カフェのバイトは結構きつい

 カフェでは本当に清掃だけだった。夕方の5時から10時まで。電気ブラシからキッチンの掃除まで。電気ブラシはきつかった。靴墨を角で削る削る。これがまたしんどい。腹も減る。店長にも怒られる。店長は飴とムチの使い方がうまい。これはあるときの会話。

「お前また飲んだペットボトルそのままにして帰っただろ」

「え~自分ですか?」

「これは何だ?」

 そこには、昨日飲んで片付けるのを忘れた疲れた時に飲むレモン味のジュースであった。

「これお前のだよな?」

 認めるしかなかった。

「はい」

 店長はしばらく黙っていたが、

「3週間しっかりと忘れ物なく片付けられていたら時給を10円上げてあげる。ただし、一回でも忘れたら10円下げるから」

 さらっと言われた。

「返事は?」

「はあ」

「はいでしょ!」

「はい」

 その問答の後、何回か片付けるのを忘れてしまったこともあったが、店長は目をつむってくれ無事時給が10円上がった。時給が10円上がった時に店長のいわく、

「3週間やり遂げれば習慣になるから。いい?  習慣になるまではめちゃくちゃきついけど、一回習慣化してしまえばこっちのもんだから、覚えておきなよ」

 店長と二人夜中の10時に新作パスタをむさぼり食いつつ話を聞いていた。その他にも、店長からこんな指摘があった。

「お前って自分語り多いよな」

 これは結構きつかった。僕も自分語りが多いなあって気がついていたので、直さなきゃなあって思っていた。

「はあ」

「誰も人の自分語りを押しつけられたくはないんだよ」

「はい」

「じゃあどうすればいいか分かるか?」

「どうすればいいですか?」

「人の話を聞く。素直に聞くこと」

 店長は熱く語り出す。

「価値観の違いが分かって、こういう風な考えがあるんだと世界が広がるんだよ」

「世界が広がる?」

「そういっぱい人の話を聞きなさい。価値観を勉強するといいよ。もちろん本を読むことも大切だけどね。とりあえず3週間やってみ」

 また3週間という単語が出て来た。この癖についてはいまだに直っていない。城山三郎先生の小説のなかに、やっぱり人の話をしっかりと聞きなさいとあって、はっとしたのを思いだす。


 とまあ、濃密なカフェ生活を送っていたある日、突然珍客がやって来た。カランと鈴の音が鳴って、一人の少女が中に入って来た。店長がいらっしゃいという。もうこのころは自分は皿洗いもするようになっていたし、接客もするようになっていた。僕も、

「いらっしゃいませ」

 という。

「こんちは! マスター!」

 この声は、もしかして東雲野花? 思わず顔を上げる。やっぱり東雲野花だった。東雲は、

「マスター! カフェラテください。ミルク多めで」

 マスターはありがとうと言うと、グラスに氷を入れて、牛乳をいれ、その後に特製のコーヒーを入れる。カランと少し氷が溶ける。牛乳の白い色と、コーヒーの黒がうまいぐあいに分かれていてすごくきれいである。いつも思うのは、店長のコーヒーを入れる素振りが流れるように手足が動いていてまるで生きている芸術のようである。こんなとき、ここで働けてうれしいなあって思う。怒られるのは嫌だけど。東雲はマスターと会話する。

「野花ちゃん、今日、学校は?」

「しばらく休み~」

 そこで、話は途切れて、店長はBGMを流し始める。クラッシックである。いつもはクラッシックとかは聞かないんだけど、最近家でも聞くようになった。寝る前に聞くと、安眠できるんだよな。東雲がこっちに向いて茶化してくる。

「そのエプロン似合ってんじゃん」

「そう」

「で、なんでまた、根暗で人見知りで会話もまともに出来ないあんたが、カフェで働いているのよ?」

「そっちの知ったことじゃないだろ」

 そのとき、店長が助け船を出してくれた。

「本人が言うには、その根暗で人見知りで会話もまともに出来なくて、社会常識に欠けている僕を鍛え直してくださいってさ」

 東雲がへえって言う。店長が笑いながら、

「そりゃもう、ここに入って来た時は泣きそうで思い詰めてそうな顔してたからね。そうでしょ。一波くん」

「まあ。そうです。変わりたかったので」

 ここで、東雲が相槌を打つ。

「へえ、意外にやるじゃん。で、一波は使える?」

 店長が優しい目をしながら、

「真面目だしいい子だよ。世間知らずだけど」

「そっかあ、良かったね、一波、真面目でいい子で」

 ほめられたことがあまりないので、少し疲れてしまった。うれしかったが。しばらく東雲と話していたが、東雲がそろそろと言うと、マスターがちょい待ちって言って、

「一波くん、今日はバイトもう上がっていいよ」

「いいんすか」

「いいよ。はやく着替えておいで。その代わり野花ちゃんしっかりと送ってあげてよ」


 10分後。東雲と僕はカフェを後にした。二人して道を歩くが、しかし何も話せない。何も思い浮かばない。無言のまま帰途につく。家のドアまで着くと、東雲はドアのところに立ち止まって、それから振り返って……

「またカフェに遊びに行ってもいい?」

「うん」

 僕はそのまぶしい笑顔を直視出来ずに顔を横にそらしながら答える。

「そっか、ありがとね。じゃ、またね」

 とびっきりの笑顔を見せて東雲は家の中に消えて行った。頭の中で

「そっか、ありがとね。じゃ、またね」という声がはんすうする。心臓がどきどきする。考えがまとまらなくなる。苦しい。何か分からない湧き上がって来る気持の中、自宅へと帰って行った。


 その後、何度も東雲はカフェに遊びに来るようになった。

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