残されたものは枯れ果てる

瓦屋根の古い家があった。

森に囲まれた小さな集落の、さらに山へと続く坂道の1番上にこの家はあった。

この家には、高齢のおじいさんが1人で暮らしていた。

この人とは5年ほどの付き合いでしかなかったが……。


営業の仕事で、その先に位置する会社(山の頂上にある宿泊施設)に用があって、その坂道をよく利用していた。

車を止められる場所が、そこよりもかなり下の方だったので、その道は歩いて利用していた。

いつも、おじいさんが花や盆栽の手入れのために、道路に隣接する庭で作業をしていた。

どの時間帯にその前を通っても、おじいさんは作業をしていた。

最初の頃は、挨拶をすると元気な声が返ってきて、会話に捕まるとなかなか抜け出せないほど、人との触れ合いに飢えている様子だった。

私は、身の上話はしなかったけど、おじいさんは積極的にしてきたので、この人が70歳前後の天涯孤独であるというのはわかった。

2年が経過したあたりで、在宅用の人工呼吸器みたいな(実際には何だったのか、わからない)でっかい機械を横に置きながら、身体に管を付けた状態で作業をするようになった。

それから1年くらいで姿が見えなくなり……。


あるとき……。

ちょっと離れた場所の道路の脇に、そのおじいさんの葬儀告別式を告げる看板と、その家の位置を示す矢印看板が立っていた。

病院で亡くなった可能性が高いのと、生前、何らかの段取りをしていた可能性が高い。

そうでなければ、こんな看板が街中に立つことはないだろう。

私と同じ天涯孤独ではなく、何らかの形で深い繋がりのある人物がいたのだろう。


天涯孤独の入院死は、想像を絶する世界だ。

私は自死行為のあとに、長い間、入院していたからわかる。

治療や、入院費用を踏み倒す面倒くささよりも、孤独に耐えられない。

しかも、人間が耐えられるレベルの孤独ではない。

そこにいる奴らは、患者だろうが医療関係者だろうが、みんな誰かと繋がって生きている。

それを目の前で見るのは、とても耐えられない。

ただ、(当時)30代の私の自死行為と、70代のおじいさんの寿命による衰弱とでは、きっと違うのだろう。

どんな気持ちで、最後の数日間を過ごしていたのか……、少し気になるけど……。

話を聞く限りでは誰もいないはずだが、ひょっとしたら看取った誰かがいたかもしれない。


さらに、時が流れた。

私は、そのあとも、定期的にあの家の前を通った。

すると、どうだろう。

あの家は、徐々に雑草が生い茂り、おじいさんがあれほど大切にしていた花や盆栽も枯れ果てていった。

わずか数か月で人が生きていた痕跡すら残らないほどになった。

人生は儚いな……。

私は人間関係ゼロの天涯孤独で、家も土地も無い。

私の最期は、誰に気づかれることなく、粛々と過ぎるだろう。

生きた痕跡なんて、そもそも誰とも繋がっていないから、最初から何も無いけど……。

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