす手助けになったり、それこそ毎日のように眠りに落としてくれたりする。本当だろうか、とバルキは常々疑問を持っている。目を閉じるという、植物の種くらいの広がりしかない闇ですら苦痛を強いる。過去が繰り返し繰り返し、繰り返されるのだ。その度に鮮明さと鮮烈さを増し、強制的に。子供たちが徒党を組むのは知っているつもりだし、序列が自然に出来上がるとも知っている。それでも、目上の子は目下の子を、特に一番下の子を保護し、序列のある、組? 党? グループ? に秩序を与える。それでも、時には他の組や党やグループを争ったり、ごくたまには、ごくごくたまには、一人きりでさまよっている存在、相手は動物だろうと何だろうと構わないが、攻撃して結束を保つ。

 不運に過ぎないのだと理解してはいても、やはり耐えがたかった。どんな行動も無意味で、ガッコウとかいうもので、その子供を守るために人間の下についたという精神も、弱さの証明にみえてならなかった。

 とにかく、思考を止めてくれるならば何でも欲しかった。沢山試してきて、酒も、喧嘩も、硬い壁も、有効ではなかった。壁が血みどろになるくらいに頭を打っても無駄だったので、もう選択肢は残り少ない。最終的には、遥か高みでわざと飛行をやめ、もっと遥か高みに昇るくらいしかない。

 いや、お前はわかっているはずだろう、バルキ? 彼は自問する。同胞にやられたことは、同一人物でなくとも、同胞からでしか取り戻せないと。誰であろうと、原因そのものから視線を逸らすためには努力を厭わない。それどころか、生涯にわたって逸らしつづける人すらいるのだともわかっている。わかりきっている。だからこそ、望みをかけてこの職に志願したのであるし。

 そこらを歩き回りだした矢先に、母屋からの罵声が耳朶を打った。一家の主人の声だ。また誰かがへまをしたのかと思うが早いか「でも」という子供の声が続いた。

 バルキは砂岩の壁に手をつき、耳をそばだてた。怒声は続いていく。わかっていることはただ一つ、虫の居所が悪ければ、どのような物事ですら、どのような人間ですら怒りの対象となるということだけだった。相手は自分の子供であろうと、出来事が飛行練習での失敗であろうと構わないのだ。

 普通なら泣き出したり、母親か誰かが止めに入ったりするところなのに、主人と奴隷もしくは家畜のような二者関係になってしまっているらしく、怒鳴り散らす声しか聞こえてはこなかった。やれやれ、とバルキは思うしかなくなる。これでは、あの子がどこか別の場所で憂さを晴らすことになるだろう。ガッコウとかでもいいし、自分に対して無理な注文をつけるという行いによるかもしれない。別にいいさ。おれは、そういうのにぴったりなんだから……いや?

 まさか、という思いは拭えなかった。いじめたほうは大抵、その事実を忘れ去っているものだし、いじめられたほうも忘れたがり、時には成功することもある。これまでの経験でバルキが知ったのは、やったほうはやられたほう、という経緯だった。酒も、硬い壁に頭を血が出るまで頭をぶつけるのも、対象が異なるだけでやられるのに違いはない。

 なら、ファナもやられていて、やったことで忘れたというのか。

 このままでは感情を持続できなくなってしまう。どす黒いそれだったとしても、持ちつづけねばならない。そのためなら、叱責を受けたとしてもいい。バルキは大股で歩み、主人と、いじめられっ子になっているいじめっ子がいる部屋へと踏み込んだ。

「失礼いたします」

 上がることすら許されてはいない。ましてや、お叱りの最中なのに。

 大声をあげる瞬間に訪問者があったので、主人はしゃっくりのような動きになった。「どうした」

「気になりましたもので」バルキは両膝をついた。慣れっこの行動だ。子供の頃から。「お疲れでしょう。よろしければ、奥様をお呼びして参りますが」それから、バルキは声をひそめた。「このままでは、お嬢様の心は離れてしまうかもしおれません。世の常とはいえ、どのようなご尊父ですら恐れることでしょう」

 主人を動かしたのは、子供に嫌われることか、はたまた「どのようなご尊父」から外れることであったのか。

「もういい。あいつを起こす必要もない。寝床に案内しろ。水を飲ませてやってから、休ませろ。明日もガッコウなのだからな」

 かしこまりました、とバルキは言い、視線で子供に合図した。

 部屋を出てすぐ、正面の床にあった揺らめく影が消え去り、あたりは闇一色になった。主人が灯りを吹き消したとみえる。それもまた合図の一種となり、子供は崩折れ、ひざまずきとはまた違ったつき方をした。やっとお叱りが終わった後の、へなへなとし、肩が楽になったようではまるでない。戦争において、部隊の敗走や壊滅を荷とした伝令役が、やっと仕事を終えたようだった。

「バルキ、おぶ」

 バルキは抱っこした。翼のせいでやれなかったのだが、なかったとしても前に抱いていたかもしれない。子供部屋まで運び、水瓶から汲んでやり、器を渡し、見守って、顎まで布団をかけてやった。

 すぐに寝入るだろう。バルキは背中を見せたが「あのね」という言葉が引き止めた。

「ガッコウでね、嫌な人がいるの」

 その時の、その瞬間の緊張は、全ての過去を伴っていた。

「そう、なのですか」

「その人ね、その子ね、わたしの飾りをとったのよ? 勝手に」

「そう、なのですね」

「だからわたし、みんなでそいつのことをシカトしてやったわ」

 シカトとかいうものの意味はわからないにしても、良い行為ではない、いや、全くないであると容易にわかった。過去の想起は、過去が圧縮した塊になった。喉につっかえるような、重苦しくとげとげしい物体に。この子はどうして、自分がたった今、苦しい思いをしたにもかかわらず、他の子にそのシカトというのができるのだろう、とバルキには疑問だった。

「シカト、とは何のことなのですか」

「そうね」子供は言った。子供の名前はイム。「無視することよ。いない人間として扱うの。話しかけられても返事しちゃだめだし、もししたら、その子もシカトされるようになるのよ」

「たとえば、その子の失敗、いえ、どんな行動をしようと笑いものにしたりはなさらないのですか?」

「だって、そんなことしたらセンセイにばれちゃうでしょ。だから、こういう静かなのがいいのよ」

 存在を認めないのだ。悪口雑言を浴びせるなら、まだ対象としてそこにいるのを是認せざるを得ないが、こちらは皮肉にも似て、相手を相手として扱っていないらしかった。

「その子の名前を、うかがってもよろしいですか」

「あら、バルキ? あなたも協力してくれるわけ?」

「お名前を」

「あれれえ? そんな子、いたっけか?」イムはおどけた口調だった。「嘘よ、嘘。名前はメリっていうの」

「自分で登って通学している子ですか」

「あなたみたいなのに送ってもらってるわ。ファナっていったかな」

 おれは、どうしたらいいんだ。

 バルキは相手から真実を聞き出す手法を使っていたのだった。あたりはつけていたのだが、有翼人で通学しているのですか、と訊いてしまえば答えは「そうよ」か「そうじゃないわ」しかない。だから、わざと違ったことを口にし、有翼人であると聞き出したのだ。

 ここで壁に頭を打ちつけるのはまずい、愚策だ、いや愚の骨頂だとバルキは抑えねばならなかった。もっと、最悪といっていいくらいの行動もある。この、いじめっ子の頭をつかみ、壁にたたきつけてやるという、一瞬だけは胸がすくであろう犯罪だった。ファナをそうしてやりたいという欲は、今になっても持ちつづけている。それでも、ファナが世話をしている子女こそ、イムがシカトとやらの目標にしている子で……おれは、どうしたらいいというんだ。

 バルキは我に返れたのは、イムの寝息が聞こえてきたからだった。規則正しく、穏やかで、先程までの様子が嘘のようだ。バルキは、ファナもまた誰かから、という推測が確信に変わっていくのを、まるで現実に存在する固形物の変化のようにつかめていた。水を失ってぼろぼろになっていた粘土に、人が飲めるような水が加わり、潤い、可塑性を取り戻していく。それでも、まだバルキは自身がそうなっているとは感じられないままだった。頭を壁で打ったのは、前後不覚になり、深酒よりもひどく、永遠に粘土を壊してしまうという意図もあった。まだ変化は感じとれていなかった。

 でも、これからできるかもしれない。ファナに会い、メリにも会い、まずは顔合わせでいいから問題意識を共有しさえできれば。

 にわかに興奮に似た感情が湧くようだった。疲れてはいるのだが、足取りがおぼつかなくなったり、壁に手をついたりはせず、むしろ闊歩といえる。イムの部屋を後にし、外に出てみると風が心地良かった。どれだけ体が熱を帯びていたのか知れる。

 一人になりたかった。だとしても、シカトされたメリの孤独には及ぶまい。バルキは助走し、両翼を一杯に広げた。

 過去が再燃してしまっていた。誰であれ最初は失敗するのに、狙い撃ちで嘲笑がある。すると、その子は失敗自体より声を恐れるようになり、みんなでの練習が終わってからも飛べず、夜中まで一人で訓練するはめになる。いや、はめになった。幼いうちに習得できなければ、大人になってからできるようになる有翼人はごく稀だ。腕や脚を失った人間のような扱いになる。その頃はまだ、たとえ飛べようとも飛び方が、誰より上手に飛べようとも、次には羽根の色が標的になるとは知らなかった。

 バルキは段差もなくつまずき、屈み込んだ。遅れて両翼が垂れた。もう一度だ、と言い聞かせ、今度は成功した。

 ガッコウがある山頂まで、順調に飛行できた。感覚で近づいていくのが知れると、風が濃くなっていくようだ。有翼人において、風は受動風と能動風に別れる。受動風は、実際の風速や方向で、みなの認識が一致する。能動風は、各々の主観だった。

 風はおれを無視しない。シカトなどしない。制御してみせるさ。彼は能動風を切り替え、ガッコウの敷地に降り立っていた。

    ※

 ファナは、いつものところに降りた。どこでも、お気に入りの着地点はあるもので、メリを伴っていまいが変わらなかった。特段の危険もなく、先んじて使い、そこに立っていた有翼人がいるわけでもなかったからだ。足裏の感覚は普段通りで、夜の視界の悪さはあれど、渡り鳥や伝書鳩のような生来の勘で、ここは位置的にガッコウであると知っていた。

 以前は、人間が崇め奉る神殿だったところか、とファナは正面に進みながら考えた。カミサマを崇拝し、建物もまた神聖だとみなしていたのだろう。目ではとらえられていないのに、正面にはカミサマたちがいて、こちらを睥睨するようだった。しかしながら、ファナのイメージではカミサマたちは神殿に守られているのではなく、神殿そのものに姿を変えており、しかも、どくどくと脈動する、大きくなったり小さくなったりする、動物から取り出したばかりの心臓のような神殿になっていた。複数のカミガミが石の皮を着て、その中にぎゅうぎゅうに詰まっていて、今にもはちきれそうだと。

 どうして、子供たちはこんなところで学ばなければならないのだろう? 疑問であったし、メリをいじめた子が出てくる温床にもなっている。いや、しつけが悪ければ、どこの誰であろうとそうなるのか。居場所や性別に、種族が加わってもおかしいとは思えなかった。

 知らず知らずのうちに、ファナは神殿に近づき、見上げていた。人間のカミサマを敬っていいかもわからないし、そもそも夜で、姿すら見えてはいない。だがしかし重要なのは、カミサマが見ておらずとも信心を保持したりすることだともいえるのではないか。ファナは見上げ、見上げつづけた。

「ごめんなさい、カミサマ」

 わたしは、と続け、過去の粗探しをしそうになったところで、神殿もとい学び舎の内部から声が聞こえた。まさかカミサマではあるまい。ファナは鼻白むと同時に意識を戻し、ゆっくりと進んだ。

 中にいたバルキの翼の色は、まるでそこから根源となって、水で溶かした顔料のように広がっていき、この闇夜を作り出しているかのようだった。思わずファナは立ち止まってしまう。バルキが立っているのは、古のカミガミたちを描いていたといわれる壁の手前だった。現在の人間によりずたずたに傷つけられていて、もう、どこにどのような柱がいるのかも不明だ。バルキは、飲み込まれるためにあるような灯りを手に、睨みつけるようだった。こちらには気づいてもいない。

「なぜだ?」バルキは壁に問いかけた。「なぜなんだ?」

 誰でも、いつでも、どこかでそんな声をあげている。それでも、ファナは自分に投げかけられているようで、返事をしたくなっていた。

「おれはただ、静かに、心穏やかでいられればそれで」ぶつぶつとつぶやいていく。「武器を手にした異民族ならば、わかる。だが、剣を持っていたとしても、それに使われるような子供でしかなかったんだぞ。まさか、予行演習というわけでもあるまいに」

 バルキは一歩、壁に近づいた。つかめるような突起はないが、そのような勢いで掌をつけた。つけたまま、首だけを限界まで後ろに逸らす。

 バルキは額を叩きつけた。

 ファナは息を飲むしかなかった。最初に思い浮かんだのは苦行という言葉だったが、カミサマに心酔したというより、むしろ憎んでいるようだ。すぐに、誰を相手にしているのかファナは察してしまっていた。

「もうやめろ!」ファナは声をあげた。「わたしにやればいい!」

 聞こえていなかったのか、聞くつもりがなかったのか、もう頭がおかしくなっていたのか。ファナが動けずにいると、バルキは膝から倒れた。有翼人ならば誰しも、このような動きに際し墜落や墜死を連想し、いたたまれなくなる。人間が歩行の最中に死ぬか? でありながらも、ある種の残念さと、嘲笑と、慈悲心と、まぜこぜで手厚く葬られることになる。ファナは、そんな死に方を目にした有翼人のように駆け寄っていた。

「バルキ」

 わたしのせいなのか、と思うと同時に、呼びかけにはどのような意味がこもっていたのかと考えていた。代わりに、どんな言葉をあてがえるのだ。大丈夫、か? 馬鹿なことを、か? わたしが死ぬべきだった、か? 畜生、今は何も考えるべきじゃないだろ!

 ファナはバルキを仰向けにしてやり、まだ息があると確認した。額は血みどろで、顔面を覆わんとしているも、後頭部へと流れていき、背後にある黒翼に光沢を書き加えていた。まるで、この壁画のようにバルキを否定しにかかっているかのようだ。有翼人のシンボル。ファナは思わず壁画に目をやり、同じようになっていると知った。人間のカミとはいえ、否定されてしまっている。

「起きろ、起きろよ!」ファナは声を張り上げた。

 看護のかいあって、バルキは目を覚ました。

 起き上がりざまに、極太の蛇のような動きでバルキはファナの喉首につかみかかっていた。安心しきっており、頭部への血と肺腑への息が同時にすぼまる。何があったのか、どうするつもりなのかと、ファナはいぶかった。血流と息が十分だったなら。バルキはすっくと立っていき、ファナもまた首に縄で同じ行動をとるしかなかった。上背はバルキが勝っていて、ファナは爪先立ちになるようだ。あまりに高く飛び上がろうとした有翼人のように、頭に靄がかかっていく。空気を求め、口を開け閉めしていっても露ほども入らない。

「お前のせいだぞ」

 答えられないし、答えようとも彼の行動が変わるとは思えなかった。

「抵抗しようとしているんじゃあるまいな。強く羽ばたいたり、猫の喧嘩みたいに足で蹴ったりして、離れようとしているわけじゃあないんだろう? なあに、すぐ終わるさ。少なくとも、何十年も苦しむわけじゃないんだし。その間ずっと、酒を飲んだり壁に頭をぶつけたりする必要もないんだから」

 鬱血していき、聞くどころではないとバルキにもわかっていたはずながらも、声は呼びかけるような、叫ぶような調子になっていった。しかしながら、やっていくうちに語ったり、説諭のようにトーンダウンした。訥々ともなっていった。しかし、ファナには聞こえていなかった。

 やらなきゃ。わたしは、やらなきゃ。そうじゃなきゃ、メリが大変なことになる。ファナは最後の力を。

「おいおい、おれをどうにかするつもりなんだろう? わかっているさ。だが、おれをどうにかするってことは、過去を丸ごと葬るってことなんだぞ。それでいいのか? まあいい。お前をできなかったら、お前が世話してやってる奴を同じ目に遭わせるだけだよ。それでいいんだな?」

 最後の、力を……。

 ファナは、バルキの手首をつかむまではできていた。力を、最後のそれを入れ、ひねり、それから先はどうなるか知らないが、やればいいだけのはずだった。いや、こいつの言うことを真に受けるのか、とどこかで何者かが呼びかけている。それでも、ファナにはバルキが正直だとわかる。クソ真面目でなければ、ここまでできまい。気が遠くなっていく。墜落する速度がどんどん増していくように、意識が消えそうだった。報い。受け入れるという名のあきらめをしてしまえば、そこから先は一気に楽になるだろう。待っているのは、死そのものとなっている地面に他ならない。ごめん。メリ様、他の有翼人を雇ってください。

「ファナ!」

 メリを捜しに訪れた上での遭遇だったはずだ。声しか聞こえはしなかったが、はっきりとした口調で、幻聴ではなかった。メリは登攀による、かすり傷だらけの体でそこにおり、一部始終を目にしていた。

 始まってしまったかもしれないが、終わってなどいない。ファナはバルキの手首をひねり、脱出した。血と空気が一気に、駆け上ったり肺に下りていったりし、混乱するほどの生気が満ちる。熟れ過ぎた果実のごとく、張り裂けてしまいそうだった。ファナは足元もおぼつかず、受け身もとれずに倒れ込むが、バルキは捻挫にもならない痛みがあるだけだった。ファナからは水分を失った羽根が数本抜け落ち、散らばる。バルキはゆうゆうと接近していく。

「あ、危ない! やっちゃってよ!」

 バルキがうつったのか、ファナにも冷笑の思考が忍び寄っていた。これは、子供が手放しで応援するような英雄譚などではないわ。わたしの罪をそそぐなら、ここでやられる必要だってあるかもしれない。

 メリは足元の小石を拾い、焦った、ぎくしゃくした動作で投げつけた。勇気があったわけではあらず、どこかファナとは違う思考があったからによる。復讐譚ではなく、英雄譚だと思い込んでいる。さもありなん、英雄には仲間がいるだろうし、献身的な助けにより英雄は力を取り戻すのだ。そして、カラスのような腐肉あさりのような、そんな怪物は永遠に滅ぼされるのだ。めでたしめでたし。

 バルキは背中、それも翼をちくりと刺した小石をうとましく思い、振り返った。彼の視線だけでメリはすくみ、動けなくなる。重要なのは、メリが女の子のような服装をしていたという事実だった。過去のファナと同じだ。

 バルキは目標を変え、メリへと進んだ。小鼠のごとく、物陰へと逃げ出していく。バルキは特に歩みを速めず、余裕を持って歩むようだった。メリは、遮るものもない学び舎の中で少しずつ少しずつ追い詰められていく。ファナは目の当たりにしながら、関節を一つずつ確かめるように立ち上がっていかねばならなかった。

 メリは隅を背にし、正面にはバルキが新たな柱か壁のごとく立つようになる。首根っこをつかまえるために手を伸ばしたところで、幸運による作用でしかない逃亡にメリは成功した。なんとか脱出し、二つの目標物が選択肢に入る。ファナか、出口か。英雄ならば、どうするだろう?

「だめです、お嬢様!」

 メリにためらいはなかった。目が語っていた。一直線にファナに向かい、達し、助け起こすのを手伝った。

 バルキの逆鱗に触れないわけがなかった。

「大丈夫よね? ファナ、だいじょぶだよね? あんな奴、やっつけてやっちゃってよ!」

「逃げましょう」

「えっ?」

 意味がわからないままのメリを抱き上げ、ファナは出口へと走りだした。最悪の状況だとわかるのは、後ろを向けてしまっているからによる。有翼人ゆえに、翼をつかまれてしまえば弱く、急所と同義なのだ。それでも、ガッコウがある断崖から飛べれば、たとえ滑空にせよ逃れられるに違いなかった。降りきってしまえば、この夜闇だ。

 もう、主人の感情が推し量れるようになっている。混乱していて、なぜあいつをやっつけないのか疑問で一杯だ。ファナは、年長の人間が最もやる言い訳すら、今は伝えられなかった。それはまた後で、という言葉だ。

 彼らは学び舎から飛び出し、改めて暗く、子供ならばむずがって外に出ようともしないような冷たさの中へと身をさらすのだった。どこに行けばいいのかわからない、どうすればいいのかすらわからない。ただ、問題だけがそこにある。問題に体躯があるとして、吹き出物や腫瘍のように、鈴なりの果実のように、関連する種々の事柄が連なっている。問題の根源の問題や、派生していくそれ。まずは身の安全を、と考えすらできなくなっていて、ファナは歩みが徐々に遅くなった。バルキは追いすがっていく。

 考えを切り替えられたのは、罪悪感もあったがゆえだ。結果的に、翼をつかまれることはなかった。崖からの飛び立ちと、身投げを同一視し、これならばやれるとファナは走っていた。

「待って、ファナ。待って! 止まってよ! やっつけてよ!」

「許して」

 わたしは、誰に言ったのだろう。助走をつけて飛び立つ直前、ファナはメリの抱擁をとき、崖が近いとはいえ地面が広がっているであろう横に突き飛ばした。体は火照りを通り越した温度になっていたので、捕食動物から逃げる獲物のような気持ちしかないと思い込んでいたのに、間違いだと気づいた。身の一部を切断し、遠くへ放るようだった。

 わけがわからないまま、メリは転がって天地がどちらかも危うくなる。横を、猛禽の速度でバルキが通り過ぎていった。メリが地面の方向を決められた時にはもう、羽ばたきの音すらも聞こえなくなっていた。

 撒けるのか、と自問しつつファナは踏み切った。毛ほど、このまま翼を使わず、墜死してしまえばいいとの考えがよぎるも、メリの存在が押しとどめた。両翼の根本に意識を集中し、空気を叩いた。生まれついての鳥なら最初から覚えているというが、有翼人は余程のことがなければ、何度も墜落を繰り返し、傷だらけになってやっと習得する。今更ながらに、たった一度で飛び立てた我が身を呪った。他人の痛みが、まさかメリの送迎をするようになるまでわからなかったなんて、恥ずべきだ。泣きたくなるくらいだ。あの子に咎の一端ですら負わせてしまったのが、恥ずかしくてたまらない。

 どれだけ、バルキは訓練してというのだろう? 当然、どんな相手にすら追いつけるようになるために決まっていた。

 空中で追いつき、背後からつかみかかるのは両者に危険が伴う。それでも、バルキにとっては関係がないようだった。自らが発している羽ばたきや風切りの音とはまた違い、彼特有の、彼自身にしか出しえない音で、彼だけが持てる憎しみを理由として向かってくる。焦りが、ファナの筋肉や神経をじわじわと蝕んでいった。メリのためならば、ここで罪をそそぐのもやぶさかではない。むしろ今後を考え、ここで墜死しておくべきなのではないだろうか? 思考している間に、追いつかれていた。同時に、またしても子供時代の思い出が、楽しさ極まりないそれが、死を直前として安心するためかよぎっていた。よくある遊びで、追いかける側と逃げ回る側に分かれ、触れられたら役割が交代するのだ。あるいは、追いかけ側だけが増えていき、最後には全員が。

 バルキの激突は、過去そのものの激突にも思えた。これに耐えられる者など、存在するのかとファナは不思議がった。そうやって、安心したかったのだろう。空中で衝突したファナとバルキは、一緒くたになってきりもみ状に、頭から落ちていく。これが、バルキの感じていた練習の屈辱なのか、とファナは思った。何度も何度も練習し、落ち、傷を負い、そのたびに馬鹿にされたことを思い出していき。考えたくなかったが、考えずにはいられない。早く地面が近くなり、全てを終わりにしたかった。だが闇であり、いつまで経っても終わりの時は訪れない。まだなの? まだなの? まだなの?

 そこで、ようやく地面は彼らを荒々しく抱擁した。直線的に落ちていった二人の有翼人は――

 まず斜面は二人を忌避するようにはじき、もう少し遠く、もう少し下の斜面に、殺がれた勢いでごろごろ転がっていった。お前らなど、所詮その程度だと喝破してくるかのように、通学路すら脱出できてはおらず、また、満身創痍ではあったが死にもしていなかった。

 ファナは、先のメリのようにどちらが天地かもわからなくなっていた。わけは、転がりのせいと傷のせいがあった。全身の感覚が鈍くなり、痛みが席巻しているので上も下も関係がなくなっているのだ。辛うじて、熱を帯びていてもわずかに涼しい側が、地面ではないと知れるだけだった。有翼人にとって飛べないのは恐怖ではあるが、関節が動くか、翼はどうか、と確認していくしかない。骨、は折れてはいないようだった。それでも、擦過傷と打ち身と砂ぼこりは数えきれない。

 ファナとバルキは、二人して同時に立ち上がり、動きは幽霊めいていて、こいつ、まだやるつもりなのか、という愚劣な恐怖を味わった。

「くそっ、そういうことなのかよ」バルキは言った。「おれは、ずっと遠くまで来れたと思っていた。それなのに、死ねるくらいではなかったし、学区から出てすら、なんて。畜生」

「囚われている」ファナは言った。「まるで、子供の頃のしつけだわ」

「幸せに、今まで生きてきたんだろう」

「メリは、いえ、あの子に情を覚えるなんて、ご家族に申し訳がないわ」

「おれだって、這い上がってきたんだ」

「わたしが、いてやらないといけないのに」

「お前ほどの情を、他の誰かがおれに向けてさえいれば」

「早く、行かないと。義務だわ。いえ、わたしは、わたしの過去を清算するのよ」

「おれも、逃れたい。だが、お前がやってきたことを許すわけにはいかない」

 バルキは、片足を引きずりながらファナへと近づいた。雛同士の喧嘩のようで、突き飛ばしたはいいが同じ方向に転げていた。疲れ果てているし、どちらもやめたがっているし、両手を挙げて「やーめた」を望んでいた。同様に、相手が「やーめた」を先にやり、勝負から降りてくれるのを望んでいた。そのほうが賢明であるとわかりきっていたのに、どちらもできなかった。バルキは恨み言を繰り返しながら、子供のほうがまだましという叩き方をしていった。

「認めろ。認めろ。認めるんだ」

「わたしが悪かったわ」

「それだけ? それだけか?」

「他に何が?」

 子供の声がするのだった。「もうやめてよお!」

 最低。最低の中の底辺の、そこにある底を突き抜け、落下し、墜死してしまったという実感があった。子供に仲裁を叫ばせるなんて。

 メリもまた、急いで降りてきたせいか、あちこちを打ったり擦ったりしているようだった。ファナを背中にし、正面きってバルキに向かう。

「もういいでしょ? もう、いいじゃないですか」メリは言った。「何があったか、わたしには知りようもないです。でも」

「教えてやる」バルキは言った。「いいよな? ファナ」

 どう、しろというんだ。「わたしには、否定する権利なんてない」

「ファナ?」そしてメリは振り向く。「悪いことをしたの? ファナは、悪い人だったの? ねえ、嘘でしょ?」

 まだ、世の中は善と悪にきれいに、すっぱりと分かたれるとしている年頃なのだ。情を断つべきだとはわかっていても、しがみつくような勢いで質問を受け、ファナは動揺した。

「ファナ? ねえ、ファナったら!」

「言ってやる。この女はな」

 わたしは……。ファナは、バルキの言葉をただ黙って聞いた。

「う、そ」と、メリ。「嘘でしょ? ファナ? 嘘だよね?」

 これが現実なのか。現実なんだろう。今までが、嘘であったに過ぎない。ファナは指先で翼をいじくったり、髪の毛に触れたりした。メリにとっては沈黙に映り、肯定に他ならなかった。

「しん、じらんない」メリは言った。その後の言葉は、きっと、いじめっ子に言いたかったことなのだろう。「ファナなんて嫌い! 大嫌い! 絶交だよっ!」

 これで、よかったんだ。

    ※

 徒歩で帰り着く頃には明け方だろうと踏んでいたのに、まだ明ける様子すらなかった。それでも、母屋どころか、どの窓からも灯りが漏れているところと、騒ぎようをみるに、まるで迷子の子供が無事に帰ってきたみたいだった。無事? 無事なものかとファナは思うと同時に、誰が送り届けたのだろう、とも不思議だった。きっとバルキだ。彼が、どのような行動をしたのかは予想できる。歓待を固辞し、足早に去ったのだ。その前に、過去を伝えた可能性もある。

 ファナは家畜と似通った場所にある巣に戻り、財産にもならないようなわずかばかりの物品がまだ残っているのを確認した。でも、もうこれはいらないな。メリを擁していた、しっかりとこちらの体に固定するための帯がついている革袋を横に放り、荷物を整えた。ごめんなさい、メリ様。ごめんなさい、バルキ。どうか。その後に続くべき文言をファナは考えあぐねた。復讐はしないで、と願う権利などないと知っているので、結局「お元気で」と心の中で唱えただけだった。

 まだ飛べるだろうか? できるだけ早く離れたい。合わせる顔もなければ、言い訳も思いつかない。これが、バルキの味わっていたみじめさだったのか。ファナは自暴自棄になり、翼などいつ折れてもいいと、羽ばたいた。もちろん、迷子が無事に帰った喧騒のほうが大きく、誰の耳にも入らなかった。

 飛びつづけ、ようやく正面の地平線が少しずつ、忘れ去っていた夜明けをやっと思い出したかのように白みだした。

 多少の小休止を挟み、昼頃にはファナは目的地に到着した。

 廃墟にも見えるそこは、砂岩の住宅地で巨人たちが戯れた跡のようだった。壁は崩れ、それに伴って天井も落ちたり、一部が崩落したりしている。そのような、家だったものが何軒も連なり、上空からは容器としての方形がいくつも見える。家畜を囲うのに使っていた柵も、もう誰も閉じ込めず、柵自身もまた自由になっている。一部、方形の中には少しばかり、柵とは色の違う木切れの重なりがないわけではなかった。その中心では、鳥がうずくまるようにして休んでいたり、時折、どこからか見つけてきた金品が陽光を反射し、ファナの目に懐かしさの潤みを与えたりした。男たちは、きっと狩りに行ったり、ずっと出稼ぎにいったりしているままなのだろう。誰ともつがいにもならず、こうやって出ていき、ばつが悪そうに戻ってくるほうが珍しく、おかしいのだとはわかっていた。空を飛ぶものなのに、誰一人ですら舞ってはいない。やるとしても、いかにも義務的に飛ぶだけなのかもしれなかった。メリも、死んだ目で登校するようになりかけていたのだ。でも、もう自分には関係なんてないんだ。ごめんなさい。ファナは後悔の念と、母親からの皮肉への準備をしながら、周囲を回るように降下していった。やがて、名前すらない、無人だったとはいえ人間の集落跡を占領しているといっても言い逃れができない有翼人たちは、ファナに気づき、見上げはじめる。逆光のせいで翼の色や模様は影になっているまでも、飛び方の癖や、翼を透かし見ての太陽の様子ですら、個人を判断できるのだった。

 ほとんど音もなく、ファナはいつもの止まり木に着地した。自分たちの巣は、建物がまだ半分ほど残っており、屋根に降りるのがいつの間にか、なあなあで決まりごとになっていた。下には、木の枝や細長い木の葉を集めた巣があり、くつろいだ姿勢で母親がうずくまっていた。目もつぶっており、人間ならば頭髪に相当する部分も折りたたみ、寝入っているとわかる。派手なトサカや尾羽根は有翼人男性の特徴ながらも、女性が持つ場合もままあった。ただし、健康の度合いとしての毛づやや、目の輝きを補填するような意味合いでしかない。

「ただいま」

 ファナは、この人は寝たふりも自由にできるのだと既に知っていた。知りすぎるくらいに知っていたし、そのせいで常に見張られていると意識することも毎回だった。

「なんか食べるもん、ある」

 その有翼人は片目を開けた。「それしか言うことはないの」

「んじゃ、買ってくるよ」ファナは言った。「ついでに何か買ってくるもの、ある?」

「それじゃあ」母親は物品をいくつか述べた。「それから、いい男を一人と、孫の顔を頼むわ」

「行く気、なくなった」

 ファナは屋根から、崩落した建物内にある巣へと降りた。残骸が日陰になっているので、おもむろに入っていき、巣の外で母と同じ姿勢にうずくまった。

「やっぱり。そうだと思っていたのよ」

「事情が。事情が、あるんだよ。あったんだよ」

「もう十分よ。聞き飽きたわ」

「違うんだよ。そうじゃ、ないんだよ。いや、身から出た錆かもしれないけど、飽きたわけじゃないし、嫌になったわけでもないん、だよ」小声で続けた。自業自得かもしんないけどさ。

「そう。じゃ、ヨクカエッテキタワネ。クルシカッタデショウ? モウイイノヨ」

 どちらにいるほうが、より辛かったのだろう。まだ、外傷のようであるだけ、メリの家に残ったほうが賢明だったか。

「お父さんは? 仕事?」

「あの人は、我慢強いからね。誰かと違って」

「そうなの」

「でも、奇遇よね。少し前に共同伝令が来てくれて、もう少しで休暇をもらえるから帰るそうよ」

 みなの手紙を、代表した有翼人一人に託すのだ。

「お友達に挨拶でもしてきたら?」

「わたしが決めることでしょ」

「でも、もうみんな忙しいかもね」

「皮肉なの?」

「事実でしょ」

「そりゃ、ね。もう、ママさんになってないほうが珍しいかもしんないけどさ」

「あなたは、どっちなの」

「どっち、って」

「男みたいに働いてないじゃない。中途半端だわ」

「いいわね。それって中庸ってことよね」

「言い回しだけは、上手くなって帰ってきたみたいだけど」

「言い負かしていいことなんかないけど、使える言葉が多いに越したことはないと思って。それにね、わたし」このまま言いたかった。ヨクナシの、メリって子の送迎係に選ばれ、ううん、バッテキされたんだから。ガッコウってところに行けるくらいの、お金持ちの家の子なのよ。ガッコウってのはね、キョウイクってのをね、ほら、この屋根を止まり木にしたみたいに、わたしたちはキョウイクをなあなあでやっちゃったりするでしょ? それをね、シャカイシステムの中に組み込んだものなのよ。翼無って、かなり頭は働くのよね。

 長い間に、どのような反応があるかは想像がつくようになった。お前は、頭でっかちだけにはなれたようね。じゃあ、それをわたしたちの社会にも応用したらどうだい? お前が先達にでもなって。そこから先にある、自分の反応すら予測がつくようだ。意味より音を優先した声になってしまい、近所が出張るような喧嘩になってしまうのだ。

 でも、もうわたしは学んだ。ここに帰ってきたのだって、休むためもあるけど、学ぶためでもある。過去からそうするのは翼無しにはかなわないけれど、真似すればいいだけ。わたしと母は、お互いの小競り合いから何も学んではこなかった。でも、過去にけじめだけはつけさせてもらおう。

「ちょっと、そこらを飛んでくるよ。散策ってやつ」

 母は返事もせず、居住まいを正し、翼を一度大きく開いておもむろにたたみ、巣の真ん中で目を閉じた。

 父親が一時的に帰ってきたのは夕方になってからで、かつてつがった異性と楽しそうに話していた。まるで、あっちが先客になったかのように扱われており、他人がそうなるよりイラついた。

「これを」たまにしか帰らないか、他の女の有翼人に相手にされない時だけ来る男性は言った。「好きだと思って」

「あなたったら。ちゃんと憶えててくれたのね」

「当たり前だろ」

 そこで、母親はファナに気づいた。「あら、いたの」

「そこのおじさんと、母さんが色々やって、色々終えるまで、ずっと見てたよ。んで、わたしに弟か妹でもできんの?」

「ファナ」父は言い、両腕と両翼を一気に広げた。「久しぶりだな。まるで、十年も会ってなかった気がするぞ。さ、お父さんのそばに来てくれ」

「えっと、おんなじ名前の、小さな子でもいたっけか?」ファナは言い、屋根で日陰になっているところまで歩んだ。「少し休むね。ご飯できたら、起こして」

「つれないじゃないか」

「それより」母親は言った。「少し二人で飛びましょ。じゃあファナ、適当に何か食べといてね」

「はいはい」

 ばさり、という音と共に二人の有翼人は消え去った。音が一回しかしなかったので、ほとんど同時に、しかし合わせようともせずに合っていたようだ。どういうわけか、ファナには心に去来するむらむらを言葉にできなかった。日はどんどん暮れゆき、あちこちで煮炊きの煙ができたり、わずかに漏れる赤い光が散見したりしてくる。赤い光は、大抵が建物の陰でついていたので、定規でひいたようにまっすぐだったり、角を持っていたりした。帰りを待ってなどいられないし、そろそろ腹が空いてたまらなくなってくる。木の実か、水で戻した乾燥虫を入れたスープでも作るか、それとも炒めてかりっとさせて食べようか、と、いつもの場所を探った。そこには、子供が巣立っていって一人暮らしになった女性が食べるぶんしかなく、ファナはむしょうに、ここを食材で一杯にしたくてたまらなくなった。買ってもいいのだが、この手でつかまえればより満足感を得られるだろう。よし、まずどこからあたろうか。もう、小さい子供などではないのだから、虫だろうと魚だろうと、やろうと思えばいくらでも手に入れられるだろう。ファナは庇となっている半ば崩れた屋根から出て、飛び立った。

 そこは、いつもの川と呼ばれていた。どの有翼人のどの家庭にも、いつもの川やいつもの小川と呼ばれる餌場があるのは知っていたが、意味しているのはそれぞれ違う。えいえいえいえいえいえいえいえいえいえい。ばしゃばしゃばしゃ。ファナは十二分といえる魚をつかまえ、魚籠は一杯になり、驚愕せねばならなかった。なんで、わたしは家族のぶんまでとらなきゃいけなかったんだろう。どうせ、二人で勝手に、この魚より美味しくて高級なものを、お腹一杯になるまで食べてくるに違いがないのに。皮肉がありありと浮かんだ。お前に、いい相手でもいれば、それでも足りないくらいになるのにねえ。

 魚を逃がしてやろうとしたが、できなかった。いい加減に翼の根本あたりも疲れてきたので、翼無しよろしく徒歩で帰ることにした。

「長く留守にしていたからな。すまない」

「あの子、仕事を首になったみたいよ。自分から辞めてきたのかも」

 聞き覚えのある声だった。まさか、という思いがよぎる。あの二人にとって高級な食事とは、こちらが考えもつかないような美味な何かではなく、いつも食卓に上るような、ただの食事のような食事だったということなのか?

 ファナは耳をそばだてつつ、身を低めた。

「なんなら、おれが職を用立ててやってもいいんだが。だが、あいつは、ああだからなあ」

「プライドが高くて、高慢ちきなのよ」母親はその後、誰に似たのか、という言葉は使わなかった。代わりに口にしたのは。「ごめんなさい。わたしが、あの子にきつくあたり過ぎることがあったみたい。あなたが遠くにいるから、せめてきちんとした子に、って」

「有翼人の中でも、ずっとつがったり、添い遂げたりする種はごくわずかだ。確か、あの子がいたのは」

「人間の子で、ガッコウっていうの? そこへの送り迎えをしていたみたいよ」

「小耳に挟みはした。ただ、子供たちだけなら問題も起こるんじゃないのか。少人数に大人が一人ならいいが、大規模なんだろ?」

「有翼人の子に飛行を教えるよりは、人数も多いみたいよ」

「なら、目が離れているところで」

「そんなこと、ないよ」

 ファナの言葉とはいえ急襲であり、ひとつがいの有翼人はあたりを見回すのだった。ファナは、おもむろに姿を現していく。特徴的な音と風を翼で起こし、リズムや強弱でファナであると知らせた。

「なんだ」と、父親。「盗み聞きなんて」

「少人数でもね、父さん、問題は起こることは起こるんだよ」

「あなた、そこまで聞いていたの?」と、声は、母親のものに様変わりした。

「わたしも、全然憶えてなんていなかったんだ。言われて思い出したくらい」

 つがいが使っていた松明は、それすら邪魔とばかりに、また、おぼろげに見えるほうが雰囲気があるとばかりに、彼らを照らすだけだった。

「わたしが、初めて飛行の練習に行った時のことなんだけど」

「そうね。あなたは優秀だったわ」

「その前後で、わたしが暴力を受けたことはなかった? ううん、ないならいいし、あっても責めてるわけじゃないの」ファナは言った。「言っとくけど、わたしももう大人だから。母さんは、わたしに〈つがりさん(つがいになる異性)〉を見つけるよう勧めてくれてたよね?」

 父親は不穏さを察知したようだった。「少し、時間を置こう」

「そういえば」母親は言った。「思い出したわ。いえ、わたしはやられたほうだったのに、今まで忘れていたのよ」

「おいおい」と、父親。

「でもね、ファナ。よくあることなのよ。本当に、よくあることなの」

「聞かせて」

 母親は伝えるのだった。まるで独白するようだったし、誰も口を挟まなかった。語り終えると、いかっていた肩や翼は、息づかいと共に上下するのが減っていき、顔は下を向いた。魚籠の中で、水もないぎゅうぎゅう詰めの中で死にかけている魚が、なんとかこの地獄から抜け出そうと体を痙攣させた。連鎖するように他の魚も同じ行動に走ったが、魚籠から逃げ出せるわけではまるでなかった。むしろ、命の浪費だった。

「あのさ」ファナは言った。「お父さん、あんまり魚の臓物は好きじゃなかったよね」

「ファナ?」と、父親。

「わたしと、お母さんでとるからさ。みんな、とるからさ。後で食べられるように、開いて、干してもおくよ。とられないように、隠して干すよ。だから、お父さんは木の実かなにか、探してきてくれない」

「ファナったら。もう、こんな夜なのよ?」

「わかった」父親は言った。「だが、すまない。お前たちは、どんなのが好きだったかな」

「どんなのも好きだよ」と、ファナ。

「そうよ。あなたが取ってきてくれたものなら、なんでも好き」

 ファナは気づくのだった。きっと、メリの家でも同じことが起こっていると。

    (終)

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