第3話
翌日、久し振りに私は学校へ行った。
学校は、新しい学年の始まりの高揚感はすでになく、通常通りの雰囲気に落ち着いていた。
私のことは、なんか家族に不幸があったらしい、程度に広まっているらしく、皆そっとしてくれていた。
「それでね、陽ちゃん、私…」
休み時間に廊下の窓のところで四角く切り取られた景色を見ながら陽ちゃんと喋っていた私は、ふいに人が通る気配を感じて口をつぐむ。
そして、言い直す。
「あの、僕はね…。」
同級生の去っていった背中を見て溜め息をつく。
「あのさ、糸ちゃん…」
今度は陽ちゃんが私を見て溜め息をつく。
「人前でも、[私]って言って、いいと思うんだよね。だって、それが糸ちゃんらしさだから」
「そう言ってくれるのは、嬉しいんだけどね」
私は自分の履いている制服のグレーのチェックのズボンを、つまらない気持ちで眺める。
ほんとは、陽ちゃんが履いているような、可愛い膝上丈のスカートで通学したいけど。
「前も話したけどさ…」
小学生の夏休み、母のスカートをこっそり履いて街に出掛けたら、クラスの男の子に見つかって、危うくいじめられかける目にあったのだ。
それ以来、絶対に外でスカートを履くことは無くなった。
それに、私をいじめかけてきた男子というのが、今すれ違った…。
「おい、糸」
筋肉のついた広い肩をいからせて引き返してきたソイツが、乱暴に私の胸ぐらを掴んで話しかける。
「今、確かにオレの耳には、お前が[私]って言ったように聞こえたがなあ?」
鳶色の綺麗な目を薄く開け、人を見下したような表情をする。
「言ってない。僕って、言ったし」
「そうだよ。私たちは、二人で話してんだから、入って来ないで。それに、乱暴はやめて」
さすがに陽ちゃんのような美人に言われると堪えるのか、一瞬久竹(くたけ)が黙る。
「ふん。この程度は、男同士の挨拶だよ。それに、糸、今度オレの前で妙なマネしやがったら…」
「いいから、あっち行って」
フン、とまた鼻を鳴らすと、久竹は去っていく。
そのガタイのいい背中を、複雑な気持ちで私は見つめる。
あの、鳶色の綺麗な目で、真っ直ぐに私を見つめてくれたらなあ。
「もしもし?もしもーし」
陽ちゃんがボーッとしてる私の目の前で手を振る。
「あんな乱暴なヤツのこと、まだ好きなの?」
「え?いや、その…」
私の曖昧な反応に、陽ちゃんは溜め息をついて両手を上げる。
「私はもっと大人の、落ち着いた人が好き。あんなお子様はキライ」
久し振りの学校は疲れてしまい、先生の許可をもらって、私は早めに下校した。
家のドアを開けると、玄関に敷いてあるブラウンのマットの上に、白い小さな桜の花びらが落ちていた。
そういえば、春には毎年家族三人でお花見に行ってたっけ。
今年はそれどころじゃ無かったな。
涙が出そうになりながら、私はそれを拾い上げる。
ふと顔を上げた時、玄関から真っ直ぐに続く廊下の突き当たりに、黒い何かがスッと動いたような気がした。
涙で滲んでいるせいかと思い、目をこする。
それでも、何も変わらない。
目を凝らして廊下の奥の暗がりを見る。
黒く丸い何かが、ゆっくりと床から出てきている。
ゆっくり、ゆっくりと、それはまるで、のっぺらぼうの頭のよう…。
「いやっ、やめて」
思わず尻餅をつき、後ずさる。
ガチャ。
突然ドアが開いて、口から何かが飛び出そうになる。
振り向くと、父が立っていた。
「お父さん…」
泣きそうな自分の声が情けなくなる。
「どうした?忘れ物取りに来たんだが…」
父の顔に少し動揺が走る。
「今日は学校に行ったんじゃなかったのか?」
「体調が悪くて、先生の許可もらって帰ってきたんだ。それより、黒い…、黒い影が、あそこに…」
廊下の奥を指差すと、そこにはもう何も無かった。
「ハァ」
父が溜め息をつく。
「またお前は…。薬をちゃんと飲んでいるのか?効いていないようだが」
「飲んでるよ!」
私は叫ぶと玄関のすぐそばの階段をかけあがり、二階の自室に飛び込んでドアを閉めた。
父は自分の子供の言うことよりも、薬のほうを信頼している…。
その事実が情けなくて悲しくて、虚ろな気持ちでベッドに腰かける。
恐怖で意識のハッキリしない頭で、やがて父が玄関のドアを開けて出て行く音を聞いた。
その音が合図だったかのように、部屋の隅の床から、黒い影がゆっくりと立ちのぼってくる。
私を追ってきているの?
そう感じた私の胸に突然怒りがわいてきた。
「そう…。そうなの、私を狙っているんでしょ?!殺したきゃ、殺しなさいよ!私をお母さんと同じところに連れて行きなさいよ!」
私は恐怖に耐えきれず、頭を抱えて叫ぶ。
カリカリカリ。
ふいに聞こえてきた異音に、私は身を硬くする。
音は部屋のドアのほうからしていて、「ニャーニャー」と甲高い鳴き声がする。
「シロ!」
ドアに駆け寄り開けると、シロが大きな目をさらに見開いて廊下にうずくまり、こちらを見上げていた。
その丸い体を持ち上げ胸に抱く。
その温かさに少し安心する。
だがシロは私の手から滑り降り、部屋の隅でユラユラと陽炎のように蠢いている黒い影のほうへ行ってしまう。
「シロ、やめて…。戻ってきて」
「フーッ」
全身の毛を逆立てて、シロが黒い影に向かって威嚇する。
部屋の隅に置いてあった殺虫スプレーにシロの体が当たって、カランと派手な音をたてて倒れる。
その時、黒い影はスッと辺りに溶けるように消え、シロが頭から尻尾の先まで全身をブルブルと震わせたように見えた。
「シロ?」
不安になり、私は声をかける。
シロが、クルッと首だけ回してこちらを見る。
私を見上げたその二つの大きな瞳は、いつもの黄色い猫目では無かった。
暗く、虹色にヌメッと光っている。
まるで、カメラのレンズのように。
いつもの黒い縦長の瞳と、黄色い虹彩が見当たらない。
なんだか毛ヅヤがぬいぐるみのようにボサボサで、ヒゲもプラスチックでできた作り物のように見えた。
「シロ…?」
私の知っているシロがどこかに行ってしまった、そんな思いにとらわれ胸が締め付けられたように苦しくなる。
「シロ!」
私が呼ぶと、本当にシロなのか分からなくなってしまったソレは、ゆっくりと目蓋を閉じた。
つられて私も瞬きをする。
シロが再び目蓋を開けた時、いつもの黄色い猫目に戻っていた。
背中を撫でると、毛並みも以前のシロのと同じでフワフワと柔らかく、ヒゲもちゃんと先細りになっている。
「時々、君を見ているよ」
低く、囁くような声が耳の穴の中で聞こえ、慌てて辺りを見渡す。
黒い影は見当たらない。
シロを見ると、いつものように「ニャー」と甘えた声で鳴き、ゴロリと腹を見せて転がった。
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