161 山南さんの脱走とその結末③
こんなにも朝が来ないで欲しいと思ったのは、初めてかもしれない。
恨みたくなるほど眩しい太陽が、少し肌寒い薄闇の世界に端から色をつけていく。
もっとゆっくり帰ればいいのに、山南さんの希望で早朝に宿を出れば、馬を取ってきた沖田さんが手綱を山南さんに差し出した。
「これで、江戸へ向かってください」
沖田さんらしからぬ真面目な顔の目元が少しだけ赤く見えるのは、きっと朝焼けのせいだけなんかじゃない……。
けれど、山南さんがゆっくりと首を左右に振れば、沖田さんは長い瞬きとともにため息を一つつき、目を開けると同時に表情を緩めた。
「わかりました。もう、止めません」
ありがとう、と返す山南さんが、笑顔のまま沖田さんを真っ直ぐに見る。
「一つ、頼み事をしてもいいかい?」
「何です?」
「介錯は、総司に頼みたい」
沖田さんが息を呑むのがわかった。
けれどもすぐ、笑顔を取り繕った。
「はい。精一杯務めさせて頂きます」
「何から何まですまないね」
「本当ですよ。土方さんなんかよりよっぽど……」
言葉を詰まらせた沖田さんに向かって、山南さんは穏やかに微笑むのだった。
沖田さんが引く馬には誰も乗らず、ただゆっくりと屯所へ向かって歩いた。
二月二十三日。新暦に直せばおそらく三月の下旬頃。
道中で見つけた桜の木にまだ花はなく、薄紅色の蕾がついているだけだった。
あれは確か去年のこと。
怪我をしてずっと臥せっていた山南さんが、甘味屋へと誘ってくれたその帰り……一緒に桜を見に行ったっけ。
すでに花は散ってしまい、新緑の若葉でいっぱいの見事な葉桜を。
「山南さん」
桜の木へ歩み寄り、振り返ることなく呼んでみた。
山南さんが隣に並べば、桜の木を見上げたまま問うてみる。
「覚えてますか? 今年は一緒に、満開の桜を見るって言ったこと……」
「……勿論。でも、今年もまた、見られそうにないね」
「なら、今年がダメなら来年――」
「琴月君」
なんで……。
満開の桜が見たいと言ったのは山南さんなのに!
「約束したじゃないですかっ!」
感情のままに叫んで隣の山南さんに掴みかかった。
こぼれないようにと上を向いていたことも、全部無駄になった。
山南さんが覚悟を決めていることはわかっている。
このまま歴史通りに進むのだとしたら、その覚悟の邪魔をしてはいけないことも。
それでも……こんな結末認めない。ここはもう、私にとっても過去なんかじゃないのだから。
掴んだ着物を引っ張っては何度もその胸を叩き、見苦しいのを承知で泣いて喚いた。
こんなことをしても無駄だとわかっていても、それでも形振り構わず叫んだ。
なんで。どうして。約束したじゃないかと。
我慢していた感情を遠慮なくぶつけても、山南さんは私を突き放すこともせず、ただされるがままだった。
「黙ってないで何か言ってください! 約束を守るって言ってくださいっ!」
けれど本当は、山南さんの声なんて聞きたくない。きっと今は、私の望まない言葉しか返ってこないから。
「……すまない」
ほら、やっぱり……。
そんな言葉聞きたくなんかないのに。
どうして抗おうとしないのか。生きることを望んでくれないのか。
山南さんには死んで欲しくないと、みんなが思っているのに。
それに……。
「明里さん……明里さんを一人にするんですか?」
問い詰めるように山南さんの顔を見上げれば、ほんの一瞬悲しげな顔をした。
けれどもすぐ、笑顔が上書きする。
「明里には文を送ってある。しばらく旅に出るから、私のことは忘れて幸せになるように、と」
「そんな勝手な……」
「仲を取り持ってもらった二人には、本当に申し訳ないと思っているよ」
言葉と裏腹に微笑むその顔は、酷く儚いのに凛としていて嫌でも思い知らされる。
その覚悟は本物なのだと。
白んでいた手も噛み締めた奥歯も、身体中から力が抜けていくような感覚がした。
山南さんの着物に縋りついたままずるずるとその場に崩れ落ちれば、同じようにしゃがみ込んだ山南さんが私の背中に手を添える。
次の瞬間、力強く引き寄せられた身体は勢いよくその胸に倒れ込んだ。
「君にこんな想いはさせたくなかったんだが、すまない……」
少しだけ辛そうな声と同時に腕の力も強まった。
けれど、何度となく背中を滑る掌だけは酷く優しくて、溢れる涙を止めることなんてできそうになかった。
どんなにゆっくり歩いても、日が登り切るより前に屯所が見えた。
まだ距離はあるというのに、山南さんの姿を見た門番が慌てたように屯所の中へと入って行く。
玄関へつけば、そこには急いで駆けてきた様子の近藤さんと土方さんが、驚いた顔で立っていた。
「今、戻ったよ」
山南さんがのんきに告げれば、二人は途端に苦しそうに顔を歪めた。
「……俺の部屋へ」
そう言い残して近藤さんが部屋へ向かえば、山南さんもそのあとを追う。
廊下の先から二人の姿が見えなくなると、土方さんが私と沖田さんに向き直った。
「何で連れ帰った……」
隠そうともしない怒りに満ちた視線と声音が、容赦なく突き刺さる。
私と沖田さんならたとえ見つけても逃がすはず、そう思って送り出したのだから当然の反応だろう。
けれど、私も沖田さんも連れ帰りたくなんかなかった。何度も何度も説得した。
したけれど……。
「春くんの顔を見ればわかるでしょう?」
返事をしたのは沖田さんだった。
私の泣き腫らした顔に気がついた土方さんが、悪ぃ、と呟けば沈黙が落ちる。
少ししてから、土方さんが口を開いた。
「お前らからも詳しい事情を訊きたい。同席できるか?」
無言のまま頷き、揃って近藤さんの部屋へ向かうのだった。
開け放たれた障子からは明るい日差しが入り込み、鳥の囀りを縫うように時折吹く風も、朝とは打って変わって穏やかで暖かい。
桜の季節はもうすぐそこまで来ている、そんな陽気だった。
近藤さんの横にはいつも通り土方さんが座っていて、その反対側に座るはずの山南さんが、今日は少し距離を空けた正面に座っている。
井上さんや永倉さんら試衛館出身の幹部はもちろん、屯所にいた他の幹部らもいる。
私は沖田さんの隣に腰を下ろしていて、大津で発見したこと、そこに泊まったこと……屯所を出てからの経緯を沖田さんが説明した。
のんびりと向かったこと、逃げるよう説得したことはあえて言わなかった。言わなくてもわかっているはずだから。
沖田さんの話を聞き終えた近藤さんが、ゆっくりと顔を上げた。
「山南さん。江戸へ行く許可を出した覚えはないのだが、此度の件、申し開きがあれば聞こう」
「何もありません。江戸へ行きたくなった、ただそれだけです。だから勝手を承知で出て行ったのです」
“脱走”という言葉を使わず、近藤さんは何とか丸く収まる理由を引き出そうとしているように思えた。
けれど、山南さんの返答はそんな期待に応える気など皆無で、言葉を継げなくなった近藤さんに変わり、土方さんが静かに割って入った。
「自分が何を言ってるのかわかってるのか?」
「ああ。脱走したと言っているんだよ」
「脱走したらどうなるか……わからねぇあんたじゃねぇだろう」
「勿論さ。これでも一応、総長だからね」
チッと小さな舌打ちが聞こえた。
土方さんは山南さんを睨むように見つめるけれど、すでに覚悟はできている、そんな微笑みを返され顔を逸らした。
本人が言い訳の一つもせず脱走だと認めてしまった以上、いくら近藤さんでももう言わないわけにはいかなかった。
悔しさを隠すように俯く人、祈るような表情で山南さんを見つめる人、全員が息を呑む中ただ近藤さんの言葉を待つ。
「新選組総長、山南敬助。局中法度に則り、脱走の罪で切腹を申し付ける」
「武士として死ぬことを許してくださり、ありがとうございます」
そう言って深い一礼をすれば、顔を上げた山南さんに近藤さんが苦しげな表情のまま訊ねる。
「何か、望みはあるだろうか」
「では、介錯を総司に……沖田君にお願いしたく思います」
近藤さんの視線を受け止めた沖田さんが、黙ったまま頷いた。
そうして静かな部屋に、もう一つ……と、山南さんの凛とした声が響き渡る。
「切腹は、今日執り行って頂きたい」
切腹の沙汰が下されたとはいえ、誰もが明日以降だとばかり思っていた部屋の中は、一瞬にしてざわめいた。
そんなざわめきの間を縫うように、近藤さんが声を絞り出す。
「それが貴方の、山南さんの望みなのだろうか?」
「ええ」
「……では、総長山南敬助の切腹は、本日夕刻に執り行う。介錯人は沖田総司とする」
やっぱり、こんな厳しい法度なんて作らなければよかったんだ。
局中法度を作った土方さんも、切腹を言い渡した近藤さんも、介錯を引き受けた沖田さんも、ううん……みんなが苦しい顔をしている。
唯一山南さんだけが背筋を真っ直ぐに伸ばし、凛とした姿で満足げな微笑みを浮かべていた。
まるで、お芝居でも見ているような感覚だった。
徐々に部屋から退出していく人の姿もまた、全部台本通りなのだと、そんなバカなことを考えながらただ眺めていた。
気がつけば、部屋に残るのは私と試衛館出身の幹部たちだけで、それからは誰も動かなかった。
そんな中、おもむろに顔を上げた近藤さんが、痛々しいほどの笑顔を浮かべて山南さんに訊ねた。
「ここからは、一人の友として訊きたい。他に何か望むことは?」
ここで切腹を取りやめて欲しいと言えば、近藤さんはきっと、何を犠牲にしてでも叶えただろう。
けれどもう、山南さんがそれを望まないことは、ここにいる誰もがわかっていた。
「もしも叶うのであれば……」
そう言って優しい山南さんが望んだのは、自分のことではなく明里さんのことだった。
明里さんを落籍させ、故郷へ送り届けて欲しいというものだった。
「ああ。約束しよう……」
「重ね重ね、ありがとうございます」
再び山南さんが深々と頭を下げれば、障子の外から暖かな風が吹き込んだ。
桜の季節はもうすぐそこまで来ているのだと、遠くの鳥の囀りに耳を傾けるように、そっと瞼を閉じた。
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