074 拐われる②

 遠くで聴こえる三味線の音色にいざなわれ、沈んでいた意識が徐々に浮上する。ゆっくりと瞼を開ければ布団の上で寝ていて、知らない天井が見えた。

 夢の淵で鳴っていたあの音は、今はもう聞こえない。

 おもむろに身体を起こせば、首の後ろが鈍く痛んだ。同時に、自分の身に起きたことを思い出す。


「やっとお目覚めか?」


 突然、背後から声がして振り返れば、窓枠に腰掛けた男性が一人、三味線を抱えて私を見下ろしていた。

 薄暗い部屋で月明かりを背にしているせいか、顔がよくわからない。

 けれど、その声と風貌……おそらく、私の首に手刀をお見舞いしてくれたあの男だ。


 状況が呑み込めないけれど、見知らぬ部屋で見知らぬ男と二人きり……嫌な予感しかしないわけで。このままここにいてはマズイと、立ち上がろうとした時だった。

 背後で高い衣擦れの音がしたかと思うと、私の片腕は背中で捻り上げられ、動きを封じられていた。


「ッ……」

「目覚めた途端帰んのか? 随分つれねえ女だな」

「放してください」


 この人は何者? ……って、どうして女だってことまで知っているの? まさか気を失っている間に!?

 慌てて視線を落とし自分の格好を見たけれど、乱れている様子はなく、防具すらつけっぱなしだった。


「安心しろ。気を失ってる女を襲う趣味はねえ」

「な、何、言って……。そもそも、私は女じゃありま――っ!?」


 一瞬、何が起きたのかわからなかった。視界が反転したと思ったら、男の顔がすぐ目の前にあった。

 月明かりが照らし出したのは、ザンギリ頭の切れ長の目をした男――


 私の背中や捕まれていたはずの腕は布団に押し当てられていて、顔のすぐ横には男が反対の手をついて私を見下ろしている。

 これってつまり……押し倒されている状態……?


「お望みなら、今すぐ確かめてやってもいい」


 不適に笑う男の目が、楽しげに細められた。恐怖よりも何だか無性に腹が立って、自由な方の手でためらうことなく頬を平手打ちしてやった。

 冗談じゃない! ふざけんなっ!


「フッ、アンタ、やっぱおもしれえな」

「……は?」


 固唾を飲んで見つめていた男の顔は、笑みさえ浮かべたかと思うと声を上げて笑いながら離れて行った。


 なん、なの……? 全くもってわからないけれど、逃げるなら今しかない!

 ご丁寧に布団の横に置いてあった私の脇差しを掴むと、飛び起きるようにして立ち上がり、そのままの勢いで襖を開け部屋の外へと飛び出した。

 ……つもりだった。

 運悪く部屋へ入って来た人と鉢合わせてしまったようで、その人の腕に抱き留められる形になっていた。


「大丈夫?」

「はい、あの、すみませんっ!」


 私をここへ連れてきた男の仲間かもしれないのに、あまりにも優しげなその声音につい謝っていた。

 それでもすぐに離れると、顔も見ず男性の横をすり抜けた。……はずが、後ろから腕を捕まれた。


「……春? どうして君がここに?」

「え……?」


 振り返り様に見上げれば、そこに立っていたのは去年の九月、芹沢さんの葬儀のあとにやっと名前を教えてくれた人……桂小五郎だった。


 何で桂さんがここに?

 京を離れると言っていたのに、また戻って来たの?

 ますます状況が理解できずに混乱していれば、桂さんは無言で私を部屋へと押し戻し、後ろ手で襖を閉めた。

 そして、胡座の上で頬杖をつき、笑みさえ携える男を静かに問い詰めた。


晋作しんさく、説明して。どうして春がここにいる?」


 その物言いは落ちついているけれど、声音はいつもより随分と低い。


「俺が連れて来たからに決まってんだろ」


 気絶させて無理やりね! 全く悪びれもせず、どこか得意気にも見えるその笑顔に腹が立つ!

 隣に立つ桂さんが、一つため息をついて私を見下ろした。


「本当?」

「気がついたら、この部屋で寝かされてました」


 一組の少しだけ乱れた布団に視線を移した桂さんが、突然、血相を変えて男に飛びかかり衿を掴んだ。


「晋作! 春に何かしたのかっ!?」

「何かって何だよ?」

「っ! 晋作っ!!」


 桂さんが右手を振り上げたのが見えて、慌てて声を上げた。


「待ってくださいっ! あのっ、そのっ、何もなかったですからっ!」


 桂さんが拳を振り上げたまま男を問いただせば、男はニヤリと口の端をつり上げた。


「ちょっと押し倒しただけだ。むしろ、何かあったのは俺の方だ」


 男は何が楽しいのか、笑いながら紅葉のように赤く染まっているであろう横顔を桂さんに向けた。

 男を庇うような発言をした私もどうかと思うけれど、わざわざ桂さんを煽るようなこの男も、何だか普通じゃない……そう思った。

 状況を整理させて欲しいと言う桂さんに、私の身の保証と、話が終わり次第解放することを条件に、もう少しだけこの場に滞在することになったのだった。




 行灯に火が灯され、部屋に満ちた淡い光が男を照らし出す。

 私を連れてきたこの男は、長州藩士の高杉晋作たかすぎ しんさくといい、今は脱藩中の身らしい。長州へ戻るよう、桂さんが説得に当たっている最中なのだとか。


 高杉晋作……。

 聞いたことはあるけれど、何をした人と訊かれると上手く答えられそうにない。たぶん、幕末の志士。

 こんな状況になった経緯を聞いた桂さんが、呆れたように大きなため息をこぼした。


「晋作、君はいつもやることが大胆過ぎる。今は追われている身だということを理解してるのか?」

「しょうがねえだろ。コイツの方から目の前に現れたんだぞ。あの状況をみすみす逃すなんてありえねえだろ」

「春の話だと、倒れた晋作を介抱しようとしただけみたいだけど?」

「あー、あれか。威勢よく上役に楯突いてて面白かったぞ。桂が気に入るのも無理ねえな」


 どうやら桂さんから私のことを聞いていたようだけれど、だからといって、どうして私はこの男……高杉晋作に無理やり連れてこられなければいけなかったのか。

 というかこれって、人拐いだよね? 犯罪だよね?

 桂さんも同じ疑問を持ったようで、再び高杉晋作を問い詰める。


「晋作、確かに僕は春を気に入ってる。すぐにでも長州へ連れて帰りたいくらいにね。でもね、こんな騙すような強引なやり方は好きじゃない。手を上げるなんて論外だ」

「桂、勘違いすんなよ? 俺はお前のためにコイツを連れて来たんじゃねえ。俺がコイツと話してえと思ったから連れて来た。それだけだ」


 それだけって……。さっきから黙って聞いていれば、好き勝手言ってくれるじゃない!

 思い立ったらすぐ行動にもほどがある!


「一ついいですか? 百歩譲って私と話がしたかったというのはわかりましたけど、だからってそんな理由で拐うとか、どう考えてもおかしいですから!」


 ごく当たり前のことを言ったつもりだけれど、高杉晋作はどこか面白がるように、その切れ長の目で私を捉えた。


「未来から来た女が男のふりをして新選組にいる……一時そんな噂が流れたんだよ。もちろんそんな馬鹿げた話、誰も相手にしなかったけどな」

「な、何の話ですか……急に……」

「俺は嘘でもそいつに会ってみてえと思った。だって面白そうじゃねえか。桂が興味を持ったと知って、ますます会いたくなった」

「へ、へぇ……」


 マズイ……。バレている……? それとも、噂の真偽を確かめようとしている?

 嫌な鼓動を刻み始める心臓を落ちつかせるように、握りしめた手を胸に当てていた。


「まるで、他人事みてえな返事だな。私のことじゃありませんってか?」

「そ、そりゃ、そんなバカげた話、私には関係ないですし……」

「アンタ、それで惚けてるつもりか? おもしれえな」


 何だか居たたまれなくなって、声を上げて笑う高杉晋作の目から逃れるように顔を背けた。


「安心しろ。噂の真偽を追及するつもりはねえよ。たとえ真実だったとしても、アンタに先のことを訊くつもりもねえ」


 ますますわからない……。今の長州の立場からしたら、先の情報を知りたいと思うのが普通だと思う。

 実際、桂さんはそれが目的で私に近づいているのだと思うから。

 同じ長州の人なのに、この人は違うのか?

 全く検討もつかないでいると、まるで私の疑問を読み取ったかのような楽しげな声がした。


「先のことなんて知っちまったら、人生面白くねえだろ?」

「面白くないって……」


 さっきから思っていたのだけれど、この人の判断基準は面白いか面白くないかの二択しかないのか!?

 そんなことに巻き込まれたのかと、沸き起こった苛立ちを隠すことなく高杉晋作を視界に捉えて皮肉った。


「変わった人ですね」

「よく言われる。最高の褒め言葉だな」

「はい? 別に、誉めてませんけどっ」


 皮肉の一つも通じないとか! まともに相手をしていたら、こっちが疲れてしまう。

 短いため息とともに落とした視線は、片膝を立てるように身を乗り出した目の前の男によって、私の顎ごといとも簡単に掬い上げられた。


「アンタ、ホントいい性格してるな。なかなか俺好みの女だ」

「なっ。冗談でもやめてくださ――」

「俺の女になれ、春」

「…………は?」


 突然、何を言い出すんだ?


「晋作!」


 思考が停止した私の隣で、今まで黙っていた桂さんが声を荒らげるけれど、目の前の男は全く動じない。


「呆けたその馬鹿面も面白いぞ」

「……は? バカは高杉さんの方じゃないですか?」

「否定はしねえ。怒った顔も面白いな」

「バ、バカにしてるんですか? 放してください! 高……バカ杉さんっ!」


 もう我慢の限界! こんなおかしな人、バカ杉晋作で十分!!

 一瞬大きく目を見開いたバカ杉晋作は、私を解放すると同時にお腹を抱えて笑い始めた。


「アハハ。アンタ、最高だな」 

「それはどーも! バカ杉さんに誉められても、全然嬉しくないですけどっ。もう、帰っていいですか?」


 窓の外は随分と暗くなっている。日中の巡察なんてとっくに終わっているし、武田さんにもあとを追いかけると言ったきりだ。

 副長助勤の命令に逆らったうえに、脱走扱いにまでされたらたまったもんじゃない。

 怒りと焦りがごちゃ混ぜになった私を煽るかのように、バカ杉晋作はどこまでも楽しげな笑顔を浮かべているし!


「今すぐじゃなくていい。新選組に飽きたら俺んとこへ来い」

「そんな日は来ません!」

「人生何があるかわかんねえだろ?」

「それでも、バカ杉さんのところだけは行きませんよ!」


 あっかんべーまでお見舞いしてやれば、部屋中にバカ杉晋作の笑い声が響き渡るのだった。

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