第7話 「…シェリー…さん?」
〇森崎さくら
「…シェリー…さん?」
空港で声をかけられた。
振り返ると…
「あ。」
「ああ、やっぱり。」
スプリングコーポレーションの人だ。
誕生日にはポストカードをくれて。
プレシズでは、ネクタイピンを貸してくれた。
おまけに、出張のたびに…カプリに来てくれてた。
…名前は、知らない…
「どこかに旅行ですか?」
「あー…えーと…ちょっと日本に…」
「え?そうなんですか?」
「でも…迷っちゃってて…」
…本当は…一人ででも、リトルベニスに行ってみたいと思った。
だけど…そんなの…
あたし、こんな裏切り方して…許されないよね…
「もうチケットは買われましたか?」
「え?」
「どこか、旅立つためのチケットです。」
「あ…いいえ…」
「私も今から買うので、良かったら日本までご一緒させてもらえませんか?」
「……え?」
「あなたのファンなので。是非ご一緒したい。」
「……」
その人は、とても丁寧で柔らかい物腰なんだけど…
どこか少し強引でもあった。
でも、渡りに船なのかもしれない。
「…じゃあ…日本まで…」
お金を払うと言ったけど、その人は頑として受け取らなかった。
幸い、チケットはすぐに買えて…席は隣じゃなかったけど、あたしはその方が良かったから…安心した。
その人は、
CM会社で働いてて、日本とアメリカを行き来してると言った。
便を待つ間…色んな話を聞いた。
…いい人だと思った。
だけど、今は…全然話が心に残らない。
あたしの事も、さりげなく聞かれたけど…
答えられるような事がなくて…ちょっと困った。
…なっちゃん…もう、気付いてるよね…
あたしがいなくて…トランクもない事…
搭乗時間が来て、あたしは桐生院さんと機内に乗り込む。
あたしの席は、女性の隣で窓際だった。
桐生院さんは、その女性と通路を挟んだ場所。
桐生院さんは、あたしのトランクを収納棚に入れてくれると、自分の席に座って雑誌を開いた。
席に座って、窓の外を眺める。
…日本って…何年ぶりだろ…
ヒロ…どうしてるかな…
頭も…元気かな…
二階堂から逃げたクセに…こんな事になって、都合良く思い出すなんて。
さくら。
「……」
なっちゃんの声が聞こえた気がして、あたしは周りを見渡す。
…バカね。
そんなわけないじゃない…
「……」
右手の薬指に触れる。
今朝、あたしは指輪を外した。
そして…それを置いて行こうとして…できなかった。
小さなポーチに入れて、ポケットに入れた。
…これから、あたしが強く生きていくための…お守りにしたいと思ったから。
…強く…生きていくため…
……なっちゃんがいなくても…あたし、生きていける…?
毎晩、あたしを抱きしめて眠ってくれてた。
あたし…一人で眠れるの?
ただいまって、頭にキスしてくれて…
「…っ…」
ダメだ。
あたし…
「あたし…」
バカだ。
何してんの。
早く、早くここから…
勢いよく立ち上がると、スチュワーデスさんが近付いてきて。
「お客様、何か…?」
笑顔で言った。
「あたし…あの…」
「シェリー?」
桐生院さんが、あたしに声をかける。
「トランク、足元に置く?」
「…あたし、やっぱり…」
「……」
すると。
桐生院さんは勢いよく立ち上がって、スチュワーデスさんに早口で何かを言って…
「さ、早く。」
トランクを取り出すと、あたしの手を取って機内から出た。
「あの…」
空港を出た所で、あたしはやっと言葉を出せた。
「あの、本当に…こんなの…すいませんっ…」
桐生院さんは、息を切らしながら…
「はあ…シェリー。」
少し息を整えて。
「…私は、あなたに一目惚れしました。」
あたしを見つめて…そう言った。
「…え?」
「誕生日だ、って…カプリで歌ってたあなたを見て…あの時からずっと…あなたの事が好きです。」
「……」
桐生院さんは、握ってたあたしの右手を持ち上げて。
「…プレシズでも、カプリでも…ここに指輪があった事を知ってます。でも、今日はそれがない。」
親指で、あたしの薬指を触った。
「……」
「今から、彼の所に帰るなら…まだ間に合うかもしれません。でも、覚えてて下さい。」
「……」
「もし、彼の所へ帰れなかったら…」
桐生院さんは、あたしのトランクを置いて、両手であたしの手を包むと。
「私がいる事を、覚えてて下さい。」
あたしを見つめて言った。
「…桐生院さん…」
「…シェリー…いえ、森崎さくらさん。」
「…はい…」
「私は今夜、そこのホテルのロビーであなたを待ちます。」
「……」
「日付が変わるまで待って、あなたが来なければ…諦めます。」
…桐生院さんの目は、本気だった。
あたし…
飛行機を降りて…
どうするつもりだったの?
なっちゃんの元へ…帰るつもり?
「…分かりました…」
あたしは小さくつぶやいて、桐生院さんにお辞儀した。
…トレーラーハウスへ…
戻る?
戻らない…?
〇藤堂周子
ジェフに言われて、あたしは事務所に顔を出した。
夏希と、ちゃんと話をして…あの子にも謝りに行こうと思った。
ジェフは、うちで瞳を見ててくれてる。
あたしは車に…小さなブーケを用意した。
夏希と話ができたら…それを彼女に渡しに行こう…
だけど、事務所に夏希の姿がない。
来た時に、出掛けようとしてるマノンは見かけた。
ミツグとエディも見かけたけど…
夏希は現れなくて。
あたしはしばらく向かいのカフェで時間を潰した。
「何の騒ぎ?」
もう一度事務所に戻ると…何だか騒がしい。
バタついてるスタッフに問いかけると。
「あ…いえ、ちょっと…」
言葉を濁された。
「……」
何かあったのかしら…
もう一度、Deep Redがよく使っている会議室に向かってると…
ナオトが誰かと電話してる。
「…国に帰る?」
国に帰る…?
…誰の事かしら…
「うわっ…あ…ビックリした…」
ナオトに近付いたのと、ナオトが振り返ったのが同時で。
思いがけず、大きく驚かれてしまった。
「…何かトラブルでもあったの?」
「え?」
「夏希に用があるんだけど、見当たらないし…」
「あー…」
ナオトは気まずそうに…頭をポリポリとかいた。
「ナッキーは、オフなんだ。」
「あら…明日からって聞いてたけど。」
「聞いてた?」
「ええ。旅行でしょ?」
「……」
…何なんだろう。
この…ナオトの妙な沈黙…
そこへ…
「あっ、ナオト!!さくらちゃん、見つかっ……あ。」
ナオトの向こうから走って来たエディが、何か言った。
…見付かった…?
え?
いなくなった…って事?
「…見付かった…?さくらちゃんって、夏希と暮らしてるあの子?どうしたの?」
あたしは静かな声でナオトに問いかける。
「…いや…」
「何なの。」
「……」
エディとナオトは、顔を見合わせて…溜息をついた。
「…いなくなって…」
「…え…」
「ナッキーは…もう…見てられないような状態だよ…」
「……」
いなくなった…
あの子が…
夏希が…見てられないような状態…
「…まさか…」
あたしのせい…?
あたしが昨日、あんな事言ったから…?
あの子…責任感じて…?
「…何か知ってる?」
ふいにナオトが低い声で言った。
あたしは逸る鼓動を抑えて。
「あたしが…なぜあの子の事を知ってるって言うの…」
そう、小さな声で答えた。
急いで事務所を出た。
どうして…どうして!?
あたしは一度家に帰ると、ジェフに今の状況を話して…一緒にトレーラーハウスに向かった。
「…マノンの車があるな。」
公園で車を停めて、トレーラーハウスが並ぶ位置を見ながら、ジェフが言った。
「俺は車で待ってるから、行っておいで。」
「でも…」
「今…彼を励ます事ができるのは、スーしかいないよ。」
「……」
あたしは車を降りて…だけど、もう一度車に戻ると。
「瞳も…連れて行くわ。」
瞳を抱えた。
トレーラーハウスに近付くと…
「…周子さん…」
マノンが外に立っていて、あたしと瞳を見て近寄って来た。
「…夏希、どうなの?」
「……」
「会わせて。」
「……」
マノンは無言だったけど、トレーラーのドアを開けてくれた。
「…夏希…」
夏希は…寝室で、天井に向かって仰向けになっていた。
…生きてる…?
「…瞳、パパの所に行っておいで。」
小声で瞳にそう言うと…瞳はあたしを何度か振り返りながら…夏希の元へ行った。
あたしはその様子を…リビングのソファーから眺めた。
瞳がベッドに飛び乗ると。
「っ……」
夏希は驚いて飛び起きた。
「さく…!!」
そんな夏希に驚いた瞳が泣き始めて。
「あっ…あ…悪い……瞳…」
火が付いたように泣く瞳を、優しく…抱き寄せた。
「……」
瞳の泣き声に気付いたマノンが入って来て。
瞳をあやす夏希を見て…あたしの隣に座った。
「…今は、瞳ちゃんがええ薬やな…」
「…そうね…」
「なんで…やろな…」
「…おめでとうって…言いに来たのに…」
「……」
あたしの言葉に、マノンは少し怪訝そうな顔をした。
…信じられなくて当然かもしれない。
だけど…その言葉は…
本当だった。
悲しいけど…
あたしは、心から…
あの子に負けた事を…ようやく認められていたのに…。
〇森崎さくら
「……」
あたし…なんだって…こんな事してるんだろ。
空港で、桐生院さんに会った。
そして…日本行きの飛行機に乗った。
…だけど…降りた。
あたし、何してるの、って。
気付いたから…。
桐生院さんに…一目惚れしたんだ、って告白されて。
今夜、ホテルのロビーで待ってる、って言われた。
そんなの言われても、あたしは…
って困ったけど。
桐生院さんは、とにかく待ってる、って。
バスに乗って、トレーラーハウスに…戻った。
だけど…
その中で…
なっちゃんと、瞳ちゃんと…周子さんが…抱き合ってるのを…
木の陰から…見てる。
…ほら…ね。
あたし、邪魔者だったんだよ…
なっちゃん、あたしがいなくなった途端に…パパの顔になってる…
周子さん…
泣いてる…
うれし涙?
あたしがいなくなったから…?
「……」
自分の爪先を見つめた。
あたし、バカだ。
幸せになるのが怖くて…自分から飛び出したクセに。
こうやって、のこのこと帰って来て…
現実を見せ付けられてる。
「…っ……ふっ……うっ…」
ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
悲しくて、悔しくて。
自分の頭の悪さに嫌気がさした。
どうしてあたし…逃げ出したんだっけ…
ねえ…さくら。
どうして、今日…もう一日、カプリで歌って…明日、なっちゃんとリトルベニスに行こうとしなかったの…?
何が…そんなに怖かったの…?
顔を上げると、そこに見えるのは…瞳ちゃんを抱きかかえたなっちゃん…
優しい目で…瞳ちゃんを見つめて…
頬を撫でて…キスをした…
…なっちゃん…
あたし…
あたし…
「……っ…」
あたしは駆け出した。
もう、無理だ。
無理だ。
戻れない。
バスに乗って、空港に戻った。
日本に帰ろう。
行く当てなんてないけど…
日本に帰って…
なっちゃんを忘れて…
「さくらちゃん。」
泣き腫らした顔で歩いてると、桐生院さんに腕を取られた。
「…靴、片方どうしたの?」
「……」
言われて足元を見ると…左の靴がなかった。
…そんなことさえ、気付かなかったなんて…
「…明日のチケット、取っていいかな。」
あたしの手を持って、桐生院さんが言った。
「……」
あたしは尖った唇のまま…頷く。
今は…
自分がどうなっても構わない…
なっちゃんのいないあたしなんて…
どうなってもいいんだ。
桐生院さんは、あたしに靴を買ってくれた。
それから…ホテルに部屋も取ってくれた。
一目惚れしたって言われたから、てっきり同じ部屋に連れて行かれるのかと思ったけど…
「何かあったら、呼んで。すぐに行くから。」
…違う部屋だった。
「……」
すごく、きれいな部屋で。
あたしはベッドに横になったけど…
「……」
広すぎて、無理だった。
眠れない。
毛布を引っ張って、ソファーで丸くなる。
もう…このまま…
死んでしまいたい…。
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