177 嘆願と飲酒

 五月の下旬。

 新暦に直せばおそらく六月で……そう、梅雨真っ只中。

 雨が続くとじめじめして鬱陶しいけれど、そんなことはものともしない人がいた。ついこの間、祝言を挙げたばかりの原田さんだ。

 おまさちゃんと二人で屯所の近くに家を借りたらしく、毎朝そこから通って来る姿はまるで新婚夫婦のような浮かれよう……いや、実際新婚夫婦なのだけれど。


 溢れる幸せを撒き散らしながらやって来る原田さんを、永倉さんと藤堂さんがからかったり突っ込んだりするまでが日課となりつつあった。

 そんな穏やかな光景を笑顔で見守るも、“ずっと続きますように”ではなく、“ずっと続けばいいのに”と願っていることに気がついた。


 知らないことが多過ぎて、これまで何度も悔しい思いをしてきたし、これからだってしていくのかもしれない。

 けれど、こんな光景を目の前にして不可能だと決めつけて諦めるのはやっぱり悔しいから。

 たとえどんなに悲しくても、最後には必ず前を向くために……納得がいくまでやれることはやっておきたいから。




 夕刻、今日の隊務を終え部屋へ戻ると、書状に目を通す土方さんの側に腰を下ろした。


「土方さん、お話があります」


 書状を掲げたまま横目で見た土方さんは、居住まいを正した私の様子に一瞬眉をひそめるも、再び手元へ視線を戻す。


「どうした? 夕餉の献立でも気になるのか?」

「違います。ご飯の話じゃありません」

「あぁ。朝餉か」

「だから違いますっ!」


 もしかしてわざと?

 真剣に土方さんの名前を呼べば、諦めたようにため息を一つつかれ、書状を畳み終えると同時に、出るぞ、と言う。

 どうやらご飯を食べに連れて行ってくれるらしい。


 まさか、本気でご飯の話だとでも思われている?

 何にせよ、ご飯を食べながらでも話はできるし、ここは土方さんの誘いに乗ることにした。




 着いた先はちょっとした料亭で、通された二階の座敷で待っていれば、しばらくして二人分のお膳が運ばれてきた。

 屯所よりも豪勢な食事に思わず反応しかけるお腹をぐっと押さえ、向かい側ですでに食べ始めている土方さんを見る。私の視線に気がついたのか、まずは食え、と先手を打たれた。

 言われた通り箸を進めるも、このままではまた切り出し損ねる気がして、一足先に食べ終えお茶を手に取る土方さんに合わせて私も箸を置いた。


「お願いがあります」

「それは、京へ戻ったらやりてぇと言ってたことか?」

「はい。試したいんです。本当に無理なのかどうか……」


 手にしたお茶をわざとらしくズズズっと音を立てて飲んだ土方さんは、直後、眉間に深い皺を刻んで私を見た。

 思わず息を呑んだのは、その視線に気圧されたからか、これから話すために、あの時の感覚を思い出したからなのか……。

 せり上がる恐怖を必死に抑えつける私の前で、土方さんは静かに湯呑を置き腕を組んだ。


「言ったはずだ。先の事は口にするなと」


 どうやら全てお見通しらしい。

 けれど……バレているのなら話は早い。


「納得が行くまで、諦めがつくまで試す時間をください」

「却下だ」

「お願いしますっ!」


 お膳を脇に寄せ、その場で土下座をした。

 断られるのは想定済みだ。ここで引けば二度と許可はもらえない気がするので、粘り強く押し問答を続けた。

 けれど、お互いに譲る気がなければ平行線を辿るばかりで、その声音から土方さんは徐々にイライラを募らせているのがわかるけれど、それは私だって同じだった。


 土方さんの頑固、石頭、わからずや。

 ……もういい!

 これ以上は無駄だと悟り、それまで下げていた頭を上げて真っ直ぐに土方さんを見た。


「……わかりました。だったら、許可を得るのは諦めて勝手に試します」


 次の瞬間、チッと舌打ちをして立ち上がった土方さんは、側へやって来るなり鋭い視線で見下ろすと、遠慮もなしに私の顎を片手で強く掴んだ。


「忘れたか? 俺の前で口にしやがったら、その口無理やり塞ぐって言ったよな?」

「それは、これから起こる出来事を話したら、じゃなかったですか? 私が伝えたいのは少し違います。それに、その言い方だと土方さんの前でなければいいってことですよね?」

「餓鬼がいっちょ前に屁理屈抜かしてんじゃねぇ」

「何とでも言ってください。もう、決めましたから。失礼します」


 手を払い立ち上がった。帰り支度をしようと土方さんの横を抜けるも、突然後ろから腕を掴まれた。

 振り解こうにも握る力は徐々に増すばかりで、耐えることなく痛みを訴えれば、開放することなく土方さんが口を開く。


「試せば納得するのか?」

「え? ……はい。……そのつもりです。もしかして許可してくれるんでーー」

「条件がある」

「条件?」


 土方さんが、座れ、と顎をしゃくった。

 開放された手をさすりながら言われた通りにすれば、土方さんも元の場所へと戻り再び腕を組む。


 土方さんの出した条件は、いくつかあった。

 口にしていいのは土方さんの結末のみで、話していいのも土方さんにのみ。

 当然、土方さんのいないところで勝手にするのは絶対にダメで、試すのは今回限りであること。


「許可を出す以上は協力してやる。この際、納得が行くまでやりゃあいい。ただし、俺が危険だと判断した時点で終わりだ。それが飲めねぇならこの話は無しだ」

「いえ。十分です。ありがとうございます」


 土方さんはふんと不満げに鼻を鳴らして顔を背けるも、まだ帰る気はないのかお酒を注文し始めた。


「今から飲むんですか?」

「うるせぇ、飲みてぇ気分なんだよ。てめぇも付き合え」


 ついでだから飲み方を教えてやる、とぶっきらぼうに言って睨んでくるけれど、運ばれてきたお酒を土方さんに注げば、すぐさま一気に飲み干し私にも注いでくれた。


「慣れるまではとにかくゆっくり飲め」


 眠くなったら一度酔いを覚ませ、とも言われ、言われた通り少しだけ飲んで一度お膳へ置き、残したままの料理を片づけながら飲むことにした。


 私にはゆっくり飲めと言った土方さんは、すでに食事は終えているせいかひたすら飲んでいる。というより、いつもよりペースが早いような気がする。

 普段は上手に自制しているのか泥酔した土方さんなんて見たことがないけれど、さすがにこのままではマズイ気がしてきた。

 せっかくだからもう少し飲みたかったけれど、大の大人を背負って帰ることになったら洒落にならないので、渋る土方さんの背中を押し無理やり帰路についた。


 私は大した量を飲んでいないので眠くもないけれど、問題は土方さんの方だった。店を出るなり歩き出すも、その足取りは正直覚束ない。


「珍しく酔ってますね……」

「あ? 酔ってねぇよ」

「酔ってる人ほどそう言うんです。そうだ、駕籠を呼んできますね」


 途中で寝られでもしたら洒落にならない。

 踵を返そうとするも後ろから腕を引っ張られ、次の瞬間、片側だけがズシリと重くなる。土方さんが、私の肩を借りているという状況だった。


「これで帰る」

「えぇ……重いんですけど……」

「鍛錬だ、鍛錬。文句言わずに歩け」


 なっ……酔っ払いめ! 人のことを散々注意していたのはどこの誰だったのか!?

 まぁ、それだけ喋れるなら途中で寝ることもないだろうと、仕方がないのでこのまま帰ることにした。




 まだ月が顔を見せない夜道は暗く、薄い雲が広がっているせいで星明かりだけでは心もとない。

 本気で体重をかけてはいないみたいだけれど、片側だけにかかる重みは、その分だけきっちり私の心臓をこれでもかと急かす。

 同時に、着物越しに伝わる温もりは、手にした提灯以上の安心感を与えてくれていた。

 不意に、なぁ……という不機嫌な声に隣を見るも、想像以上に近かった横顔に、慌てて視線を正面へ戻した。


「あの斎藤まで、お前のことを名前で呼ぶようになったのか?」

「あの斎藤……って、そんなに珍しいことですか?」


 人の名前を呼ぶのに珍しいも何もないと思うけれど。

 そもそも、私を春と下の名前で呼ぶ人は多いので、珍しくも何ともない。


「名字がある奴をあいつが名前で呼んでるのなんて、聞いたことねぇ」

「そうですか? 江戸に行った時、おたまちゃんのことは“たま”って呼んでましたよ」

「そりゃ、餓鬼だからだろうが。……ああ、そうか。つまりはお前も餓鬼だからってことか」


 そうなのか? そういえばすぐ雛呼ばわりするし、やっぱりそうなのか? やっと雛から人間になれたのか!?

 ……って。


「土方さんのせいですよ?」

「は?」

「土方さんが、女装した時の私を琴なんて安直な名前つけるからです。琴月と琴じゃ似てるからって、それだけですよ」


 それに、毎度下の名前で呼ばれているわけじゃない。どちらかというと、からかうついでに面白半分で呼んでいるような気がする。


「ほう。俺をダシにしやがったか……」

「え?」

「何でもねぇ。だが、確かに斎藤の言うことも一理あるな。なら、名付けた俺も責任とって名前で呼んでやる」

「呼んでやるって……。別に今まで通りでいいです」

「あ? うるせぇ、もう決めた。異論は認めねぇ」


 何をムキになっているのか。どんだけ酔っているんだ?

 道端で寝られるのは困るけれど、これ以上不機嫌になられるのも面倒くさい。この話はさっさと終わらせることにしよう。


「わかりました。私とわかるなら何でもいいです。好きに呼んでください」

「おう。さっそくだが春、帰ったら熱い茶が飲みてぇな」


 ……何でもいいとは言ったけれど、不覚にもドキッとした。

 思わず俯けば、肩に回った腕もそのままに、掌だけがおでこにあてがわれる。


「どうした? 飲みすぎて具合でも悪くなったか?」


 いやいやいや、私は一杯しか飲んでいないから。むしろ、飲み過ぎたのは土方さんだから。

 酔っぱらっている土方さんの方が体温は高いはずなのに、あてがわれた掌よりも私のおでこの方が熱くなっているらしい。

 そのまま俯いていれば、今度は顔を覗き込まれた。


「まさか、呼び方一つで照れてんのか?」

「べ、別にそんなんじゃないです! 呼ばれ慣れてないせいです!」

「お前、時々可愛いとこあんのな」


 そう言うと、おでこにあった手で楽しそうに私の頭をポンポンと叩いた。


 土方さんの様子がおかしい。お酒はこんなにも人を変えてしまうのか……恐るべし。

 ところで……時々って何なのさ。

 確かに普段の言動を顧みても、可愛い要素なんて皆無だけれど。

 だいたい男装して刀を差していたら、可愛いも何もないからね!


 暗がりに浮かぶ土方さんの顔はにやついていて、何だか無性に腹が立つ。

 酔っぱらい相手に本気になるのは負けた気がするけれど、何だか悔しいので、思いついたことを勢いだけで口にする。


「副長が肩を貸さなきゃ歩けないくらい酔うだなんて……これ、貸しにしときますからねっ!」

「何だそりゃ」


 笑ってあしらわれるも、はっきりと却下はされなかった。

 何がそんなに楽しいのか、土方さんは屯所につくまでにやにやしていたので、いつか絶対にこの貸しは返してもらう! と思うのだった。

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