重なった時間を、もう一度記憶の底に沈めて

出勤時間になった。

いろいろと慌てていた。

時間に追われていた。

そんなとき……、車のキーを、ほぼ無意識の状態で、トイレのすぐ隣に置いてある本棚の上に置いた。

歯みがき、髭剃り、ゴミ出しの準備、トイレ……。

毎日のルーティンを終えて……。

さぁ出かけようとすると、車のキーが見当たらない。

狂ったように探すけど、出てこない。

時間が迫っている。

もう仕方ない、歩いて行くか……と、外に出ようとしたとき、偶然、車のキーが視界に入った。

あった!と思った瞬間、私は時間の扉を開けてしまった。


何十年前だろうか……。

あのとき……。

確か、電話越しに、こんな会話をした……。

「車のキーが見つからなくて……。そこに忘れてない?」

「ちょっと探してみる……。あ、あった!」

「えーっ!どこにあったの?」

「トイレの隣の本棚の上」

「アハハハハハハ、ごめん、今度行ったとき、ちょうだい」


私は恋をしていた。

夢中だった。

6歳年上の人妻に……。

間もなく捨てられるだろうな……って無力感とともに……。

あれが人生最後の……。

1回きりの人生の中で、唯一、存在した命綱だった。

そこに、ちょっとだけ、しがみついていた。

この30年間、仕事と拘禁施設以外で誰かと過ごしたり会話したりした時間の合計、全部足しても24時間いかない。

そのわずかな時間の半分近くを占めるのが、その人との時間……。

私は、あんな短い時間を、輝いていた時間として認めたくない。

忘れなけゃ……。

忘れるんだ。

もう一度、記憶の底に……。

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