人間50年(『人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり……』を私の人生観で解説する)

『人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり……』


昔の唄は、いろんな人がいろんな解釈をしている。

私もこの唄は、多くの人がそう思っているように、人間世界の50年間を、仏教でいうところの下天における時間感覚と比較したのであって、人間の寿命が50年と言っているのではないと思う。

下天とは、天上界における六欲天の中で最下位に属している。

下天の住民の寿命は500歳とされ、1日が人間界の50年にあたるとのこと。

織田信長が好きだった敦盛の『人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり……』は、悠久の流れの中で生きる下天の人々と比べると、人間の50年なんて、夢幻であるかのように儚いものだ……、そう言っているに違いない。

ただ私は、その設定に加える形で、人間の寿命を50年と設定しても問題ないと思う。

これは私の人生経験でしかないが……、無限に自分の可能性を探せる時間は最初の20年~30年、自分の能力に応じた形で可能性を探せる時間が、そこからさらに20年、合計すると、だいたい50年だと思う。

その時間を過ぎると、それまでの貯金をもとに、ただ惰性で転がるだけ。

あとは、止まったところで死んで終わり。

また、その貯金というものは、人生経験の積み重ねではなく、持って生まれた外見・性格・身体的能力・知能指数(IQ)と、育った環境で得られる他者啓発の結果という部分だけで、ほぼ全てを占めてしまう。

言い換えれば、生まれる前に人生は決まってしまうということ。

私はその現実に儚さを感じることがある。

もし、私が人生の勝ち組になれるであろう才能を持って生まれていたら、儚さなんて頭の片隅にも無かっただろう。

人間50年……、人間界と、仏教で言うところの天上界を比較しても、ただ単に現実とファンタジーを比較しているにすぎず、私の心には響かない。

そんな架空の話を語らなくとも、この話は現実に存在している。

寿命が数週間から1年しかない昆虫や小動物の世界から、人間界を見るのと同じだからだ。

彼らは、人間界と比べたら自分たちの世界なんて夢幻であるかのように儚いものだと思うだろうか……。

人間界の負け組である私は、逆に、昆虫や小動物の世界に対して、憧れの想いを抱いてしまう。

食料をめぐって殺し合い、異性をめぐって殺し合い、住居をめぐって殺し合い……。

こういうルールなら、私は負け組にならなかった可能性がある。

たとえ負けたとしても、それは『死』なので、あっさりしている。

人間界で負け組になるというのは、残酷以外の何ものでもない。

家族なし、友人なし、恋人なし、結婚なし、子供なしで終わった1回きりの人生……。

無念と絶望を胸に、惰性の世界へ……。

彼らに比べたら、悠久の時を生きているはずの私の人生の方が、夢幻であるかのように儚い。

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