第7話
疲れて重たい足を引きずるように歩き、家の玄関ドアを開けると、父がリビングのドアを開けて、廊下に出てきた。
「あれ?糸…。今帰ってきたのか?部屋にいるのだろうと思っていたんだが。いつもこんなに遅いのか?」
父が鷲鼻をさすり思案する。
「育て方を間違えたかなぁ」
父は少し顔が赤く、めずらしく酒を飲んでいるようだった。
「糸、ちょっとリビングに来なさい。話がある」
何だろう、と私は思う。
疲れているし、今すぐにでもベッドに倒れこんで眠りたい。
陽ちゃんが居なくなった、と話をするべきだろうか。
だけど、父は陽ちゃんに会ったことも無い。
話?話って?普段ほったらかしのクセに、こんな時だけ、何?
疲れてよく回らない頭で考えても、何も答えは出ない。
仕方なく、父の後についてリビングに入る。
父親の威厳を見せたいのか、胸を張って腕組みして椅子に座る。
仕方なく、私はその前に座る。
「糸、なんか、悩み事は無いのか?」
私はガックリする。
話って、それ?帰りが遅かったので、プチ家出でもしたかと思っているのだろうか。
「父さん、悪いけど、疲れているから」
「いいから、いいから」
父はやけに作ったような笑顔で言う。
「今日は父さん、お前と飲みたい気分なんだ」
ハァ。私は思わず溜め息をつく。
父には、こういう気分屋なところがある。
他人の気持ちを察するのも下手だ。
そして、今断ったらもう二度と、誘ってこようとしないだろう。
自分の父親であることを、お世話になっている人であることを度外視して、言いたいことを素直に言わせて貰えるなら、一言で言うと面倒臭い性格だ。
「お前は、ジュースにちょっとだけ入れればいいだろう」
止める間も無く、コップにオレンジジュースを注ぎ、酒の瓶を取ってジョボボと入れる。
それを私は、血の気の引く思いで見つめる。
学校で、若い頃から酒を飲むと脳が萎縮するだの、煙草を吸うと肺が真っ黒になるだの、授業を受けている。
いい加減、私の性格も面倒臭いのかもしれない。
だけど、そうだとしたらそれは父に似たのだし、近しい人であるからこそ、自分の望まぬことは受け入れ難かった。
私は気付けば、自分でも驚くほどの大きな音を立てて、両手で机を叩いていた。
父が、何事が起きたのか分からないといった表情で私を見る。
心なしか、父の目が赤く充血し、泣きそうにも見える。
ズルいよ…。泣きそうなのは、こっちだ。
もう終わりだ、と思った。二度と親しげに話しかけてきてくれることは無いかもしれない。
だけど、言うしか無かった。
「悪いけど、疲れてるから」
私は後ろも見ずに、リビングを出た。
自室のベッドに倒れこみ、疲れた体で夢かうつつかも分からない世界をさ迷っていた頃、カサカサという音に悩まされ私は目を覚ます。
「なんだ…?」
音は、部屋の外から聞こえてくる。
静かに部屋を出て、暗い階段を降りる。
一階にある父の寝室からは、酒をかっくらって寝たのだろう、大きなイビキが聞こえてくる。
シロはどこにいるのだろう?
「シロ?」
小さな声で呼ぶと、玄関からニャーと頼りなげな声が響いた。
見ると、玄関ドアの下にシロがうずくまり、カリカリと爪でドアを引っかいている。
「もー、お前か。どうした?」
近づこうとした、私の足が止まる。
ドアの曇りガラスの向こうに、闇より黒い人影が立っていた。
「ヒッ」
声も出ず、私は尻餅をつく。
家にだけは…。家にだけは来ないで欲しい…。家だけは、安全な場所であって欲しいのに…。
以前部屋に出たきり、二度と現れなかったので、油断していた。
黒い人影から、真っ白い手が伸びて、バン!と曇りガラスを叩く。
その行動に、私は少し違和感を覚えた。
あの黒い人なら、ドアなんかすり抜けて入って来そうなものだ。
それに、何故手だけ白いのだろう。
なにより、その手は細く美しかった。
「た…、助けて…」
その聞き覚えのある声に、私は玄関に駆け寄りドアを開ける。
すると、ボロボロになったブレザー姿の陽ちゃんが倒れこんできた。
「陽ちゃん、何があったの?!探してたんだよ!」
駆け寄り、抱き起こす。
見たところ、体に傷はなさそうだが息が荒く苦しそうだ。
「救急車呼ぶね」
廊下にある電話に手を伸ばした時、陽ちゃんが私の腕を掴んだ。
「ダメ。もう、手遅れ…」
その言葉に、私は虚をつかれたようになる。もう、手遅れ、とは…?
陽ちゃんの様子をもう一度見るが、致命的な重症を負っているようではない。
「一体…」
「私を、誰にも見られないところに連れていって欲しい…」
父の部屋から聞こえてきていたイビキの音が、少し小さくなったのが気になった。
「分かった。二階の私の部屋がいいと思う…。階段、登れる?」
陽ちゃんが微かに頷く。
「よし、じゃあ、肩につかまって」
陽ちゃんの右腕を私の肩にまわし、支えながら階段を登り自室に入る。
ベッドに腰かけさせると、疲れたように横になった。
窓からの月明かりに、陽ちゃんの額の汗が光る。
「タオル濡らして、持ってくる」
そう言って立とうとした私の手を、陽ちゃんが握る。
「お願い。一人にしないで。今、一人ぼっちにされたら、私は…」
目をつむり、呼吸を整えようとする。
言葉の続きを待ったが、喋れる状態では無いようだった。
どんどん、呼吸が荒く、不規則になっていく。
「背中を支えて欲しい…」
私は掛け布団を丸めて、陽ちゃんをそこにもたれかけさせる。
「ウウ…。苦しい…!」
陽ちゃんがお腹に手を当て、もぞもぞと足を動かし始める。
「一体、どうしたの?どこが苦しいの?やっぱり、救急車を…」
「ウウーッ!!」
首をそらし、聞いたこともない、断末魔のような叫び声を上げる。
口を大きく開けたまま、目を見開く。
どうしたらいいの?為すすべも無く、オロオロするだけの自分が情けなくなる。
その時、薄い月明かりの中、陽ちゃんの口から、小さな黒い煙がこぼれ出たように見えた。
それを境に、陽ちゃんの様子が落ち着いていくようだった。
息の荒らさも無くなり、静かに目をつむる。
スースーと寝息が聞こえ始める。
寝返りをうった時、陽ちゃんの口から出てきた黒い固まりが、白いシーツの上で蠢いていた。
そいつは、うねうねクネクネと動きながらベッドの上を移動している。
そして、寝ている陽ちゃんの背中に寄り添うようにくっついて動きを止めた。
「それ、もしかして、アナタが産んだの…?」
陽ちゃんが寝ていると分かっていても、私は聞かずにはいられなかった。
翌日、陽ちゃんの容態は少しずつ回復し、私が台所から運んだトースト一枚をようやく平らげた。
父は仕事に行っているので、気兼ねなく話が出来る。
「一体、あれから何日経ったの…?」
昼の明るい陽光がカーテンの隙間から漏れ、ベッドの上で身を起こした陽ちゃんの背後を照らし、まるで後光が差しているように見える。
「何日って…陽ちゃんがいなくなってから、一日程度だけど…?」
「もう何日も何日も、隔離されていた…。暗く、何も見えない場所で」
陽ちゃんが溜め息をつき、首を振る。
「日曜日、吐き気があったので糸ちゃんの誘いを断ったんだけど、しばらくしたら治まって。気分が良くなったから、自転車で出掛けたの」
「ブレザー着て?」
ベッドの横に畳んで置いてあるボロボロの制服。今陽ちゃんには私のパジャマを着てもらっていた。
「うん…」
陽ちゃんが少し気恥ずかしそうに俯く。
「うち、お金が無いから、あまり服を買ってもらえなくて…。私服が全部色あせてくたびれているから」
「言ってくれれば、私の服貸してあげたのに。といっても、私のワードローブはパーカーとズボンぐらいだけど」
「フフ…」
陽ちゃんが、嬉しいような、悲しいような表情で小さく笑う。
まあ、年頃の女の子がパーカーとジーンズなんてコーディネートはあまり着たくないだろうし。
友達だからこそ、着られる服が無いなんて、言えなかったのかもしれない。
「パンケーキが食べたくて、またあの喫茶店に行こうと思って自転車こいでたの。坂道がきつくなって、自転車をおして歩いて、木の生い茂る暗い道にさしかかった時に…」
陽ちゃんが膝の上に掛けられた布団をギュッと握りしめた。
「突然、目の前が真っ暗になって、驚いて立ち止まったの。後ろを見ても、横を向いても真っ暗で、まるで黒い布で頭から全身をスッポリと覆われてしまったようだった」
その時の恐怖を思い出したのか、深い溜め息をつく。
「何?何なの、これは?誰かのイタズラか何かで、布をかぶせられてしまったのかもしれない。そう思った私は、暗闇に両手を伸ばして探ってみたんだけど、何も手応えが無かった。その時、気付いたの、私は自転車をおしてたはずなのに。気付かずに、手を離して倒してしまったのかもしれない。だけど、しゃがんで辺りをいくら探っても、見つからなかった。それに、自転車どころか、地面の感触もなかったの。私は今、一体どこに立っているの?そう思うと怖くて、一歩も動けなくなった」
疲れたのか、陽ちゃんがしばし目をつむる。陽ちゃんが感じた恐怖は、どれ程のものだったのだろう。想像するだけで胸が締め付けられそうに苦しくなる。
「一体どれぐらいの時間、そこでうずくまっていたのか、分からない。一日も二日も経ったようにも感じたし、もしかしたら一分程度のことだったのかもしれない。ふと、背後に人の気配を感じて私は恐怖にかられて走り出した。だけど、足が地面を蹴ってる感覚が全然無くて。夢の中でもがき苦しんでいるようだった。どれだけ足を動かしても後ろの気配は消えないし、力尽きて体を抱くようにしてうずくまった。しばらくして背後の気配が消えたので振り向くと、そこにお盆に乗せられたスープが置かれてあったの。温かそうな湯気が上がっていて、具だくさんで特にレタスがいっぱい入っていた。無性にお腹が空いてきて、私はそれを何の疑いも無く食べたわ。とっても美味しかった」
陽ちゃんがベッド脇のカーテンを少し引いて、外の景色を眺める。
「その後は疲れて寝て、また気が付いたら、お盆に乗せられた御飯が置かれていて、その繰り返し。何日経ったか分からなくなった頃、暗闇に去っていく糸ちゃんの姿が見えた気がしたの。追いかけたんだけど、見失って。そしたら、どこからどもなく、着物を着た少女たちが現れて、私の手を引いてくれたの。そして、気付いたら、糸ちゃんの家の扉の前に立っていたわ」
煙のようなアメーバ状の黒い物体は枕の横に転がっていたが、もぞもぞと動きだすと陽ちゃんの膝の上に乗った。
「それ、どうするの?」
「分からない。気味悪いけど、同時にいとおしくもある」
その小さな黒い生き物に皿に残ったパンのカスを与えてみると、口を大きく開けてムシャムシャと食べた。
「だいぶ体調も良くなったし、うちに帰らなきゃ」
「あ…、それなんだけど…」
私が昨日あったことを話すと、陽ちゃんが顔をしかめた。
「お母さんが知らない男と…?そんなところに帰りたくない。かと言って、十年も会ってない父のところに今さら行くのも…」
「ここに居ればいいよ。もう少し、落ち着くまで。父さんはどうせ、ほとんど家にいないしね」
翌日、学校で久竹に陽ちゃんのことを話すと、心配だから様子が見たいと言うので連れ立って一緒に帰る。陽ちゃんはだいぶ体力が戻ってきたのか玄関まで出迎えに来てくれた。
「おう、陽。心配したぞ」
リビングのソファに腰かけながら、久竹が話しかける。
「今後は、遠出する時はオレを呼びなよ。用心棒として、くっついて行ってやっからよ」
「アンタがくっついて行くほうが、逆に危ないっつーの」
久竹と私のやりとりに、陽ちゃんが「フフ」と少し笑う。
だが、すぐに暗い、寂しげな顔つきで下を向いてしまう。
酷い目にあったうえに、帰る場所までなくなってしまったのだ。ここで絶望を感じなければ、いつ感じるというのだろう。
「外に出たいな…」
陽ちゃんが小さく呟く。
「お、おう!そだな、家にこもってばかりじゃ、余計に気が滅入るだろう。お供してやるぜ!」
「私も!」
陽ちゃんには私の私服に着替えてもらい、三人で外へ出る。久竹は体格がよく、私の服が入らないので制服のままだ。
天気が良く気持ちのいい青空が広がり、散歩にはもってこいの日だ。
陽ちゃんの足は自然と、空気のおいしい郊外へと向かい、気付くと喫茶店へ続く道を歩いていた。
「大丈夫?この道…」
そう言いながら陽ちゃんを見ると、心なしか青ざめて見える。
「きっと、大丈夫。それに、この道を克服しなければ、私はきっと一生、びくびくしながら外を歩かなければいけなくなる」
大丈夫だろうか。まだ早すぎて、トラウマがぶり返して来ないだろうか。
陽ちゃんが、久竹と私の手を握る。三人で並んで歩く。
なにごとも無く木の生い茂る箇所を抜け、ひらけた草原に足を踏み入れた時、三人はそれぞれ大きく安堵の息をはいた。
「ありがとう。これで、私の忌まわしい記憶は、楽しく温かい記憶に塗り替えられた」
「こんなことでいいんなら、いつでも手伝ってやるぜ!」
私一人がお供についてきただけじゃ、怖じ気づいて二人で引き返していたかもしれない。久竹の存在を改めて頼もしく思う。
「喉が渇いたから、あそこの喫茶店で何か飲もうぜ」
カランカラン。
軽快にベルを鳴らして喫茶店に入ると、奥のテーブルに策出さんが座って、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいるのが見えた。
オーナーは、裏か二階にいるのか、姿が見えない。
「ちょうど良かった、久竹、策出さんを紹介するよ。あの人も、赤い雨に遭遇したんだ」
「まじか」
「策出さん、こんにちは」
「やあ。今日は新顔がいるね」
「久竹も赤い雨に遭遇して、お父さんが連れ去られてしまったんです」
「そうか…。気の毒に」
策出さんのテーブルに座らせてもらい、二人がお互いの体験を話し合っていると、キィー…、キィーと奇妙な音が聞こえてきた。まるで、遠く誰も届かない場所で、誰かが泣き叫んでいるような。
やがて、マスターが二階から階段を降りてくるのが見えた。
暗がりにいるマスターは、影がかかってぼんやりと黒いシルエットに見える。
なんだ、階段がきしむ音か…。それにしても、不気味な音だ。
「ウッ、ウワッ」
突然、私の隣りに座っていた久竹が叫び、派手に椅子を倒して立ち上がる。
「ア、アイツはあの時の…。黒いヤツじゃあねえかぁー!!」
久竹が階段を降りてきたマスターに突進し、二人はもつれ合って倒れる。
「おい!化けの皮はがせよ!あの時みたいに透き通ってみろよ!」
久竹がマスターの顔を引っ張ったり、服を引きちぎろうとする。
「ま、待て待て!久竹君!何やってるんだ!」
「久竹!」
策出さんと私で久竹をマスターから引き離す。
その時、いつの間に入店していたのか、主婦たちがドア付近に固まって口々に騒ぎ出した。
「やだぁ」
「不良よ、不良」
「私、あの制服の中学校、知っているわ」
久竹が着ている制服を見て、主婦たちが口々に騒ぎ出す。
「クソッ」
久竹が吐き捨てると、主婦たちを押しのけ外へ出て行く。
「待って」
私が久竹を追って外へ出ると、草原の中程でようやく久竹は立ち止まった。
「お前は、見なかったのか?」
後ろも振り向かずに、久竹が聞いてくる。
「何を?」
「アイツが階段の奥に姿を現した時、あの時見た黒い人影そのものだった」
「私もマスターがそういうふうに見えたことはあるけど、でもそれは店内が暗いからで…」
「オレは…。オレは自分が確かに見たものを、見なかったことになんか、できない。見なかったことにして、自分の身を守ろうとする、弱い女子供とは、オレは違うんだ」
「そんな言い方しないでよ…」
「今夜だ。暗くなったらすぐ、オレはあそこに侵入する。こんなとこにポツンと建ってんだ。あのログハウスは、アイツの家かなんかだろう。止めても無駄だぜ。オレは一人でもやる」
そういうと、振り返ることもなく、久竹は行ってしまった。
家に帰ってきた後、陽ちゃんは心配顔で聞いてきた。
「糸ちゃん、どうする?」
「うん。久竹を止めるにしろ、一緒に突入するにしろ、とにかく暗くなる頃行ってみようと思う」
「私も行く」
「陽ちゃんは家で休んでたほうがいいよ」
陽ちゃんは必死で首を振る。
「夜、一人でいるのは嫌なの。それに皆と、この子と一緒だったら、大丈夫な気がする」
そういうと、ベッドの上で鼻ちょうちんを作って寝ていた得体の知れない小さな物体をすくって肩に乗せた。
「そうか。じゃあ、危険な目にあった時のために、何か武器が必要だね」
私は深く考えることも無く、部屋の隅に置いてあったものを手にとり肩かけ鞄に入れた。
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