168 再び江戸へ

 三月の下旬。新暦に直せばおそらく四月の下旬頃。

 いよいよ江戸出立のこの日、早朝に玄関を出ればまだ暖まりきっていない朝の少しだけ冷えた風が、赤い紐で高く結った私の髪を揺らしていった。

 今回江戸へ行くのは私と土方さんと斎藤さん、そして伊東さんで、井上さんや沖田さんたちに見送られながら屯所を出た。


 前を歩くのは斎藤さんと伊東さんで、その後ろを私と土方さんが並んで歩いている。

 この時代、どこへ行くにも基本的には徒歩だ。

 元々頭を使うよりも身体を使う方が得意なうえに、日々の厳しい稽古や巡察のおかげで歩くことにもだいぶ慣れたけれど。

 前を歩く伊東さんのペースは、前回、藤堂さんと二人で行った時よりも明らかに速く、遅れをとらないようついていくのに必死だった。

 気がつけば、あっという間に大津に着いていた。


「大津、か……」


 隣を歩く土方さんから、そんな小さな呟きが聞こえた。

 私と沖田さんは、ほんの一月前にもここへきたっけ。

 徐々に近づく一軒のお茶屋の縁台を見つめていれば、私の視線を辿った土方さんが訊いてくる。


「もしかして、あそこにいたのか?」


 誰が、なんて聞き返さなくてもわかる。山南さんのことを訊いているのだと。

 悲しい思い出のはずなのに、不思議とどこか懐かしい気持ちが溢れてきて、思わず笑みをこぼしながら頷いた。


「はい。呑気にお団子を食べてて、自分から私たちに声をかけて……お茶まで啜ってました」

「……そうか。山南さんらしいな」

「本当ですね」


 私につられたのか、土方さんまで苦笑するのだった。




 次の草津宿へ着くと、ここで一度休憩を取ることになった。

 藤堂さんと来た時同様、名物のあんころ餅をみんなで食べれば、ここまでの疲れも若干和らいだ。

 しばらくお茶を啜りながら各々くつろいでいると、土方さんと伊東さんが今日はどこまで歩くかという話をし始めた。

 ここまで随分と速いペースで来たせいか、まだ宿へ入るという時間でもないから仕方がないけれど。もう少しエネルギーチャージをしておこうと二つ目のあんころ餅を注文して食べていれば、隣に移動して来た斎藤さんが、突然私の口元を親指で拭った。

 そうしてあろうことか、その指先をぺろりと舐めた。


「さ、斎藤さんっ!?」

「何だ?」

「な、何だじゃなくて! 何してるんですか!?」


 突然大声を上げたせいで、土方さんと伊東さんが会話を中断してまでこっちを見るけれど、そんなことはお構いなしに斎藤さんが言う。


「餡がついてたからな」


 だ、だからって、そこまでしなくてもっ! 子供じゃないのだから、いや、子供だろうと口で言ってくれればわかるからね!?

 それともあれか、またしても雛扱いか!


 刺さるような視線を感じて斎藤さんとは反対の隣を見れば、土方さんが私を睨んでいる。

 そ、そりゃ、突然大声を出して話を中断させてしまったことは申し訳ないと思っているけれど、だからってそんなに睨まなくても!

 おまけに、私が謝ろうとするのを遮るように土方さんが吐き捨てる。


「お前は餓鬼か」


 そうして懐に手を入れ何かを出そうとするけれど、さらに向こう側に座る伊東さんが腕を伸ばし、笑顔で私に懐紙を差し出した。


「琴月君。まだ少し餡がついているよ」

「えっ、あ、ありがとうございます……」


 申し訳ない以上にもの凄く恥ずかしい思いで受け取り口を拭けば、いまだ隣からの鋭い視線が突き刺さる。

 というより、さっきよりも怖いのだけれど!

 何やら嫌な予感がして咄嗟におでこを庇おうとするも、生憎両手はあんころ餅と懐紙で塞がっている。案の定、避ける間もなくデコピンが飛んでくるのだった。

 ……って、デコピンされた理由がわからないのだけれど!


 気を取り直して、さっそく旅を再開した。

 ここ草津宿は東海道と中山道の分岐点。今日はもう少し先の宿場町まで行くらしい。


「あれ……そういえば、東海道で行くんですか?」

「そうだぞ」


 隣の土方さんが、何を今さらという視線を向けつつもちゃんと答えてくれたので、僅かに身体を寄せ小声で訊いてみる。


「東海道は中山道より取り締まりが厳しいって聞きましたけど……」

「お前、近藤さんと江戸から帰って来る時も東海道で来ただろうが」


 そういえばそうだった。あの時は、伊東さんの入隊に気が気じゃなくてあんまり覚えていないけれど……。

 東海道にしても中山道にしても、関所というものが要所に設置されていて、東海道では箱根関所の取り締まりが特に厳しいらしく、“入鉄砲いりてっぽう出女でおんな”といって、江戸への大量の武器の流入や謀反を起こさせないため、人質として江戸に住まわせている大名の妻や子供が出ていくのを防いでいるらしい。

 関所を通るには通行手形が必要で、それを所持せず通ったり、迂回して関所を通らずに通行する関所破りは重罪で、磔などの刑に処されるという。


 ……とはいえ、お伊勢参りなどが人気で昔に比べ一般人の旅も激増した今、一日に関所を通行する人数もかなり多いらしく、実際は形式的なものになっていて、江戸を出る出女や負傷者、死人や不審者でもない限り、検査を受けるだけで無手形でも通ることができちゃうらしい。

 それでも、不審者と判断されないためや検査の煩わしさを回避するべく、通行手形を所持したりするのだとか。

 そんな手形だけれど、男性であれば大家や名主などの身近な人が書いたものでよく、賄賂を渡して旅籠の主人に書いてもらったりする場合もあるらしい。


 それどころか、関所を迂回して裏道を通って見つかっても、道に迷ったと言えば見逃してもらえたりなど……つまるところ、よっぽどの不審者やお尋ね者でもない限り、最終的には袖の下でどうとでもなったりする……らしい。

 実際、関所破りで磔の刑に処されたのはこの長い徳川の時代でも六名ほどなんだとか。

 そうえいば……と、前回江戸から京へ帰る時も近藤さんは駕籠に乗ったままで、たいしたチェックもなしに通過していたことを思い出したのだった。




 ようやく初日の旅を終え宿へ入ると、夕餉の時間までは各々自由な時間となる。

 窓際の壁に持たれながら想像以上に疲労の溜まった足を揉みほぐしていれば、伊東さんが側へやって来た。


「疲れたでしょう。急がせてしまいましたからね」

「いえ。大丈夫ですよ、これくらい」


 正直、あんまり大丈夫ではないけれど……。初日からこんな調子では先が思いやられるな……と笑顔を貼りつければ、伊東さんが爽やかな顔で言う。


「夕餉の前に温泉へ行きませんか?」

「温泉ですか!? 行きた――……いですけど、今はやめておきます」


 突如感じた鋭い視線に気圧されて、慌てて言い直した。

 見ればもの凄く怖い顔の土方さんが私を睨んでいる。気がつけてよかった……と心底思うほど。


「ここの湯は疲れも取れて良いと聞きましたよ?」


 そんなことを言われたら、なおのこと行きたくなるじゃないか。

 とはいえ、藤堂さんと江戸へ下った時とは違い、今回は終始男装中。伊東さんにバレるわけにはいかない。

 適当な言い訳を述べようとすれば、土方さんが間に入ってくれた。


「こいつは大八車に轢かれた時の傷が酷いらしくて、誰とも風呂に入りたがらねぇんだ。なぁ?」

「は、はい。そうです、そうなんですっ!」


 大げさなほど首を縦に振ってみせれば、伊東さんが残念そうに言う。


「そうだったのですか……。琴月君とはもっと話をしたいので、裸の付き合いならば遠慮なく私にも向き合ってくれるかと期待をしていたのですが……」


 は、裸の付き合い!? 遠慮も何も、そんな状況下で向き合えるかっ!

 普段はあんなにも爽やかなくせに、何さらっととんでもない発言をしているんだ!?

 ……いや、伊東さんは私を男だと思っているからこその発言なのだと思い至れば、途端に複雑な乙女心が胸を埋め尽くす……。

 バレたらそれはそれで困るけれど、男装した程度でバレないってどうなのか。ようやく二十歳にもなったというのに、私の女らしさは年齢とともにこのまま減衰していくんじゃなかろうか……。


 落ち込みかけている間にも、伊東さんは私が温泉に入れないことを心配してくれて、遅くに一人で入ることを告げた。

 すると、それならば……と爽やかに笑みが返ってくる。


「誰にも見られたくないということであれば、行く時につき添いましょう。入り口で、誰も入らないよう見張っておきます」


 そう言い置いて、今度は土方さんと斎藤さんを温泉へと誘い始めた。

 申し訳ないけれど、その申し出は受けたくない。一緒に入れない本当の理由も知らないうえに、なにより私はまだ、伊東さんを信用しきれていない……。

 付き添いはなんとしても土方さんか斎藤さんにお願いしようと思いながら、温泉へと行く三人の背中を見送るのだった。




 夕餉を終えると、土方さんと斎藤さんに勧められるままにお酒を飲んでいた伊東さんが、ぐっすり眠ってしまった。

 全く起きる気配がないので、今がお風呂チャンスとばかりに土方さんと斎藤さんのどちらか一人、見張りで付いて来てくれないかとお願いした。

 すると、仕方ねぇな、と返事をする土方さんの横で、斎藤さんが無言で立ち上がる。

 お互い顔を見合わせるも、すぐさま土方さんが口を開く。


「俺が行く。斎藤は休んでていいぞ」

「いえ、ここは俺が。土方さんこそ、明日に備えて先に休んでください」

「いや、俺は平気だ。斎藤こそ疲れてるだろう。ゆっくり休んどけ」

「俺は大丈夫です」


 しばらくそんな攻防が続くけれど、正直意味がわからない。

 こんな面倒くさいこと、押し付け合うならまだしもなぜ競のか。


「あのー……どっちでも……」


 いいんですけど……と続くはずの言葉は、お前が選べ、と言わんばかりに同時に向けられた二人の視線に気圧され途切れてしまった。

 ……とはいえ、妙に選びにくい雰囲気なので、ダメ元で提案してみる。


「えっと、みんなで行きますか?」


 次の瞬間、お互いの顔を見合う二人が同時に口を開く。


「そうするか」

「そうしますか」


 よくわからないけれど、決着がついたらしい。

 闇夜の中を三人で人気のない温泉へと向かい、二人には入り口で見張りをお願いするのだった。






 翌朝、眠ってしまったことを謝る伊東さんが今夜こそはと言うけれど、どうやら毎晩意図的に酔わされているようで、道中一度たりとも伊東さんが付き添いに来ることはなかった。

 とはいえ、土方さんと斎藤さんはどちらも毎回ついてきてくれたので、無駄に三人揃って寝不足という有り様だった。


 毎晩ほどよくお酒が入ってぐっすり眠る伊東さんは、疲労もその都度回復するのか相変わらず歩くペースも速く、四月五日の夜には試衛館に到着したのだった。

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