第5話

「やあ、待ったかい?」


翌日の昼、駅での待ち合わせに現れた策出さんは、堅苦しいスーツ姿とはうってかわってラフな格好で、ポロシャツとジーンズが焼けた肌によく似あっていた。


五月なのに、早くもクーラーのきかせてある電車に乗り込み並んで座る。


「ここから、二十分くらいかな。街の周囲に広がる農業地帯で待ち合わせしてある。ところで、こないだ一緒だった女の子もくっついて来るのかと思ったが?」


「昨夜電話してみたんですが、体調が悪いから、って断られちゃったんです。体育祭で頑張ってたし、また赤い雨に遭遇したせいもあるかもしれない」


「そっか…」


がっかりしているように見えるのは、気のせいか。


「女の子は、弱いからね…。休ませてあげたほうがいいよ」


私も女の子なんだけどなあ心は、とは、まだ出会って間もない策出さんには言えない。


目的の小さな駅に着くと、辺りは一面に畑が広がるのどかな風景が広がっていた。


畑の間の砂利道を、石ころを蹴りながら歩いて行くと、白い軽トラックが停まっているのが目についた。


一人のジイサンがその軽トラックに寄りかかりながら、煙草をしきりにふかしている。


その周りを、茶色い柴犬が無邪気に蝶々を追いかけ走り回っている。


「あの…、赤い雨に遭遇した方ですか?」


策出さんの呼び掛けに、ジイサンはポイと煙草を投げ捨て、足で踏みつけた。


「おう。待っとったよ。アンタが策出さんかい?まあ、座りなよ。おい、レタ、こっち来」


言うなり土手の草っぱらの上に、ドッカリと座る。


レタ、と呼ばれた犬も、その側にチンマリと座る。


ベージュの作業服に包まれた痩せたジイサンの体は、細いものの強靭そのもので、体脂肪率は0パーセントに近いのではないかと思われた。


策出さんと私も、土手の柔らかい草の上に座る。


「あんな気持ちの悪い雨に降られちゃあよ…」


ジイサンが首にかけている手拭いで額の汗を拭き、渋い顔で話を切り出す。


「やっと長年夢見てきた春レタスが完成して、これで心置きなく来年には隠居できる、って思ってたんだあよ」


「春レタス?」


策出さんが顔を上げ、太陽がまぶしかったのか目を細める。


「んだ。春キャベツならぬ、春レタス。春に柔らかくて美味しいレタスが食べられたらよぉって、開発に開発を重ねて、ようやく今年商品になりそうないいものが育ったって時に…」


ジイサンの目に涙が光り、それを手拭いでゴシゴシとこする。


その様子を見ていたレタが、悲しげにクゥンと鳴く。


「こいつの名前も、新しいレタスの完成を願ってレタと名付けたんじゃ…」


ジイサンがワシワシとレタの頭を撫でる。


「そんな大事な時に、赤い雨が、ですか…」


策出さんが、苦々しげに呟く。


「もしかしたら、オラが天上様に雨を降らしてくれるように頼み過ぎて、お怒りなさったのかもしれねぇなあ」


空を仰ぎ、鼻をすする。


「その、アマガミ様ってのは?」


「ああ、あっこに小っさい山があるだろ?あの麓に祀られてんだよ。今から行ってみっか?」


山を見ようと顔を上げた私の目に、遠くの農道を歩く人影が映る。


今日は五月にしては暑く、よく日が照っているせいで蜃気楼でも浮かんでいるのか、妙にその人影はゆらゆらと揺れているように見える。


その人はこちらに近づいて来ている。


やがてその人は、白いシャツに茶色いベスト、黒いズボンを履いているのが見えた。


「あれは、マスターでは?」


「やあ」


にこやかな笑顔でこちらに手を上げたその人は、あの喫茶店のマスターだった。


「おんやあ。アンタら知り合いかい?」


ジイサンが驚いた顔をする。


「あのお方は、オラの救世主だんよ。なんと、この売り物にならなくなった春レタスを、全部買い取りたいと申し出てくだすったんだ」


マスターが来るなり、駆け寄って大げさに握手をする。


大きく口を開けて嬉しそうに笑うジイサンの姿に、素直な人なんだなー、と気持ちがホッコリする。


「ところで何か、アマガミ様がどうとかおっしゃっていたようですが?」


「あの距離で聞こえましたか?」


策出さんが驚いて尋ねる。


「地獄耳なもので。是非ワタクシもご一緒したいものです」


皆で連れ立って山の麓へ行くと、山道の入り口の草むらの中に小さな祠があった。


風雨にさらされて、表面がガサガサになった木の祠は扉がありキッチリと閉まっていた。


「この扉の中は、誰も見たことがねんだ」


祠の前には、花が供えてある。その横には、ガラス細工の小さな手鞠がいくつか置かれてあった。


「この花は、ここら一帯の人で交代で供えてんだ。その昔は、若い女の子を生け贄に捧げたと伝わっておる」


「ほお。扉の中を誰も見たことが無いとは。そうなると、逆に見たくなるもんですな」


「マスター、ダメですよ」


マスターが冗談を言ってると思ったのか、策出さんが笑顔で制する。


だが、私には、マスターが結構本気で言っているように聞こえた。


確かに…気になる。


扉の奥には、一体何が?


何となく扉を眺めていると、ギギギと耳障りな音がが聞こえてきた。


何の音だ?


辺りを見渡すが特に何も変わりない。


再び扉に目をやった時、少しずつ少しずつ扉が動き、隙間が見えた。


隙間の奥は真っ暗で何も見えない。


「策出さん…。扉が…。扉が、開いてますよ!」


「えー?糸君、どこ見てるの?扉は、ちゃんと閉まってるじゃない」


「んだ。この扉は、誰が開けようとしても、決して開かねんだ。それに、中身を見てしまったら、その人には祟りがあると言われておる」


ギ、ギ、ギと不快な軋む音が私の耳の中で響き、少しずつ扉の隙間が広がっていく。


その隙間の奥の真っ暗闇から、不穏な妖気が流れ出している気がする。


「どうして…誰も見えないの?」


怖くて、見たくなくて目をつぶる。


その時口の中に妙な違和感を感じた。


コリッとした感触の何かが口の中にわき上がり、それがどんどん大きくなる。


「オエッ」


たまらない気持ち悪さと共に地面の上に吐き出したそれは、爪のついた人の指先だった。


「な、何でこんなものが口の中に…?」


皆が唖然とし声もなく見守る中、私の口の中に次々と異物がわき起こり、私は地面に手をついてそれらを吐き出す。



「ウッ。ゲホッ、オエッ…」


あまりの気持ちの悪さに胃液が込み上げ、目に涙が浮かぶ。


やっとその不快な現象が収まった時、地面の上には4、5個の人の指先が転がっていた。


「糸君、これは、一体…?」


策出さんが呟く。


「ぼ、僕にも分かりません…」


口を手の甲で拭い、扉を見るとキッチリと閉まっていた。


ジイサンは驚き過ぎて声も出ないのか、口をアングリ開けて事態を見守っている。


「ほほお。これはこれは」


マスターが細い目をさらに薄くし、地面の上の指をつまみ上げる。


「これを捧げれば、もう赤い雨など降らなくなるでしょう。君の中身は、女の子だ。そんな君の中から出てきたものだから、これを捧げれば、きっとお喜びになるだろう」


そう言うと、祠の前に指を全部並べた。


「糸君の中身が、女の子だって…?」


策出さんが呆然とした表情をする。


マスターがうなずく。


「策出さん、糸さんは、とても具合が悪そうだ。今すぐ連れて帰ったほうがいいでしょう。ワタクシは、この方と値段交渉などあるので」


「分かりました。帰ろう、糸君。立てるかい?」


策出さんが私の腕を取り立たせてくれる。


「オオーーーン」


レタが悲しげに遠吠えで鳴いた。


駅に戻り、トイレの洗面所で口をゆすぐ。


それにしても一体何故、あんなものが口の中から湧いて出てきたのだろう。


口の中の気持ち悪さがある程度とれたのでトイレを出ると、策出さんが自販機で買った水を渡してくれた。


冷たく心地よい水が、胃の調子も整えてくれる。


優しいなあ。策出さんは。


私のお父さんなら、こういう時私の様子を眺めているだけか、見て見ぬふりするか、病院に連れて行って丸投げするかだろう。


「大丈夫かい?」


「はい」


だけど、二人並んでホームのベンチに座っている間も、電車の中でも終始無言で気まずい。


「じゃあ、僕はもう大丈夫なんで、ここで」


駅に着くなり、逃げるように策出さんと別れてしまう。


歩きながら、一人になれた気安さでハァと、溜め息を着く。


人に自分の秘密を知られるのは、やっぱり恥ずかしい。


それにしても、どうしてマスターは私の心が女の子だって分かったのだろう。


喫茶店で陽ちゃんと話ている時に、うっかり私って言ってしまったのを、あの地獄耳で聞いていたのかもしれない。


それにしても、今日もこのまま帰っても、よく眠れそうにないなあ。


陽ちゃんは、まだ体の具合悪いだろうか。


話を聞いてくれる程度に回復していたら…。


見舞いがてら、陽ちゃんの家に寄ってみよう。







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