159 山南さんの脱走とその結末①

 “江戸へ行く”

 山南さんの部屋からそんな置き手紙が見つかったのはお昼過ぎだった。山南さんの希望で、遅めの昼食を部屋へ届けた隊士が発見したらしい。


 いくら総長といえど、書き置きをしたからといって許可もなしに勝手に江戸まで行くなんて許されるはずもなく、このまま見つからなければ最悪“脱走”という扱いになってしまう。

 ただ、幸いにも昼間は隊務で出払っている隊士の方が多く、このまま見つかれば何もなかったことにできる……。

 近藤さんや土方さん、そして事情を知る僅かな隊士たちだけで屯所内をくまなく探すこととなった。


 気が気じゃなかった。脱走なんかじゃない、絶対に違う。そう願いながら探していた。

 だって私が知っている山南さんは、脱走の末に――




 時が過ぎるにつれ、隊士たちが戻りつつある屯所は徐々に賑やかになった。

 けれどその賑やかさも、ただならぬ雰囲気のせいで次第に騒然とし始める。どこから話が漏れたのか、総長が……という声まで聞こえてくれば、このままでは収拾がつかなくなると全員広間に集められた。


 土方さんが置き手紙を広げ経緯を説明すれば、しんと静まり返っていた広間が再びざわつき出す。どこからともなく脱走という単語が飛び出して、みんなの視線は自然と近藤さんに集まった。その表情は、苦しげに顔を歪めて口を引き結び、隣に座る土方さんも、これ以上ないほど眉間に皺を寄せている。

 騒然となる広間とは反対に、幹部たちは沈黙したままだけれど、土方さんだけが何かを吹っ切るように大きく息を吐き、どこか遠くを睨みつけながら低く、静かに口を開いた。


「総長山南敬助が、脱走した」


 歳! と声を上げた近藤さんの顔は、咎めるように険しくもどこか申し訳なさそうな、そんな複雑な表情だった。

 土方さんに向けられる視線は、私を含めみんな同じだった。どうして、信じられない、何かの間違いだ、と。

 そんな想いが満ちた広間に山崎さんが息を切らせてやってきて、近藤さんと土方さんの元へ駆け寄った。報告を聞き終えた二人は一瞬だけ見つめ合うと、すぐに土方さんが声を張り上げる。


「どうやらうちの隊士と見廻組が揉めてるらしい。詳しい状況がわからねぇ。副長助勤はここにいる全員を率いて一気に片付けて来い!」

『全員!?』


 いくら見廻組が相手とはいえ、全員で行くほどのことではないと思う。

 けれど、とっとと行けっ! という土方さんの声とその視線に気圧されて、みんな一斉に立ち上がる。

 そんな中、同じように立ち上がった沖田さんを近藤さんが呼び止めた。


「総司は山南さんを追ってくれ」

「僕だけ、ですか?」


 驚いたように返す沖田さんに向かって、土方さんが付け加える。


「病人のたかが一人、そう遠くへは行けねぇだろう。総司、お前一人で十分だ」


 やっぱり山南さんのことは後回し、というわけにはいかないらしい。それなら私のやるべきことは一つ。

 沖田さんと一緒に行かせて欲しいと願い出れば、土方さんはあっさり了承した。


「草津まで行かれたら厄介だ、それまでに見つけ出して連れ戻せ。馬を使えばすぐ見つかるだろう。行けっ!」


 連れ戻せ……って。脱走と断定してしまった以上、連れ戻した先に待っているのは切腹だ。

 そんなこと絶対にさせない。させてたまるか。


 部屋を出ようとすれば、土方さんが沖田さんを呼び止め何やら耳打ちするのが見えた。

 脱走だと言い切った土方さんに対する苛立ちも、脱走を食い止められなかった自分自身に対する怒りも、全部ごちゃまぜのまま背を向けて、さっさと広間をあとにした。




 新選組の馬小屋は屯所の近くにある光縁寺の門前にあり、沖田さんとそこまで来たものの大事なことに気がついた。


「あ……私、馬に乗れないです」


 走って追いかけます、と告げるも沖田さんが何でもないことのように言う。


「知ってます。さっき土方さんも言ってましたから」

「え?」

「なんて言ったと思います? 『あいつは馬に乗れねぇはずだ』ですよ。馬に乗れない人と一緒に馬で行けだなんて、ねぇ?」


 どういうこと? 首を傾げる間にも、手慣れた様子で支度を済ませた沖田さんが馬上から手を差し出した。

 その手を掴めば一気に引き上げられ、沖田さんの前に座らされる。両側から伸びてきた腕が手綱を握り、馬を歩かせ始めた。


「馬に乗り慣れてない春くんが振り落とされたら困るんで、ゆっくり行きますよ」


 早駆けを想像していただけに、こんなペースではいくら馬とはいえ山南さんに追いつくなんて不可能だ。

 山南さんにはこのまま逃げ切って欲しくて、万が一見つかった場合に備え、屯所へ連れ戻されるのを阻止するためについてきたけれど、もしかしたら沖田さんも同じ気持ちなのかもしれない……と、一つ提案をしてみる。


「沖田さん。その辺で時間つぶして帰りませんか?」


 話の意図を読み取ってくれたのか、すぐ後ろで小さく吹き出された。


「さすがにそれは無理ですよ。まだ明るいし、人の噂も馬鹿にはできませんからね。土方さんの耳にでも入った日には、僕らが切腹かもしれませんよ〜?」

「士道不覚悟ですか? それとも副長命令ですか? だいたい……置き手紙だけで脱走だなんて言い切らなくてもいいのに。土方さんが、“山南さんは旅に出ただけ”とでも言い張れば、みんな黙ったんじゃないですか?」

「確かに黙ったでしょうね〜」

「だったらどうして……」


 自分のことを棚に上げているのはわかっている。それでも、広間での出来事を思い出せば出すほど腹が立ってきて、唇を噛みしめた。

 葛山さんのことにしても西本願寺のことにしても、近頃山南さんの意見は全く通らなかったみたいだし、もしかして、土方さんは山南さんのことが嫌いになってしまったの……?

 そんなことを考え始めれば、沖田さんが馬の歩みに合わせてゆっくりと語りだす。


「あの時、みんなすでに脱走だと思い始めていました。それでも近藤さんや土方さんなら、“旅に出ただけ”で押し通すことも可能だったでしょう」

「だったら……」

「書き置きを残せば脱走にはならない。局長と副長がそんなことを認めてしまったら、今後どうなると思いますか?」

「それは……」


 それ以上の言葉を継げなくなった私に、沖田さんが唄うように言った。


「水の北 山の南や 春の月」

「……発句? もしかして、土方……豊玉ほうぎょくさんのですか?」


 豊玉とは土方さんの雅号で、句を詠む時のペンネームみたいなものだ。

 嫌味ったらしく雅号を口にした私に向かって、沖田さんが笑った。


「うん、豊玉さんのです。気づきました? 山の南ですよ」

「山の南がどうしたんで……って、あっ……山南、さん?」


 沖田さんは返事をしなかったけれど、代わりに豊玉発句集について話し始めた。

 句集には春を詠んだものが多くあり、中でも“春の月”が好きなのかよく出てくるのだと。

 そんな春の月と一緒に山の南……。


「あの豊玉さんの句ですからね、きっと深い意味なんてないんでしょうけど。単なる偶然かもしれませんが、そうじゃないかもしれない」


 思わず振り向けば、沖田さんが悪戯っ子のように微笑んだ。


「あの人、素直じゃないですからね」


 馬に乗れない私と一緒に馬で行けと言ったことも、東海道と中山道の分岐点である草津までに見つけ出せと言ったことも。裏を返せば全部、見つけなくていいということなのだと沖田さんが笑ってつけ加えた。

 何それ、本当に素直じゃない……と呆れるも、内心ではホッとしながら確認する。


「つまり、形だけの追跡ってことですか?」

「うん。なので形だけ草津までは行きます。まぁ手ぶらで帰ったら、僕らも形だけの罰が待ってるかもしれませんけどね?」

「望むところです!」


 それで山南さんが助かるなら、罰の一つや二つくらいどうってことない。

 そもそも山南さんが屯所を出てから随分と時間が経っているし、どの道見つけることはできないと思う。

 そう思ったら気持ちにも余裕が生まれ、沖田さんと他愛もない話をしながらのんびりと草津へ向かうのだった。

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