162 山南さんの脱走とその結末④

 部屋へ戻って来ると、呆然としたままその場に座り込んだ。

 まるで夢でも見ているみたいで、見慣れた目の前の景色でさえ現実と認識するのが困難だった。ふと気づいた時には、部屋へ戻って来た土方さんが目の前にしゃがみ込んでいた。


「山南さんに見張りをつける。逃げる気なんざねぇだろうが、つけねぇわけにもいかねぇからな」

「見張り……」

「ああ。どうする、行くか?」


 素直じゃない土方さんのこと。暗に逃がせと託しているのかもしれないし、こんなところで落ち込んでいる場合じゃないと、私のなすべきことを示してくれているのかもしれない。もちろん、本当に見張りを頼んでいるだけかもしれないけれど。


 これ以上は山南さんを困らせるだけかもしれないし、望んでなんかいないこともわかっている。

 それでも、もう一度だけ……。

 本当はこうなる前に阻止しなければいけなかったけれど……それを今ここで悔やんでも何も変わらないから。

 一つ強く頷いて、山南さんの元へ向かった。




 山南さんがいたのは自室ではなく、切腹が行われるという前川邸の一室だった。

 すでに部屋の中は整い、山南さんも支度を終え座っていた。白無地の小袖に浅葱色のかみしもを着て、合わせは左前……いわゆる死装束だ。

 本来ならば部屋の外で見張りをしなければいけないけれど、このまま部屋の中に留まる口実を探していれば、山南さんが微笑んだ。


「琴月君。私に見張りは必要ないよ。その代わり、このまま話し相手になってくれないかい?」


 山南さんと話ができるのは嬉しいけれど、“見張りは必要ない”……それは、裏を返せば逃げるつもりはないと言っているのと同じ。

 どこか複雑な気持ちのまま正面に腰を下ろし、真っ直ぐに目の前の人を見た。


「山南さん、逃げてください」

「そんなことをしたら、見張り役の琴月君が責任を問われてしまうよ?」

「構いません。だからもう一度、脱走してください」


 けれど、山南さんはゆっくりと首を左右に振った。

 予想通りの光景だけれど、そのうち諦めて首を縦に振ってくれるかも知れない。私が先に諦めるわけにはいかなかった。


 必死に感情を抑える私とは反対に、山南さんが笑顔を崩すことはなかった。

 何度となく同じやり取りを繰り返せば伊東さんと永倉さんがやって来て、二人は山南さんの正面に座るなり私と同じことを言った。


「新参者の私が口出しできる事ではないのでしょうが、こんなのは間違っている。あなたは、こんな所で死ぬべき人ではないです」

「そうだぞ、山南さん。あとは俺らで何とかするから、もう一度ここから脱走してくれ」


 いいだろう? と言わんばかりの視線を送ってくる永倉さんに、黙ったまま頷き返した。

 そんなやり取りを見ていた山南さんが、悪戯っ子の笑みを浮かべて冗談めかす。


「総長が切腹の直前で脱走したとあっては、新選組の威信にもかかわってしまうよ?」

「そんなことはどうだっていい! 山南さんは何も気にせずここから逃げてくれっ!」


 永倉さんは余裕なく声を荒らげるけれど、山南さんは微笑みを浮かべたまま首を横に振るばかり。

 決して交わらない平行線に痺れを切らせたのか、永倉さんが立ち上がった。


「俺は諦めない」


 そう言い残して出て行けば、残された伊東さんが山南さんに向き直る。


「天狗党の処刑について話をした時、今の幕府に未来はないと言った私をあなたは止めましたが、私には、こんなことをしている新選組もまた、同じに思えてなりません」

「聡明なあなたからすれば、そう見えるかもしれないね」

「山南さん。本当はあなたも、そう思っているのではないですか?」


 山南さんは返事をしなかった。ただ穏やかに伊東さんを見つめている。


「どうやら私は情に脆い人間みたいでね、みんなで作り上げた新選組を見限ることはできなかったし、これからもできそうになくてね」

「しかしっ、その新選組にこうして裏切られているのですよ!?」

「それは違うよ。己の弱さ故に、逃げ出したのは私なのだから」


 なおも食い下がろうとする伊東さんに軽く片手を上げて制すると、それから……と山南さんは一層微笑んだ。


「おそらく、これから時代は大きく動いていく。その中で幕府が、新選組がどう歩んでいくのか……選んだ道が正しかったかどうかを決められるのは、私たちではなく後の世の人たちだよ」

「皆、自身の道が間違っているなどとは思っていないはずです。私も、あなたも!」

「勿論。自分で選んできた道だからこそ、迷うことはあっても後悔はしていない」


 もう、何を言っても止めることはできないのだと悟った伊東さんは、しばらく瞼を伏せてから立ち上がり襖に手をかけた。


「あなたとならこの国を、新選組も変えられると思っていました。残念です」


 背を向けたまま、呟くようにそう告げてから部屋を出ていった。


 それからもたくさんの人がやって来た。井上さんに原田さん、斎藤さんや山崎さん、介錯をする沖田さんだってやって来た。

 ただの平隊士だって何人もやって来ては、大半の人が開口一番逃げることを勧めていく。

 けれど山南さんの覚悟を知り、みんな悲しみの中で別れを済ませるのだった。


 この部屋を人が訪れるたびに、嫌というほど思い知らされた。山南さんの意志は誰が思うよりずっと固いのだと。

 こんな結末認めたくなんかないのに、人の訪れが途切れても何の言葉も発せられないでいたら、山南さんの方から話しかけてくれた。


「江戸を出た私たちがこの京に着いたのはね、ちょうど二年前の今日だったんだ」

「二年前の、今日……?」


 もしかして……。


「だから切腹も今日にしたんですか……?」

「……ああ。当てつけに見えるかい?」


 そう言って私に向けた微笑みは、まるで悪戯を仕掛ける子供のそれだった。

 すぐに返事をすることができない私を咎めることもなく、山南さんは言葉を紡いでいく。


 今日という日を決して忘れないでいて欲しいのだと。

 志を胸に上洛した日、そして、ここまでともに戦ってきた仲間が離脱した日。山南敬助という仲間がいた新選組が……みんなで作り上げてきた新選組がどれだけ大きくなろうとも、上洛をした時のみんなの想いを忘れないでいて欲しいのだと。


「抗議や当てつけだと思われても無理はない。けれど、悲しみより怒りの方が人を動かす力になる。だから、これでいいんだよ」

「……よくないです! そんなのダメです!」


 思わず語気を強めるも、山南さんは相も変わらずゆるりと首を左右に振る。


「私の身勝手のせいで、これ以上彼らの歩みを止めたくはないからね。新選組を大切に想っている琴月君なら、わかってくれるだろう?」


 優しい山南さんらしい言葉だと思う。山南さんにとっても新選組は大切な存在で……だからこそ、と。

 けれど、この状況でその言い方は少しずるい。


「山南さんに意地悪は、似合わないです……」

「もっと歳を見習わないと駄目かな」


 そう言って、山南さんははにかむように微笑んだ。


 覚悟を決めるべく、一度だけ瞼を伏せ深呼吸をする。

 再び開けた視界の真ん中には、儚くなんかない、凛と座る山南さんがいた。


「最後に、もう一度だけ訊かせてください」

「うん」

「ここから、逃げてくれませんか?」


 答えなんて簡単に想像がつくけれど、なんとか涙は堪えた。

 そして穏やかな顔は、予想通りゆっくりと首を左右に振る。


「わかり、ました……」


 その一言はどうしようもないほど震えていたけれど、それでも山南さんは、ありがとう、と微笑んでくれるから、うっかり涙をこぼしそうになる。

 けれど、まだ泣いたらダメだ。山南さんがそうしたように、私も覚悟を決めないと。


「ちゃんと、見届けますね……」


 結末を変えることができなかった私には、その最期を見届ける義務がある。

 山南さんが何か言いかけると同時に、外から格子窓を叩く音がした。

 障子を開けてみればそこにいたのは明里さんで、離れた道の先には永倉さんの姿もあった。


 ――俺は諦めない――


 そう言って部屋を出て行ったけれど、明里さんを呼びに行っていたのだと理解した。

 全てを知らされたのか、明里さんの顔は夕焼けに照らされているのに青白く、今にも泣き出しそうだった。

 振り向けば、山南さんの顔も悲しそうだった。


「外に出ていますね……」


 見張りを任された以上、いくら窓越しとはいえ、説得に来た人との面会なんて本当は許してはいけないのだと思う。

 それに、“旅に出る”としていた二人にとっても、これが正解かどうかはわからない。

 それでも、二人はちゃんと話をすべきだと思うから。




 しばらく部屋の外で待っていれば、俯けた視線の先に大きな影がさした。

 慌てて顔を上げれば、そこに立っていたのは土方さんだった。


「……代わる。俺も少し話がしたい」

「わかりました。でも今は……」


 格子窓の向こうに明里さんが来ているのだと伝えれば、土方さんは私を咎めることも襖を開けることもしなかった。

 けれどもすぐに、襖の向こうから声がかかる。


「歳か、どうぞ。琴月君もありがとう」


 土方さんが襖を開けると、すでに格子窓の障子は閉まっていた。

 ちゃんと話は……お別れはできたのかな……。

 かける言葉が見つからず、あとは土方さんに任せてその場を離れるのだった。




 部屋へ戻る前に沖田さんのところへ寄れば、縁側に腰を下ろし、まるで子供みたいに足をぶらぶらとさせていた。

 促されるまま隣に座り、様子を伺うようにその横顔を見る。


「……大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないと言えば、代わってくれますか?」


 横顔のまま冗談めかす沖田さんは、私の返事も待たずに自身の右手を見ながら話を続けた。


「大好きな敬助さんの最後の頼みです。他の人に任せたりなんてしませんよ。僕がこの手で……敬助さんを送ります」


 そう言って、沖田さんがゆっくりとこちらを向けば目が合った。

 ほんの少し腫れた目は、朝よりも赤い。


「夕焼けのせいですよ~……」


 まるで私の思考を読んだようにおどける沖田さんが、笑顔のまま一筋の涙を流した。

 それはあまりにも突然で、当の本人も慌てて手で拭うほどだった。


「あ、あれ……おかしいですね」

「沖田さん。泣きたい時は泣いた方がいいです」

「……昨夜、起きていたんでしょう? 男がそう何度もなくわけにはいかないんですよ」


 ……けれど、意思に反して次から次にこぼれてくるようで、一生懸命拭うその背中を片手でそっと撫でた。

 一瞬ビクリと肩が跳ねたけれど、嫌がられることも、振り解かれることもないから撫で続けた。

 やがて抵抗することを諦めたのか、沖田さんはほんの少し身体を捻って、正面から私の肩におでこを預けた。


 慰めの言葉も、他のどんな言葉も交わさなかった。

 沖田さんは気の済むまで涙を流し、私は、そんな沖田さんが落ちつくまで肩を貸し、その背中をたださすり続けるだけだった。

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