130 過去と未来①
夢の中へ逃げ込むということを数日繰り返したある日、忙しさが一段落したという土方さんに起こされた。
「支度しろ。出掛けるぞ」
「……どこ行くんですか? 留守番じゃダメですか?」
「駄目だ」
問答無用でダメ出しをされ、仕方なく支度を整えた。反論したところで、副長命令が出てしまえば徒労に終わるのだから。
行き先も訊かなかった。どうせ行くのだから着けばわかる。だから、ただ黙ってあとをついて行った。
七月の終わり、現代に直せばおそらく九月も間近頃。
太陽もそこまで高くない午前中だというのに、久しぶりに出た外はまだまだ残暑厳しく、日差しもやたらと眩しい。
そんななかでの足取りは遅いにもかかわらず、土方さんとの距離が開くことはなかった。
着いた先は北野天満宮だった。
ここへ来るのは二度目、誕生日に来た時以来だ。
境内を進む土方さんは一本の梅の木の前で足を止め、青々と生い茂る葉を見ながら苦笑した。
「当たり前だが、花も実もなけりゃ紅葉もねぇな」
それはそうだ……全部時期外れもいいところ。何のためにここへ来たのか訊ねる前に、土方さんが振り返った。
すっと伸ばした手で私の顔に触れたかと思えば、そのまま頬をつまんでくる。
「笑え。梅は咲いてねぇが、あの時みたいに笑え」
「……ふぇ?」
おかしな声に慌てて手を払いのければ、笑っていないだの笑顔が消えただのの話なのかと、うんざりした気持ちで視線を落とした。
「……笑えるわけないじゃないですか」
「そうか。なら、泣け」
「……はい?」
笑えないなら泣けって、そんなの無茶苦茶だ。思わず眉根を寄せて見上げれば、土方さんは真剣な眼差しで私の視線を受け止めた。
「以前のお前は喜怒哀楽の感情があって、時に足掻きながらもちゃんと生きてた。だが、今のお前は違う。表情からしてまるで幽霊だ」
「幽霊って……。じゃあ、死んでるのかもしれないですね。車に轢かれて気づいたらここにいて……あー、もしかしたら現代で死んじゃったから、ここに飛ばされて来たのかもしれないですね」
「なら、ここで生きてる俺たちは何だ? ここはあの世か? 俺たちは死んでるのか? ふざけんじゃねぇ」
頭にきたとはいえ無神経だった。私が飛ばされた理由は何であれ、ここにいる人たちは確かにここで生きている。
土方さんの声は怒ってなんかいないけれど、まともに顔を見ることはできず、俯いたまますみません……と謝った。
「お前は本当によくやってるよ。百五十年も先の世からやって来て、女だってのに俺たちと一緒に剣まで振るって。お前にとっちゃ理不尽なことも必死に受け入れてな。だがな、ずっとそんなんじゃ疲れるだろう。辛い時は辛いって言え。泣きてぇ時はちゃんと泣け」
「別に……大丈夫です」
辛いと愚痴ったところで何も変わらない。頑張ったところで結果がついてこなければ何の意味もない。過去のことをちゃんと知らない私には、どうせ何も変えられない。
思わず拳を握りしめれば、土方さんが呆れたように小さく吹き出した。
「なぁ、それ、やめねぇか?」
「……何がですか?」
「お前、全然大丈夫じゃねぇ時もすぐ大丈夫って言うだろう?」
「別に……大丈夫だから大丈夫って言ってるんです」
いきなり何。そんなこと土方さんには関係ない。これ以上そんな話をするつもりはないとため息をこぼしながら顔を背ければ、投げ掛けられるのは再び呆れたような声だった。
「すぐに泣くような奴の大丈夫なんざ、大丈夫なわけねぇだろうが」
「……泣いてません」
「ああ、そうだな。柴の時もお前は泣かなかったし、確かにここ最近はずっと泣いてねぇか」
「っ……まるで、前は泣いてたみたいな言い方しないでください。泣いてませんから」
精一杯の反論をするも、土方さんは腹が立つほど見透かしたように言う。
「俺の前では、だろう? 芹沢さんの葬儀の日以来、お前は俺の前では泣かないようにしてたからな」
さっきから何なの。自分の意思でここにいると決めたのだから、涙は見せないようにしてきたつもりだ。
目の前で泣いてきたのならともかく、それをとやかく言われる筋合いはない。
「用がないなら先に帰ります」
募り始めた苛立ちをぶちまける前に立ち去ろうと、背を向けた時だった。
突然、背後から強く腕を引かれたせいで大きくバランスを失い、気づけば土方さんの胸に顔を埋め、その腕の中にいた。
「え……っと、土方、さん?」
驚いて顔を仰ぎ見ようとするも、阻止するかのごとく一層強く閉じ込められた。
「いつまでも意地張って我慢してんじゃねぇ……。辛いなら辛いって言え。泣きてぇなら泣けよ!」
耳元で発せられた声は嫌というほどよく聞こえ、嫌でもわかってしまう。
そんなことを言う土方さんの方が、よっぽど辛そうで苦しそうなことに……。
まるで痛みが伝染したかのように胸の奥がずきずきして、いっそ泣いてしまいたいくらい苦しいのに……。
「……泣けないんです。ぽっかり穴が空いたみたいにからっぽで、何にも出てこないんです」
自分でも驚くくらい素直で落ちついた声が出た。きっと、いつかみた夢のように温かいせいだと思う。
だからなのかな……。更に強まる腕に押し出されるように、蓋をして見ないふりをしてきたはずの想いも、一度溢れてしまった言葉同様止まらなくなった。
「ここは、価値観も命の重さも何もかもが違って、あっという間にこぼれ落ちていっちゃうんです。私のせいで……私が知らなかったせいで、たくさんの人が死んでいったんです」
それは泣いて赦されることではないし、赦されていいことでもない。
……ああ、そっか。だから泣けないのかもしれない。
涙なんて流したら、きっとその分軽くなっちゃうから。
「人の生き死になんざ、お前の与り知らねぇところでいくらでもある。そんなもんをてめぇのせいだなんて、思い上がりもいいところだ」
そうじゃない……と首を左右に振って答えた。思い上がれるほど私は歴史を知らないから。
それに……。
「……私は、百五十年も先の未来から来たんです。過去のことをちゃんと知ってさえいれば、救える命がたくさんあったんです……。それなのに私は……」
震える声を隠そうと拳を握れば、腕の力はそのままに、どこか気の抜けた声で訊いてくる。
「なぁ。一月前の天気は何だった?」
「……そんなの、覚えてません」
「だろうな。俺も覚えてねぇよ」
そう言って土方さんは小さく笑うけれど、すぐさま語りかけるように続きを口にする。
「知っているはずの一月前のことすら覚えちゃいねぇんだ。百五十年も前のことなんざ知らなくて当然だ」
力強い腕の中で、それでも思い切り首を左右に振った。
僅かとはいえ、幕末期の歴史を授業でやらなかったわけじゃない。この時代と違って、教科書以外にだって知る方法はたくさんあった。
何より兄の話をちゃんと聞いていれば……それだけで全然違ったはずだから。
「お前にとっちゃここは、誰かの日記を読み返してるようなものなんだろう。だがな、それには全部記されているのか? 何一つ漏れなく事細かに記されているのか?」
「それは……全部が全部そういうわけではないですけど……」
「だったら意味なんてねぇよ。歴史なんざ人を介して伝える以上、時が経てば経つほど多少なりとも形を変えちまうことだってある。結局、真実を知ってるのはその場にいた人間だけだ」
「そうだとしても……僅かでも知っていれば変えることだってできるはずです。そうじゃなきゃ、同じ歴史を辿ってしまうだけじゃないですか……」
いくら私でもさすがに気づいている。土方さんは、私を慰めようとしてくれているのだと。
「お前にとっちゃここは過去だ。それは紛れもない事実なんだろう」
わかっている。だからこそ私は……。
「だがな、俺たちにとっちゃ今で一寸先は未来だ。お前の知ってる歴史とやらを辿ってるつもりもなけりゃ、当然これからだって辿る気なんかねぇ。俺たちは、俺たちの意思で今を生きてんだからな」
それもわかっている。ここにいる人たちはもう、昔話の登場人物なんかじゃない。手を伸ばせば触れられて、私と同じように生きている。
今だって、土方さんの心臓は生きていることを主張するように、少し早い鼓動を刻んでいる。
そんな人たちの人生は誰も決められたものだなんて思ってもいないし、決められたものであっていいはずがない。
だからこそ私が……。
「なぁ、琴月。たとえここが過去だとしても、今この瞬間はお前にとっても今であることに変わりはねぇだろう? どうせお互い先のことなんざわからねぇんだ。なら、こっから先は俺たちと同じ未来じゃねぇか」
そんなのは屁理屈だ。無理やりでこじつけで強引で……けれども反論しようと開いた口は、何だか喉の奥が熱くなって慌てて引き結んだ。
そんな私を知ってか知らずか、土方さんは話すことをやめてくれない。
「それでもな、これだけは断言してやる。お前はいつか元の時代に帰れる日が来る。……きっとだ」
先のことはわからないと言った側からいつか帰れるだなんて、矛盾している。その自信はどこからくるのかと突っ込みたくなるけれど、あまりにも当然みたいに言うから、胸も喉も余計に苦しい。
迂闊に口を開けばあふれてしまいそうで、慌てて俯いた。
そんな私を強く抱きしめた土方さんは、同じように強くはっきりと、けれど優しい声で言う。
「いつか来るその日までは、俺たちと一緒に今を生きろ」
今を――
そんなことが赦されるのかな……。
同じ時を生きてもいいのかな……。
いつか帰れるまではここで生きる。一番最初にそう決めたのだから、みんなと同じように今を今として生きたい。
けれど……。
私は未来から来た人間だから。過去の知識がないからと、消えいく命を悲しむだけなんて赦されていいわけない。
心も頭も引き裂かれそうなくらい痛くて、苦しくて、今になって滲み始めた涙を堪えるように唇を噛めば、まるで全部見透かすように土方さんが笑った。
「四の五の言ってねぇで、一緒に生きりゃいいじゃねぇか。お前は俺たちを、新選組を守るんだろう? なら俺たちも、新選組もお前を守ってやる。だからな、辛ぇ時は辛ぇってもっと俺たちを頼れ。泣きてぇ時は泣け。ただし、一人でこっそり泣くんじゃねぇぞ。わかったか?」
そんなの嫌……。土方さんの前で涙を見せないようにしてきた意味がなくなる。
必死に首を左右に振れば、意地悪な声が響く。
「なら、副長命令だ」
「なっ! そんな、のっ……ズッ!」
うっかり開けてしまった口からこぼれる文句は途切れ途切れで、最後まで言うこともできなかった。
押さえつけていたはずの想いが、まるで弾けるように溢れてしまったから……。
抱き竦められたままでは拭うことも叶わなくて、抜け出そうと必死にもがけば強まる腕とは反対に優しい声がした。
「今まで我慢してた分も泣いとけ。涙くらい、あとで俺が拭ってやるから」
こんなのズルい。ズル過ぎる……。
より一層きつく抱きしめられれば、止めるどころかあとからあとから溢れてどうしようもなくなる。
必死に堪える嗚咽も力を込めれば込めるほど喉の奥が熱くなって、あとはもう、子供のように声を上げて泣くしかできなかった。
それでも、土方さんの腕が緩まることはなかった。
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