129 夢の中へ③

 少しひんやりしたもので優しく顔を撫でられる感覚に、重たい瞼をゆっくり開けた。


「あっ……すまん、起こしちゃったか。顔周りの汗だけでも拭いてやろうと思ってな」

「……井上、さん?」


 徐々に鮮明さを取り戻せば、井上さんが濡れた手拭いで顔を拭いてくれているところだった。


「起きたついでに着替えもした方がいい。汗かいたままで悪化したら洒落にならんからな」


 熱が下がり始めたのか、確かに汗びっしょりで気持ちが悪い。

 着替えを出そうと身体を起こす間にも、井上さんがてきぱきと用意をして手渡してくれた。


「すみません、ありがとうございます」

「背中だけでも拭いてやろうか? もちろん、春が嫌じゃなければだが」


 他の人が同じ台詞を口にしたなら絶対に断るところだけれど、井上さんに対しては、性別すらバレているというのに不思議と嫌な気がしない。

 お願いします……と座ったまま背中を向ければ、袖から両腕を抜いてさらしもほどいた。

 柔らかな手拭いが肌の上を滑り思わず身体が強ばるけれど、手を止めることなく井上さんが苦笑する。


「この状況で忠告というのもおかしいが、もう少し警戒心を持った方がいいぞ?」

「井上さんじゃなきゃ断ってます」


 正直に告げれば、堪えきれないとばかりに吹き出された。


「それは信用されてるのか男とも思われていないのか、耳の痛い台詞だな」

「え……あ、いえ、そういうつもりじゃ……」

「こら、冗談だから気にするな。こう言っちゃなんだが、下心なんてあったらとっくにちょっかい出してるぞ」


 考えてみれば初日に着替えを手伝ってもらったり、潜入捜査をした時には女物の着物を着付けてもらったりと、確かに今さら感は否めない。

 逆に言えば、女としての魅力ゼロということだろう……。


 背中を拭き終えた手拭いを私に手渡すと、井上さんはくるりと反転し、他愛もない会話を投げかけるばかりで一切振り返る様子はなかった。

 その間に残りを拭いて着替えを済ませれば、再び布団に潜り込んだ私の横へ来るなり、手を伸ばして私のおでこにかかる前髪を優しく払いのけた。


「少しはすっきりできたか?」

「……はい。ありがとうございます」


 それはよかった、と微笑む井上さんは、前髪に触れていた手をそのまま頭の方へと滑らせる。

 手櫛で乱れた髪を優しく梳きながら、まるで不思議なことでも話すような口調でおかしそうに呟いた。


「何だろうなぁ……。俺からしたら春は、娘みたいな感じなんだ」

「……娘、ですか?」

「ああ。伴侶も子もいないが、娘がいたらこんな気持ちなんだろうな……と思うことが多々ある」


 そこでふと、思いついた言葉を口にした。


「お母さん……」

「ん? お母さん?」

「井上さんにとって私が娘なら、私にとって井上さんは、たぶんお母さんみたいな存在なんです……」


 思いつきとはいえ、言葉にすることで朧気だった井上さんに対する想いの輪郭が、くっきりと形を現したような感じがした。


「春……俺も一応男なんでな、そこは母親じゃなくて父親にしてくれないか?」


 そう苦笑する井上さんに、ゆっくりと首を横に振ってみせた。


「お父さん役は、どちらかというと土方さんなのかなって……」


 井上さんは初めて会った時からとても優しくて、私に色々なことを丁寧に教えてくれた。

 着物の着方はもちろん、竈の使い方から洗濯、お金の数え方や買い物の仕方。それらはやっぱり、父親というより母親の方がしっくりとくる。

 だからこそ、安心して背中を拭いてもらえたりもするのだと思う。


 なるほど、と納得をした井上さんは、まるで全てを包む込む優しい母親のような笑顔を浮かべて私の頭を一撫でした。


「歳は父親か。少しばかり可哀想な気もするが……まぁ、素直じゃないあいつが悪いな」

「……井上さん?」

「いや、父親は随分と気が短いからな。母親代わりの俺はうんと甘やかしてやろうと思ってな」


 そう言って再び髪を梳き始める井上さんの手に誘われ、緩やかに、少しだけ穏やかに夢の中へと落ちていった。






「……月。……琴……月。……琴月」


 幾度となく繰り返される声に、深い眠りの底から無理やり引きずり上げられた。

 重たい瞼をこじ開ければ、傍らに座る斎藤さんが私を見下ろしていた。


「やっと起きたか」

「……すみません。もう少しだけ寝かせてくだ――」

「断る。粥が冷める」


 意地悪な返事を無視して目を閉じようとすれば、視界の端から伸びてきた手が私のおでこに乗っかった。


「もう熱はない」


 そんなのは知っている。おでこの手を振りほどくように身体ごと背を向ければ、どんと音を立てながら横向きの視界に腕が落ちてきた。驚く間もなく反対の手で浮いた肩を布団に押し戻される。

 どういうつもりか、傍らで腰を浮かせる斎藤さんが私を間近で見下ろしている、という状態だった。その顔に、いつもの意地悪な笑みは一切見当たらない。


「……斎藤さん?」

「琴月。お前はここを出て、女として生きろ」

「……そんなの……無理ですよ」


 ここを出たところで行くあてなんてどこにもない。百五十年以上も前の過去に、私の居場所なんて存在しない。


「そうか。ならばいっそ嫁ぐか? そうすれば、お前は堂々と女として生きられる。刀を置き、ここからも出られるぞ」


 突拍子もない発言に唖然とするけれど、私はまだそんな年でもなければ肝心の相手もいない。そもそもここを出て行くつもりなんてない。

 反論するのも面倒で睨み返せば、肩を押さえつけていた斎藤さんの片手が私の頬へと移動した。


「俺のとこへくるか?」

「なっ……冗談はやめてください」


 頬に触れた手を振り切るように、思い切り布団を引き上げ頭まで被った。

 斎藤さんはいつものようにからかっているだけだろうけれど、はっきり言って、今の私はそんな冗談につき合える余裕も気力もない。


「冗談を言ったつもりはないんだがな」


 くくっと喉を鳴らしながら身体を離した斎藤さんに、布団の中から小さくもはっきりと告げる。


「出て行くつもりはありませんから」


 散々夢の中へ逃げている私が言うのもおかしいけれど、自らの意思で新選組を出て行くことはきっとない。

 芹沢さんを見捨てた私が、これ以上託された願いまで捨てることは赦されないから……。

 今度こそ背を向け膝を抱えるように小さく丸くなれば、布団の外から鋭い声がした。


「ならば、いつまでも逃げるな」

「……わかってます……」

「わかっているならば行動に移せ。どれだけ御託を並べたところで、動かねばそれはただの言い訳だ」


 正論過ぎて耳が痛い。

 唇を噛んできつく目を瞑る私などお構い無しに、斎藤さんは更に言葉を続ける。


「まずは食べろ。与えられた餌すら食えない雛は死ぬだけだぞ」

「雛……」

「何だ。親鳥にでもなったつもりだったのか? 俺から見れば、お前などまだまだひよっこ同然だぞ。雛は雛らしく、ピーピー鳴いて貪欲に生きろ」


 そこまで言うと、山崎さんもしたように片腕を身体の下に差し入れられ、抵抗する間もなく無理やり抱き起こされた。

 直後、ほんの少し腕の力を強めた斎藤さんが、それまでとは打って変わって柔らかな声音で言う。


「雛が不服なら、このまま卵のように暖めてやるのも悪くはないな」

「なっ……雛でいいです」

「ならば雛のように口移しで食わせてやろうか?」

「……さ、斎藤さんっ」


 斎藤さんが伸ばす腕よりも先にお盆の上にあった器を手に取り、自ら匙で掬って口へと運んだ。


「からかいがいのある奴だ」


 そう言ってくくっと喉を鳴らす斎藤さんは、私が食べている間もずっと、支えるように背中に手を添えてくれていた。


 味もよくわからないまま食べていたけれど、初めからゆっくりだったその匙運びは、回数を重ねるごとに遅くなり、半分ほど減らしたところで鉛のように重くなった。

 同時に、睡魔が私を夢の中へと手招きすれば、器と匙を取り上げられた。

 残りもあの手この手で無理矢理食べさせられるのかと思うも、斎藤さんは器をお盆に戻すなり私の鼻をつまんできた。


「俺とて鬼じゃないからな。まともに食事もとれない奴にいきなり完食しろとまでは言わない。そうして欲しいなら、手練手管を弄して食べさせてやってもいいが」


 首を左右に振って斎藤さんの指から逃れれば、今度はその手が私の目元を覆い瞼を下ろさせた。


「眠いのならこのまま寝ろ。ただし、目覚めた時はその目をしっかり開けろ。命ある限り、生きることを諦めるな」


 何だかお説教染みていて斎藤さんらしいと思うものの、強烈な睡魔に抗う術はなく、一気に夢の中へと落ちていくのだった。






 夢か現か幻か。瞼を開けるたびに霞む視界に浮かぶのは、入れ替わり立ち替わり私を見下ろすみんなの顔だった。

 忙しいはずの土方さんの顔も、混じっていたような気がする。いつも以上に眉間に皺を寄せていて、辛そうで苦しそうで、どこか悲しそうな顔だった。


 いつまでも目を背けたまま逃げてばかりもいられない。わかっている。

 わかっているけれど……。

 気づかないふりを続けたせいか、胸につかえたモノの輪郭は朧気で、昼夜の感覚同様、曖昧になってきている気がした。


 こんな私でも、みんないつも通りに接しようとしてくれる。それならいっそ、このまま夢の中で溺れるのも悪くない。

 はっきりとした答えを出したって、それはきっと私の望むモノとは違うから。

 何も知らない私が足掻いたところで、どうせ何も変わりはしないのだから……。

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