197 寺田屋遭難と偽りの汚名返上
二十四日、午後。
桂小五郎に会ってから二日が過ぎたけれど、まだ出立は出来ず、土方さんの隣で絵草紙をめくっていたら島田さんがやって来た。
「昨夜、伏見の寺田屋に薩摩藩士を騙る不逞浪士がいると伏見奉行所の捕方が向かったそうですが、手傷を負わせるも残念ながら逃げられたらしく……」
「相手の人数は? 捕方連中もそれなりの人数で向かったんだろう?」
「逃げたのは二名。三十名ほどで向かったそうです」
「それでその様か」
情けねぇなぁ、と鼻で笑う土方さんに、島田さんがどこか言いづらそうに言葉を続けた。
「それが……取り逃がしたのは伏見奉行所ではなく、新選組との風聞が――」
「はぁ!?」
土方さんが突然大声を出すもんだから、島田さんと一緒になって驚いた。
「あれか……
「おそらくは……」
「ふざけんなっ!」
……って、またしても怒鳴るから、身体の大きな島田さんまで小さくなってしまった。
松平肥後守とは会津公のこと。
ところで、今さら気づいたことが一つ……。
「会津公って、福島……じゃなくて、会津藩のお殿様なんですよね? なのにどうして
肥後といえば熊本だ。東北と九州だなんて、地図で見ても随分と離れているのに。
首を傾げて考えていれば、土方さんが信じられない物でも見るような目で私を見た。
「お前まさか、
「……ないんですか?」
しんと静まり返った部屋の中、土方さんがわざとらしく大きなため息をつけば、島田さんにはすっと目を逸らされた。
どうやらよく聞く○○守とは官職のことで、必ずしもそこを治める地名と一致するわけではないらしい。
つまり、今回寺田屋へ向かった捕方は伏見奉行林肥後守の手の者で、京都守護職松平肥後守とは一切関係がない。
けれど、肥後守と聞いて真っ先に浮かぶのは松平肥後守の方なので、肥後守違いで配下の新選組が関与したと思われている、ということらしい。
たった二人に対して捕方は三十人。相手に手傷を負わせるも、持っていた短銃を発泡され二名もの死者を出したあげく取り逃がした。
それを新選組がやらかしたと思われているのだから……まぁ、土方さんが怒りたくなるのもわからなくはないけれど。
土方さんの一通りの説明が終わると、島田さんが再び話し始めた。
「その取り逃がした者ですが、うち一名は土佐の脱藩浪士
「さ、坂本龍馬!?」
今度は私が大声を上げたせいで、二人がびくっと肩を跳ねさせた。
それでも土方さんは、平静を装い訊いてくる。
「な、何だ。坂本を知っているのか?」
「知っているも何も、その名前を知らない日本人はいないと思いますが!」
「奴が薩長の周旋をしているんじゃないかという噂は聞いたことあるが、そんな大袈裟に驚くほど有名な奴でもないだろう」
そ、そうなのか?
“幕末の有名人と言えば?”と訊けば、真っ先に坂本龍馬の名前が出てもおかしくないほど有名だと思うけれど。
「まぁ、何にせよ捕方を撃ったとありゃ、正真正銘お尋ね者になったってわけだな。そのうち手配書も回ってくるだろう」
そういえば、坂本龍馬も暗殺か何かで命を落としてしまうのではなかったっけ。
突然飛び出したその名前は、まさに幕末……いよいよ江戸幕府の終わりも近いのかと思わされるのだった。
丁度この日、長州処分通達の一行に先駆け、近藤さんの二度目となる広島行きが会津公より下命された。
伊東さんと
夕刻、私の同行を願い出るため土方さんと一緒に局長の部屋を訊ねた。
この時間、近藤さんは伊東さんと二人で打ち合わせをしているらしく、参謀である伊東さんにも知らせておくべきだろう、とあえてその時刻を狙ったらしい。
とはいえ、この状況においても近藤さんに私の秘密までは明かさない方がいいとして、話は土方さんが上手く進めてくれることになっている。
いまだ隠し続けていることは心苦しいけれど、優しい近藤さんだからこそ、私が女だとわかれば危険な長州行きにはきっと反対する。現状それは一番困るので、ここは大人しく土方さんに任せることにした。
土方さんの報告は実際とは少し違っていて、長州側に与するという男が
これ以上の潜伏は危険と判断し要求通り引き上げさせたいけれど、文で通達しようにも今現在の正確な潜伏場所がわからず、連絡を待って折り返すには時間がかかってしまう。
それに、文を出すことで長州側に居場所を特定される可能性も捨てきれないので、直接会って引き上げ命令を伝えたい、というものだった。
一通りの報告を終えたところで、伊東さんが僅かに首を傾げながら土方さんを見た。
「その男の話を鵜呑みにしてよいものでしょうか。悪戯や罠の可能性は?」
「当然だがその可能性もある。だが罠だったとして、隊士を一人二人おびき出して殺害したところで大した意味はねぇだろう。来たる開戦に備え交渉の手駒にしようにも、幕府が新選組の隊士数名に屈するとは思っちゃいねぇだろうしな」
「……そうですね」
伊東さんが綺麗な所作で顎に手をやり考え込むと、近藤さんは低く唸りながら腕を組む。
しばらくして沈黙を破ったのは、よし、と解いた腕で膝を叩く近藤さんだった。
「山崎君たちの安全を最優先としよう。大勢で動くのもまた危険なので、監察を一人つれて行く」
それがいいですね、と相づちを打つ伊東さんの言葉を土方さんが遮った。
「それなんだが……。近藤さん、こいつを連れてってやってくれねぇか?」
「春を?」
「ああ。接触してきた男をやすやすと逃しちまっただろう? その汚名を返上したいと俺に訴えてきた」
「いや、しかしだな……」
近藤さんが渋るのは当然だ。前回、伊東さんが私の同行を勧めた時でさえ、経験が浅いからと許可はしなかったのだから。
けれど、今回ばかりは許可してもらわなければ困る。
だから、勢いよく頭を下げ訴えた。
「近藤さん、どうかお願いします! 経験不足の私では不安だと思います。取り逃がしたのだって私の失態です。それでも……私に責任を取る機会をください!」
「待て待て。春の仕事ぶりに不満などないぞ。だがな……その、そうだ、歳? 歳は本当に春をやってもいいのか?」
「本人が望むなら仕方ねぇだろう」
「近藤局長、今回は琴月君の意思のようですし、連れて行ってもよろしいのでは? 熱心な姿勢に応えるのもまた、我々上に立つ者の責務かと」
今回ばかりは伊東さんの援護射撃がありがたい。
近藤さんは再び腕を組み、珍しく難しい顔で考え込んでしまったけれど、三対一の状況が変わることはなく、大きなため息一つと引き換えに渋々了承してくれた。
ただし、どこから情報が漏れるかわからないことや、余計な心配をかける必要もないとのことで、“すでに潜入している山崎さんたちの応援に向かう”という名目での同行となった。
局長、副長はまだ話をするというので伊東さんと一足先に部屋を出た。
それぞれの自室へと向かうべく伊東さんの後ろを歩いていれば、少し進んだところで伊東さんが立ち止まりゆっくりと振り返る。
「前回、あれだけ反対していた土方副長自らが琴月君の同行を願い出るだなんて、どういった風の吹き回しでしょうか」
「それは……私がしつこくお願いをしたから、だと思います……」
決して嘘ではないけれど、伊東さんは信じてくれなかったらしい。まるで内緒話でもするように腰を曲げ頭と頭を近づければ、いつの間にか取り出した扇子で口元を隠しながら悪戯っぽく囁いた。
「土方副長の弱みでも握りましたか?」
「なっ……そ、そんなんじゃないですっ!」
僅かに距離を取って訴えれば、冗談ですよ、と伊東さんは口元を扇子で隠しながら、くすくすとおかしそうに笑う。
「ようやく琴月君の才能を認めたということなのでしょう」
「と、とにかく、私の同行に賛同してくださって、ありがとうございました」
「礼には及びません。当然の事をしたまでですから」
そう言って今度は爽やかに微笑むと、期待していますよ、と私の肩をぽんと叩き自分の部屋へと戻って行くのだった。
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