203 長州脱出
三月もとうとう中旬を過ぎた。
この日はお昼にやって来たバカ杉晋作が、行きつけだというお店へ私たちを連れ出しご飯をご馳走してくれた。
ちなみにふぐは出ていない。あったとしても、さすがにもう食べる勇気もないけれど。
山崎さんとバカ杉晋作は、これまで何度も会ってきたせいか、言葉を慎重に選びつつも随分打ち解けているように見えた。
逆に、今日もここにはいない木戸さんとはほとんど会うこともないせいか、言葉を交わしたとしても必要最低限か、最初に会った時のようなお互い牽制し合う会話にしかならなかったりする。
お腹も満たされ店を出ると、太陽は随分西に傾いていた。
夕日を見に行くぞ、と言い出すバカ杉晋作が、返事も待たずに歩き出すから、呆れながらも山崎さんと一緒にそのあとを追う。
言い出したらきかないことくらい、もう嫌というほどわかっているからね。
空に綺麗な夕焼けが広がり始めた頃。
着いた先は海岸で、海面には橙色に輝く光の道が出来ていた。
思わず感嘆の声を漏らす私に向かって、バカ杉晋作が得意げに言う。
「どうだ、綺麗だろ?」
「はい、凄く……」
東京で暮らしていた私には、何物にも遮られることなく水平線に沈む夕日なんて、そう簡単には見られない。
「ウチにくれば毎日拝めるぞ」
「それでも、私も山崎さんも、新選組を離れることはないですよ」
はっきりと伝えてから波打ち際へ向かえば、山崎さんもあとをついてきた。
濡れますよ、という忠告を笑顔でかわし、寄せては返す波をギリギリのところで避ける。
足元にまとわりつく裾が邪魔でほんの少し捲くりあげれば、後ろから山崎さんの慌てる声がした。
過保護な山崎さんらしく、はしたないとかそういうことを言いたいのだと思うけれど……泳ぐわけではないのでこれくらいは目を瞑ってもらおう。
言っても無駄だと悟ったのか、山崎さんは手拭いを手に立ち尽くしている。濡れるだなんて、そんなヘマはしないけれどね。
それからすぐ、バカ杉晋作もやってきて真似し始めた。面白い女だ何だと言って笑っているけれど、着流しの裾を豪快にからげてはしゃぐ武士も、正直どうかと思うからね?
夢中になって遊び、夕日の底が水平線に触れ始めた頃、今までで一番大きな波が押し寄せた。
同じように避けたはずのバカ杉晋作が、コホンと咳を一つこぼす。
今日は少し暑いくらいの陽気だったけれど、汗ばむ身体でずっと海風に当たっていればそれなりに冷える。
この間の風邪から咳だけはまだ抜けきっていないようだし、本格的にぶり返す前に帰ろうと提案した。
「これくらいどうってことねえ。だからもう少し付き合え」
「無理はしない方がいいですよ」
「こっから先、無理もしなきゃなんねえ事ばっかりなんだ。これくらいで音を上げてたまるかよ」
にやりと大袈裟に言い放つそれは、長州征討のことを言っているのだろうか。
直後、今度は激しく咳き込んだ。
思わず揺れる背中に手を伸ばすのと、もしかしてだが……と後ろで佇む山崎さんが声をかけるのは同時だった。
けれど、私の手は到達する前に腕で払いのけられ、咳の合間を縫って吐き出された冷たい言葉が、山崎さんの声も遮った。
「もう帰れ」
「帰れって……。夕日が見たいと言ったのはバカ杉さんじゃないですか! だいたい帰ったほうが良いのはバカ杉さんの方です! 何とかは風邪引かないっていうのに長引いてるじゃないですか!」
思わず声を荒らげてしまったけれど、ようやく落ち着いたらしいバカ杉晋作が、海を見たまま吹き出した。
「そうじゃねえ。そろそろ帰らなきゃマズイんだろ?」
「そりゃ、あんまり暗くならないうち、に……あっ」
違う。
私に視線を寄越す、“おもしれえ”と言いたげな顔を見て気がついた。帰れとは、長州から帰れということなのだと。
三月中には帰りたいと言ったこと、ちゃんと覚えていてくれたことに驚けば、バカ杉晋作が得意げににやりとする。
「じゃじゃ馬の面倒みる余裕はなくなったからな。アンタらに構ってやれるのも今日が最後だ」
強引に呼び寄せておきながら、今度は突然帰れとか。
それどころか、今まで無理して構ってやっていたんだ、とでも言いたげなやたら恩着せがましい発言にも腹が立つけれど、そういうところがバカ杉晋作らしいのかもしれない。
「京には海がねえだろ? だからもう少し見てけ」
「そう、ですね……。そうします」
山崎さんも隣に並べば、三人黙ったままで夕日の沈む水平線を眺める。そっと、西日に照らされるバカ杉晋作の横顔を盗み見た。
私を呼び寄せるための手段は許せないけれど、長州の窮地に“未来から来た私”を利用しようとしないことは、これでも一応感謝している。
だから……“ありがとう”は心の中だけにとどめ、代わりの言葉を口にする。
「死なないでください……」
「俺が死んだら、アンタは悲しんでくれんのか?」
口元を緩めた横顔が、そんなバカなことを訊いてくるけれど……一つ良いことを教えてあげよう。
「……バカは死んだって治りませんよ」
だから、雑草のごとくしぶとく、精一杯生きるしかない。
それもそうだな、とバカ杉晋作が声を出して笑えば、海に落ちる夕日を見届けてから帰路へついた。
他愛もない話をしながら歩き仮住まいが見えて来た頃、このまま家にも上がっていくのだと思っていたら、後ろを歩くバカ杉晋作が私たちを呼び止めた。
振り返れば、岐路で立ち止まるその姿に、ここでさよならなのだと気づかされる。
「じゃあな」
「ああ」
「はい……」
バカ杉晋作のいつもと変わらない挨拶に、私たちまで今までと大して変わらない言葉が口をついた。
慌てて別れの言葉を探すけれど、そんなことはお構い無しに横道へ向かって歩きだし、その姿はすぐに見えなくなった。
まるで、またいつでも会えるかのように。
「気が向いたらいつでもウチへ来い。そん時は、歓迎の宴で盛大にもてなしてやる」
そんな言葉だけが聞こえてくれば、山崎さんと顔を見合わせ苦笑をこぼすのだった。
立つ鳥跡を濁さずのことわざ通り、数日をかけて二ヶ月近くも住まわせてもらった家や借りた物を綺麗にすると、山崎さんは鍼師としての仕事も畳んだ。
ここを出る準備が整ったのは下旬。
出立の日の朝、木戸さんが見送りに来てくれた。
「本意じゃなかっただろうけど、長州はどうだった?」
「良いところでした」
「なら、春だけこのまま残ってもいいんだよ?」
「それは……ごめんなさい」
「相変わらずつれないね」
そう言って大袈裟に肩を竦めてみせるけれど、直後、私を見下ろす顔がいつになく真剣なものになった。
同時に、私の緊張を和らげるかのごとく、山崎さんの手が私の背中に優しく添えられた。
「もうわかってると思うけど、幕府が仕掛けてくるなら僕らは最後まで戦う」
「はい」
「次に会うのは戦場かもしれない」
「……はい」
京も江戸も長州も、武士も町民も……そこにいるのはみんな同じ人間、同じ日本人なのだから、みんな仲良く出来ればいいのに。
それぞれの譲れない立場や想いが複雑に絡まって、どうしてこんなにもぶつかり合ってしまうのだろう。
「僕のところへ来る?」
俯いていたみたいで、頭上から聞こえた柔らかな声に顔を上げれば、さっきまでとは打って変わっていつもの微笑みと目が合った。
「えっと……ごめんなさい。私の居場所は新選組だけです」
「本当につれないね」
それはお互い様だと苦笑を浮かべながら別れの挨拶も済ませると、木戸さんがほんの少し視線を鋭くした。
「山崎、春に何かあったらただじゃ済まないから」
「言われるまでもない」
「春、道中気をつけてね」
「はい。木戸さんもお元気で」
山崎さんに促され反転した直後、一度だけ振り返れば、またね、といつもの笑顔で見送られるのだった。
それから数日をかけて、同じように潜伏中の吉村さんの元へ向かった。
山崎さんには私の長州入りの理由を全て話したけれど、吉村さんは私の秘密を知らない。だから、近藤さんや伊東さんの認識と同じになるよう、“直接撤退命令を伝えに来た”と説明した。
数日の間に出立の準備を整えると、いよいよ長州脱出となった。
そして、道中で四月を迎えるも、無事広島へと戻り近藤さんや尾形さんとも合流出来た。
近藤さんは私の姿を見るなり抱きつきそうな勢いで腕を広げるも、思い直したように両肩をがっちりと掴み、大きな笑窪で嬉しそうに前後に揺らした。
「春! なかなか戻って来ないから心配したんだぞ! 無事戻って、本当に良かった!」
「は、はい。遅くなってしまってすみません」
「いや、二人も無事に連れ帰ってくれたんだ」
本当によくやった、とさらに大きな笑窪を作るのだった。
ふと、伊東さんと篠原さんの姿がないことに気がついた。
訊けば、二人とは今回ほとんど別行動をしていたらしく、すでに京へ戻っているという。
私たちの出立も数日後に決まれば、山崎さんと吉村さんの二人が、まだここに残りたいなどと言い出した。
さすがに長州へは入らないけれど、このまま情報収集を続けたいのだと。
ある意味汚名返上とも思える申し出を近藤さんが了承したことで、二人はこのままここへ残ることが決まったのだった。
いよいよ出立の日の朝。
ここへ残ると決めた山崎さんが、私一人を外へ連れ出した。
そして、客舎から少し歩いたところで、急に立ち止まり私を見下ろした。
「二度と同じ失態を演じるつもりはありません。ですが、それでもまた同じような事が起きたとしたら、次は見捨ててください。絶対に、今回のように危険な場所へ一人で来たりしないでください」
「それは……」
状況によりけりだと思うので、何とも言えない……。
今回と同じような事になったとしたら、やっぱり放っておくなんて出来ないから。
「春さん」
「は、はい」
「もう二度と無茶や無謀な事はしないでください」
やっぱり過保護語録には、新たな単語が追加されているらしい。
それよりも、ついこの前聞いたばかりの台詞に思わず吹き出してしまえば、山崎さんもどこか困ったように笑うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます