第4話

五月に入り、青空の広がった初旬のある日、中学校の体育祭が行われていた。


「アーア」


晴天の空を見上げ、校庭のグラウンドに集まった全校生徒やたくさんの父兄たちを眺めながら、私は溜め息をつく。


運動音痴の私にとっては、早く終わって欲しい行事でしかない。


「よーい、スタート!」


先生の掛け声を合図に、一斉にクラスの女の子たちが走り出す。


トップを、長い足をいかして美しく駆け抜けていくのは陽ちゃんだ。


「本当に、アナタは私の理想の女性像だよ…」


私はテントの下で椅子に座り、それを眺めながら一人ごちる。


100メートルを走りきりゴールした後、輝かんばかりの笑顔でこちらに駆けてきたので、私はテントから出てタオルを渡してやる。


「ありがと!」


陽ちゃんが嬉しそうに言った時、突然ラジオの周波数を切り替えたような、不思議な感覚に襲われる。


ポタ、と腕に生暖かい赤い滴が落ちてくる。


「陽ちゃん、まただ…」


私たちは、慌ててテントの下に避難する。


サーッと赤い雨が静かに降りだす。


気付けば、たくさんあるテントのみが校庭に並び、辺りには誰もいない。


あれだけ校庭に溢れかえっていたたくさんの人間が、一瞬で校舎に避難できるはずがない。


それに校舎を見ると窓という窓は真っ暗で、誰かがいる様子も無い。


まるで、みんなが別の次元に移動してしまったか、あるいは逆で私と陽ちゃんが…。


そうでも考えなければ、このおかしな現象に説明がつかない。


「今度は、一体何が起きるの…?」


陽ちゃんの震える声に、私はハッとする。


そうだ。前回は私の母が連れ去られた。


次は、一体何が?


ただ、サラリーマンのように、特に何も起きない可能性もある。


だが、あの突然鼻が落ちる現象は?


あれは、赤い雨に遭遇したせいだったとしたら?


次は一体何が…。まさか、陽ちゃんが連れ去られてしまうんじゃ…?


嫌な予感に押し潰されそうになり、思わず陽ちゃんの腕を掴む。


ふと辺りを見渡すと、私たちが避難してる場所から見て、グラウンドを挟んだ遠くのテントの下に、一人の人影がいるのが見えた。


「陽ちゃん、あれ、久竹じゃない?」


「ほんとだ」


筋肉質の腕を組み、辺りを睨みつけるように

キョロキョロとしている。


やがて、校庭の端にある大木のほうに何かを見つけたのか、手を振り大声で叫んでいる。


見ると、木の下には大人の男の人が立っていて、久竹に気付くとそちらに向かって軽く走り出した。


その人は久竹とよく顔立ちが似ていた。


「親父!」


久竹がその人に向かって呼びかける声が聞こえた。


「あっ、見て…」


辺りを不安そうに眺めていた陽ちゃんが、空を指差す。


そこに、アイツが、いた。


いつの間にか空一面を覆っている灰色の雲の下に、陽炎のようにユラユラと浮かぶ黒い人影。


そいつがスーッと音も無く、真っ直ぐ久竹のお父さんの背後に降りてくると、両手を伸ばして頭をつかむ。


「なんだ?!お前!親父を離せ!」


久竹がテントから走り出て、黒い人影に殴りかかる。


さすが、血気盛んなヤツ。


「久竹!そいつに気を付けて!」


私の叫びは、遠すぎて久竹に届かない。


まるで黒い人はそこに居ないかのように、久竹の体はすり抜け地面に転がって倒れた。


黒い人は何事も無かったかのように、久竹のお父さんの頭をつかんだまま、空中へ浮かぶ。


「ふざけんな!待て!親父を返せ!」


久竹の叫びもむなしく、ものすごいスピードで雲の中に二人は消えた。


「親父ー!」


雨に打たれ赤く染まっていく久竹の声が、グラウンドに静かに響く。


「久竹のところへ行こう!」


陽ちゃんと連れ立ってグラウンドを横断する間赤い雨はやみ、みるみるうちに灰色の雲は消え空は晴れわたっていく。


久竹の近くに到着した時には、いつの間にか赤い雨が振る前と同じように全校生徒と父兄たちでグラウンドは溢れていた。


うずくまり、地面を拳で叩きながら「親父が!親父が!」と泣き喚く久竹の周りを、何事が起きたのか分からないといった困惑した表情で生徒たちが取り囲んでいる。


「どうしたんだ?」


先生たちが数人駆けてくる。


「分からないんです。急に久竹君がうずくまって泣き叫び出したんです」



地面を何度も強く叩いているせいで、久竹の両手の拳は血がにじんでいた。


「取り敢えず、保健室へ連れて行こう」


先生たちが久竹の両脇を抱え去っていく。


「ついて行こ」


私は陽ちゃんを促す。


「赤い雨の降っている時に消えた人たちには、その間に起きた出来事の記憶は無いんだ」


陽ちゃんが歩きながら腕を組み、憮然とした顔をする。


「みんなが別の次元に移動したのか、それとも私たちのほうが…」


私の言葉に陽ちゃんが溜め息をつく。


「考えても、よく分かんないね」


校舎の一階にある保健室に着くと、開いたドアの隙間から、久竹が茫然自失の程で白いベッドの上に腰かけさせられているのが見えた。


私たちの気配に気付き、ゆっくりと振り向く。


スローモーションのような遅い動作ののち、目の焦点をこちらに合わせる。


その目はうつろで、涙で瞳の表面が濡れている。


口はへの字に力無く下がっていたが、突然何かに気付いたようにキッと頬に力が入った。


「そっちの女は、一時期、赤い雨がどうこう聞いて回ってたな」


「陽っていう名前がちゃんとあるんだけど」


胸を張って言う陽ちゃんの腕を、「ちょっと」と私は軽く引っ張る。


「んで、そっちの男だか女だかよく分からないヤツは…」


久竹が私にうつろな視線を向ける。


「そんな言い方はやめて」


陽ちゃんが睨み付ける。


「お前は同じ頃に家族に何かあったんだったな…。はーん。そうか、そういうことか…」


久竹は小学生の頃から、とても察しがよく頭がいい。


きっと、私が今日の久竹と同じ目に合っていることに気付いたんだ。


同じ目に合った者同士、慰めてあげることができるかもしれない。


一歩足を踏み出した私に向かって、突然久竹が大きく口を開け、叫ぶ。


「オレは!」


ビックリして私の体が硬直する。


久竹が唾を飛ばして叫ぶ。


「オレは、違うからな!オレは絶対そっち側には行かない!オレはカワイソウな人間なんかじゃない…。オレはカワイソウな人間になんか絶対にならない!どっか行けよ…。あっちに行けよ!」


握った拳をブルブルと震わせる。


このままここに居ると危害を加えられるかもしれない。


「君たち、体育祭に戻りなさい」


事態を静かに見守っていた保健室の先生が、ピシャンとドアを閉めた。


「行こ」


陽ちゃんが、そっと私の肩を触る。


「私、一瞬久竹を慰めてあげられるかも、って思ったの。でも、私が誰かに何かしてあげられる、なんて、おごった考えだったのかもしれない」


「そんなこと無いよ」


陽ちゃんの優しい言葉に、私は肩に置かれた手を握り返した。




「ああ、疲れた…」


家に帰り、バッタリとベッドに倒れこむ。


あまりに今日はいろいろあり過ぎて、体は疲れているのに気持ちが高ぶっていて落ち着かない。


鞄から携帯電話を取り出す。


母がいなくなる事件のあった後、何かあったら直ぐに連絡できるように、と父が持たせてくれたものだ。


だけど、と私は思う。


今日だって、仕事で体育祭には来てくれなかったし。


電話して久竹のことを話したところで、きっと信じてもらえないだろう。


あのサラリーマンにかけてみようか…。


机の引き出しを開けて、手付かずの薬の束の横に置いてある名刺を取り出す。


策出冊夢(さくで さつむ)と、名前が印刷されている。


仕事終わってるかな?


私の父は、研究職についていてラボに遅くまでこもっているので、営業の仕事がどういうものか想像がつかない。


かけてみて出なかったら、また明日かけ直せばいいか。


名刺に印刷されてある携帯番号を押すと、プルルルル、プルルルルと呼び出し音が鳴る。


私はこの時間がとても苦手だ。


相手がいるかいないのかも分からない、遠い宇宙へ繋がっているような、そんな茫ようとした気持ちになる。


「はい。もしもし?」


割とすぐに策出さんが出て、私は聞き覚えのある声にホッとする。


「あ、もしもし。あの、わた…、僕。以前、街はずれの喫茶店の近くで名刺を頂いた…」


「ああ、君ね。その節は驚かせてゴメンね」


「いえ…。鼻の具合はどうですか?」


「ああ、不思議と何事も無くちゃんと元通りだよ…。何故落ちたのか、何故俺はそれを拾ってくっつけようと思ったのかも分からない。だけど結果が全て。今は何も問題無いさ。社会人は、細かいことは気にしていられない。毎日健康で、仕事ができれば、それ以外のことは、わりかしどうでもいいんだよ。忙しいからね」


「ハァ。そんなもんですか。ところで今、お話しても、大丈夫ですか?」


「いいよ。夕方早めに帰ってきて、晩酌しながら、のんびりツマミを食っていたところさ」


私の父はお酒を一滴も飲まないので、サラリーマンの晩酌がどういう風景なのか想像がつかない。


だけど、私が今日起きた出来事をつたなく喋るのを、忙しいから、と遮ることも無く、お前の話はよく分からん、と途中で一刀両断されることも無く、無理して聞いてやってんだから早く話せ、という気配も無く、本当にのんびりと最後まで聞いてくれた。


おかげで、強張っていた気持ちがだいぶほぐれ、策出さんだって、どうしてこんな不可解な出来事が起きるのか分からないから、何一つ解決しないのに、話を聞いてもらえるだけで、気持ちがスーッと楽になり、人っていいな、と思えて、また世界を信じて外へ出て行ける、そういう気持ちになるのだった。


「あ、そうそう」


お酒をグビリと飲む音がした後、策出さんが切り出した。


「あれから、お得意先の仲良くしてくれてる人たちに、赤い雨の情報を聞いて回っていたんだが、その人の知り合いの農業をやっている方が、農作業中に赤い雨に降られたことがあったそうだよ。明日、日曜日に話を聞きに行くことになってるんだが、君も一緒にどうだい?」


「行きます!」


私は二つ返事をすると、勢い余ってむせこんだ。




















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