第2話

あれから、二週間が経った。

私は一度も学校へ行っていない。とてもじゃないが、行く気になれなかった。


あの後、すぐ父に連絡し、父が警察を呼んだ。

現場検証で、「おそらく事故にあったのだろうけど、こんなにボンネットが半分も消えるものかね?」と、警察官がしきりに首をひねっていたのを覚えている。


父や警察に、私は見たままのことを正直に話したが、事故のショックで記憶の改竄が行われてしまったのだろう、ということで彼らの中では落ち着いた。


春の鈍い朝日がカーテンの隙間から部屋に射し込む中、私は溜め息をついてベッドの上で身を起こす。


枕元で丸くなって寝ているシロの額を撫でて、少し心を和ませる。



自分の部屋の中にばかり居ては、いつまでも、いつまでも、何回も、あの日の出来事を思い出してしまう。


顔を洗おうと廊下に出ると、父とすれ違った。

父は気まずそうに、無理矢理に口角を上げ、少し立ち止まって私を見る。

これは、母がいなくなる前から、父の癖だった。


「糸、そろそろ、学校に行きな。気分転換も大事だよ。警察が、母さんを探してくれている。安心しなさい」


父や警察の中では、母は何らかの事故に巻き込まれ、連れ去られてしまったのだろう、ということになっている。


だが、例え警察が母を必死に探してくれていたとしても、決して見つからないだろう。

母は、得体のしれない人型の何者かに、空に連れて行かれてしまったのだから。


父は、私の話を微塵も信じていない。

その証拠に、もう何度も精神病院に連れて行かれている。

訳の分からない薬を束のように処方されたが、私は一粒も飲まず、机の引き出しに閉まっている。


私は、おかしくなんか、なっていない。


シロの毛の奥にある、洗ってもとれない柔毛の薄いピンク色が、あの出来事が事実だったことを物語っている。

もし、その証拠すら残っていなかったら、私自身も、自分の気がおかしくなってしまったんだと思い込み、また、現実から逃げたくて、薬を浴びるように飲んでいたかもしれなかった。


それに、私には陽ちゃんがいた。

時々様子を見に来てくれる陽ちゃんだけが、私の心の支えだった。


「ねぇ、お父さん…」


言いかけて、私は口をつぐむ。

父は既に出勤の準備を終えていた。

短い髪をピタリと頭になでつけ、銀ぶちの眼鏡をかけ濃いグレーのスーツを身に纏っている。

私と話す時間は無いかもしれない。


「なんだ?言ってみなさい」


「お父さん、本当にあの日、赤い雨を見なかったの…?」


この短い疑問を言いたいだけなのに、途中で心が折れて喉が詰まりそうな感覚に陥る。


父が、私の口から赤い雨という言葉が出ると、溜め息をつき困った顔で首を振る。


口にすら出してはいけない話題なのかと、ためらってしまう。


「糸、何度も言ったろう?警察の人もだ。あの日、赤い雨など誰も見ていない」


横を向き、鷲鼻を少し反らして思案する。


「もう少し休ませないとダメなようだな」


そして背を向けて玄関へ歩いて行く。


「父さんは仕事行くから、学校に行けるようだったら行きなさい。その時は戸締まりを忘れずにな」


父が家を出て行き、誰もいなくなった廊下でしばらく一人佇む。


人気のないダイニングに入ると、奥のキッチンの小窓に嵌め込まれた、母の作ったステンドグラスが場違いな程辺りを鮮やかに照らしている。


母のいない日常が、寒気をもって私にまとわりつく。


あ、そうだ。顔を洗おうと思ってたんだっけ。


洗面所で顔を洗うと、鏡に見知らぬ人物がうつった。


短い髪はボサボサで、目の下にクマができ、頬はこけている。


二週間前までは、標準体重より少し多いくらいだったのに。


溜め息をつくと、鏡の中の人物も同時に溜め息をつく。


それにイラだつと、鏡の中の人物もイラだった顔をする。


あーあ、また見たくもないものを見ちゃったな。


諦めて鏡の前を離れる。すると鏡の中の人物もついてきたが、私にはどうしようもなかった。


リビングに入り、一人になれたことにホッとしてソファーに座る。


さて、今日はどうしようか。学校に行こうか。それとも、いつの間にか日が暮れるまで、涙を流し続けていようか…。


ピンポーン



眠っていたのか、何か考え事をしていたのかも分からない。

チャイムが、そんな私の意識を雷のように引き裂いた。


誰かが来ても、出る気力も無い。


「糸ちゃん、いるー?」


陽ちゃんの声が聞こえ、慌てて腰を上げて玄関へ急ぎ、ドアを開ける。


「私も今日は学校サボっちゃお!」


ヒマワリのような笑顔に、空っぽだった私の心が少しホッコリする。


「それにしても、糸ちゃんのお父さん、シロを飼うことを許してくれて良かったね」


陽ちゃんがリビングの机にカバンを置き、ソファーに座る。


「うん。私が全部面倒みるなら、いいって。お父さんは、基本私に関心無いから」


「そんなこと無いよ」


「お母さんだって、あの日、私が寝坊しなければ…」


「糸ちゃん!」


強い口調で陽ちゃんが私の言葉を遮る。


「誰も悪くないの。悪いのは、あの不気味な黒い妖怪!わかった?」


綺麗な長い黒髪を振り乱し、私の肩を掴んで揺さぶる。


「わ、わかった、わかった…」


涙が一粒出て、ずっと抱えていた罪悪感から、少し解放された気がした。



私の肩から手を離し、陽ちゃんが辺りを見渡す。


「シロは?」


「二階にいると思う」


「シロ!」


陽ちゃんが声を上げると、ややあってシロがリビングの入口に姿を現した。

陽ちゃんが駆け寄り、シロを抱き上げる。


「ウチで飼いたかったけど、お母さんが猫アレルギーだから」


残念そうに陽ちゃんが溜め息をつく。


「あ、そだ、パソコン貸して!ウチには無いから」


「いいよ」


シロを抱えたまま、陽ちゃんがリビングの隅のパソコンが置いてある机の前に座る。


陽ちゃんは、近くの市営アパートに住んでいて、悪口を言うつもりじゃないが、お世辞にも裕福な家庭とは言い難い。築四十年は経っているらしい、外壁が汚れて灰色になっているアパートから出てくる陽ちゃんを見るたびに、掃き溜めに鶴、という言葉が、失礼ながら、どうしても私の心に浮かんだ。


大人になったら、いつかきっと、こういう綺麗な子は素敵な男性に見初められて、お城のような豪邸に暮らすのだろうな、と鼻筋の通った横顔を眺めながら思う。


それに比べて私は…。大人になったら、どうなっていることやら。


「ええと、赤い雨、っと…」


入力しながら呟く陽ちゃんの声に思考を中断され、私も立って側へ行きパソコンを一緒に覗く。


ひとつだけ赤い雨について書かれた記事が見つかり、開いてみる。


そこに書かれていたのは、過去に一度インドで赤い雨が降ったことがあるが、原因は分からないという内容だった。


添付されてある画像を見ると、インドの田舎町と思われる閑散とした場所で、家とおぼしき建物が二つ、村人らしき人々が三人、舗装されてない道を歩く様子が写っており、地面にはやや紫色がかったピンク色の大きな水溜まりができていた。


「なんか、違うね…」


陽ちゃんが呟く。


確かに、私と陽ちゃんが見たものは、血のように真っ赤な雨だった。


これとは違うものなのかもしれない。


「分かんないね…。じゃあ、こないだ立てたスレッドを見てみようか」


数日前ウチに陽ちゃんが来た時に、無料の掲示板に【誰か赤い雨を見たことはありませんか】と書いたスレッドを立ててくれていた。


「ええと、なになに…?」


書き込みが三件あり、その内容はこうだった。


1 匿名希望さん

は?


2 匿名希望さん

頭、ダイジョーブか


3 匿名希望さん

さっさと病院いけ



「ムッキー!」


書き込みを見た陽ちゃんが、聞いたこともない奇声をあげ、ガチャガチャと乱暴にマウスを扱いスレッドを閉じていく。

が、すぐに我に返ったようで、最後は大人しくパソコンを閉じた。


「ご、ごめん…。ちょっと、取り乱しちゃって」


「いや…」


私だって今の書き込みを一人で見ていたとしたら、パソコンを窓から投げ出して叩き割っていたかもしれない。


陽ちゃんが、何事も無かったかのように、澄ました顔で美しい黒髪を揺らし、スッと立つ。


その時、どこからともなくグーッと異音が聞こえてきた。


陽ちゃんが俯く。


「お腹すいた…。最近やたらにお腹がすくんだよね…」


そして、明るい笑顔でパッと振り向いて言った。


「こないだ、いい感じの喫茶店見つけたんだけど、行ってみない?」





私の家は、繁華街から少し離れたところにあるのだが、さらに街の外れの方へと陽ちゃんは歩いて行く。


「春休みの間、自転車で街をあちこち探検するのが趣味になっててさ。今から行くところも走り回ってて偶然見つけたんだ」


「へぇー」


陽ちゃんに、そんな趣味ができていたとは知らなかった。


春休みの間、私が家でネット漁りをしてる時に、陽ちゃんはそんなことをしていたのか。


陽ちゃんは制服のままウチに来ていたので、着替えてもらって、今は私のパーカーとズボンを着ている。


私が着たらただのダサイ格好でも、陽ちゃんが身に付けると可愛く見えるから不思議だ。


やがて道の周りには人家も無くなり、めったに車も通らなくなった。


道の両脇には雑草や木が生い茂り、アスファルトで舗装しただけの細い道が続いていく。


そのうちアスファルトの舗装も無くなり、地面がむき出しの道になった。


やや上り坂が続いているので、だんだん息が上がってくるが、生い茂る木の葉が日光を遮ってくれているので、そこまでの苦しさは無い。


「こんな道を自転車で走ったの?」


「ここまで来たら、歩いてたかも。森林浴って感じ?のんびり歩くと、気持ち良かったからね」


光のシャワーの降り注ぐ薄暗い木のトンネルを抜ける。


と、突然視界が開け、そこには短い草の生えた平らなだだっ広い空間が現れた。


その草っぱらの真ん中に、白い建物と、少し奥にログハウス風の家が建っていた。


手前の四角い白い建物は、高さから推し測るに二階建てのようだった。


近づくと、上部にすりガラスがはまった木のドアには、OPEN と書かれた札がぶら下がっている。


脇には黒板のメニューが立て掛けてあり、Coffee、紅茶の他に、季節限定としてイチゴティー、イチゴアイスティーなどが書かれてある。


「なんとなく、一人で入るのが億劫だったから、糸ちゃんを誘って来ようと思ってたんだよね」


私達の身長より少し高いところに、横長の細い曇りガラスの窓が二つあるだけなので、外から中の様子を伺うことができない。


二人でいたって、入るのを躊躇してしまうような建物の造りだ。


たが、黒板のメニューに書かれていたイチゴアイスティーが、さっきから私の喉を鳴らして仕方なかった。


「入ってみよっか」


意を決して店内に入ると、カランカランとドアの内側上部に取り付けられた小さなベルが軽く心地良い音をたてた。


店内の照明は薄暗く、外が天気が良く明るかったため、目が慣れずしばし佇む。


平日の昼間だし、こんな街はずれの辺鄙なところにある喫茶店に誰も客はいないだろうと予想していた。


だが意外にも、奥の小さなテーブル席でサラリーマン風のスーツを着た男性が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいたり、家事を終えたとおぼしき主婦たちが楽しそうにお喋りしながら紅茶を飲んだりしている。


その様子を見て少しホッとする。


そして、カウンターの奥の暗がりに…。


「ヒッ」


陽ちゃんが驚いて息を飲む音が聞こえ、私も動転して、彼女の腕を掴む。


あの黒い人影が、そこに立っていた。


ユラユラと揺らめいて、煙のように怪しく。


カウンターの中を、ゆっくりとこちらに近づいてくる。


「いらっしゃいませ」


照明の真下に来た時、その黒い人影は白いシャツに茶色のベストを着て、顔には優しそうな笑みをたたえた店主だと判った。


陽ちゃんと二人、ホッと胸を撫で下ろす。


掴んでいた腕が強張っていたのが、力が抜けていくのが分かる。


「カウンターへ、どうぞ」


カウンターのスツールに座り、陽ちゃんはパンケーキとアイスコーヒーを、私はイチゴアイスティーを頼む。


「ハハハハハ」


話の内容までは分からないが、主婦たちの賑やかな笑い声が聞こえてくる。


陽ちゃんが、店主をチラチラ見ながら私に囁く。


「あの人、マスターって言葉がピッタリだね」


白いものが混じった短い髪と口髭は清潔に整えられていて、常に口元に笑みを湛えながらスマートに仕事をこなす様子は、確かにマスターと呼ぶにふさわしい。


常に日頃から、うんと年上の優しそうなオジサマが好き、と公言している陽ちゃんには堪らないだろう。


「どうぞ」


まず陽ちゃんにパンケーキとアイスコーヒーが差し出され、私の目の前にイチゴアイスティーが静かに置かれた。


細長い透明のグラスに、紅く鮮やかな液体と、底にイチゴの粒がいくつか沈んでいる。


表面に浮いている氷をかき混ぜストローで吸うと、フルーティな香りと紅茶の豊潤な甘さが口いっぱいに広がった。


えもいわれぬ幸せ、未知の世界へ飛び込んで行く豊かさを感じ、夢見心地になる。


そんな私の横で、陽ちゃんがパンケーキを頬張りながら、溜め息をついた。


「どうしたの?」


「ことあるごとに、クラスの子や先生にも赤い雨を見なかったか聞いて回ってるんだけど、誰も見なかったって言うし、あの日は普通に始業式をしてたって…。最近、そのせいで、私が変なことを言う子扱いされ始めてて、何かヤダな」


「そうなんだ…。私もそろそろ学校行かなきゃな」


陽ちゃんを一人ぼっちにしてしまうわけにはいかない。


「ハハハハハ」


また主婦たちの笑い声が響く。


その声につられて、店内を見渡してみる。


サラリーマンは奥で新聞を読み、主婦たちはお喋りに興じている。


何てことない、喫茶店にありがちな風景。


だけど何故か私は違和感を感じてしまう。


まるで録画したワンシーンを、繰り返し再生して見せられているかのようだ。


「ハハハハハ」


また、主婦たちの笑い声が響く。


「お味はいかがですかな?」


突然すぐ近くで話かけられ、私はハッとして向き直る。


見るとマスターが静かな笑みを湛え、カウンター越しに目の前に立っていた。


「アッ、あの…、とっても、美味しいです」


「それは良かった」


マスターが、常に微笑んでいるせいで瞳の見えない目を更に細める。


「お二人がお食事を終わられる頃、二階でちょっとしたショーを行いますから、是非いらしてください」


そう言うと、マスターはカウンターの横にある階段を登って二階へ行ってしまった。


「ショーって何だろうね?」


「うーん?食べ終わったら、行ってみよっか」


興味がわいて、だいぶ食欲がでてきたのか、陽ちゃんがモリモリとパンケーキを食べだす。


やがて、マスターの声で店内放送が流れた。


「只今から、お二階でショーを行います。ぜひ皆さん、いらしてください」


その声に誘われるように、主婦たちやサラリーマンも二階へと階段を登っていく。


「私たちも行こっか」


「ちょっと待って」


あわてて私はアイスティーを飲み干し、席をたつ。


木の板でできた階段を軽く軋ませながら陽ちゃんと連れ立って二階へ行く。


と、そこには壁も天井も床も真っ白の、だだっ広い空間が現れた。


天井はくりぬかれたようにドーム型になっていて、床にはリクライニングのきく椅子がいくつか置かれている。


主婦たちやサラリーマンはすでに椅子に座りリクライニングを倒してリラックスしている。


私と陽ちゃんもそれに習い、空いた椅子に座ってリクライニングを倒す。


「なんだか、眠っちゃいそう」


パンケーキを食べてお腹の満たされた陽ちゃんが、軽く欠伸をする。


「では、どうぞゆっくりとお楽しみください」


姿の見えぬマスターの声が流れ、部屋の照明が徐々に落とされて、やがて真っ暗になった。


少し不安になり、すぐ隣にいるであろう陽ちゃんに話かける。


「起きてる?」


「どうにか」


返事を聞いて気持ちが落ち着いた、その時。


天井に、何かが光った。

夜空に輝く、星。

一つ、また一つと増えていき、天井も壁も床も、美しく瞬く星で埋めつくされていく。


これは…、プラネタリウム?


春、夏、秋、冬と、季節ごとの天体ショーが展開されていく。


不思議と、さっきまで背中に感じていた椅子の感触が無くなり、まるで本当に宇宙空間に浮遊しているような心持ちになる。


「キレイだね、陽ちゃん」


話かけてみたが、返事が無い。


寝てしまったのだろうか。


いつの間にか私は、他の客の存在も忘れて、一人で宇宙空間を旅していた。


地球を飛び出して、金星、水星を周り、火星、木星、土星…、冥王星まで…。


青い色や赤い色のさまざまな惑星たちを見て、はては銀河まで飛び出して宇宙を駆け巡っていた。


ラズベリーの匂いのするガス惑星や、太陽が二つある惑星など様々見て、最後に地球に帰って来たところで照明がついた。


パチパチパチと拍手が起こる。


「スゴかったね、陽ちゃん」


隣を見ると、軽くヨダレを垂らして寝ていた。


「起きて。帰るよ」


他の客たちは、すでに階段を降り始めている。


「うーん」


まだ眠そうな陽ちゃんを起こし、私たちも階下へ降りる。


サラリーマンの姿は見えなくなっていたが、主婦たちはお喋りの続きがあるのか、また同じ席に座っていた。


お会計しながら私はマスターに話しかける。


「マスター、本当に宇宙空間を旅しているようで、スゴかったです」


街中にあるプラネタリウムで何回か見たことはあったが、こんなに本当に宇宙を旅した感覚になるのは初めてだった。


マスターが私を見て微笑む。


「気に入りましたかな?また是非お越しください」



まだ寝たりないのか、フラフラとした足取りの陽ちゃんを連れて外へ出る。


「ずっと寝てたの?」


「うん…?あんまよく覚えてないや」


陽ちゃんと二人で来た道を戻る。


サラリーマンはさっさと行ってしまったのか、どこにも姿が見えない。


だが、木々のトンネルを抜け、アスファルトで舗装された道にさしかかった時、さっきのサラリーマンが向こうから引き返してくるのが見えた。


そして私たちの目の前に立ち、血相を変えて言った。


「鼻が…鼻がないんだ…」


下をウロウロと見ながら、呟いている。


「君たち、鼻が落ちているのを見なかったかい?」


サラリーマンが顔を上げる。


唖然として、三十代とおぼしきサラリーマンの顔を見ると、まるで切断機でスッパリと切りとられてしまったかのように、鼻が無くなっていた。


そのキレイな切断面から、血が一筋したたり落ちている。


「ヒッ」


陽ちゃんが小さく悲鳴を上げ、口元を手でおさえる。


「ど、どうして…。何があったんですか?何かの事故に…」


「いや…」


サラリーマンは首を振る。


爽やかに整えられた短髪が、風に揺れた。


「何もない。何もなかったさ…。ただ俺は、会社へ向かって歩いていただけだ。なのに突然、鼻が無くなっていることに気づいたんだ…。不思議に思うよね…?俺だって不思議さ…。だけど、細かいことを考えているヒマは無いんだ…。俺は今から仕事だからね。とにかく、鼻を探さなくちゃならない…。落ちたに決まってる。だって突然消えたんだ…」


最後はブツブツと独り言のように言いながら、サラリーマンは辺りの茂みを探し始める。


ダークな紺色のスーツの裾や袖口に、土埃や草の小さな花びらなどが付着して汚れていく。


そんなことってあるのだろうか、と私は考える。


まるで、カマイタチのようだ。


気付かずにいつの間にか皮膚が切れている、という現象。


カマイタチは、冬に空気が乾燥している時に起きる現象を、昔の人が妖怪の仕業だと考えた、という説がある。


だが、今は季節は春だし、突然鼻が削ぎ落とされるというのは、理解ができない。


「ねぇ、喫茶店に戻って、救急車と警察呼んでもらったほうがいいんじゃない?」


陽ちゃんが、そっと私に耳打ちする。


鼻の無いサラリーマンがガサガサと茂みを漁りまくる姿は不気味そのもので、陽ちゃんの言う通りにしようかと一歩下がった時、彼が叫んだ。


「あった、あったぞ!」


見ると、確かにその手には鼻が握られていた。


その切断面を顔の中央にグイグイと押し付け始める。


「あの、病院に行ったほうがいいんじゃ…」


おずおずとした陽ちゃんの申し出を、一切聞く耳を持たず、サラリーマンはそのおぞましい作業を続ける。


まさか、本気でそんなやり方で鼻を元あった場所にくっつけようとしているのだろうか。


私と陽ちゃんの心配をよそに、サラリーマンはまるで手品が完成したかのように、ソーッと鼻から手を離す。


不思議なことに切れ目は消え、綺麗に鼻はくっついていた。


「良かった…。仕事には間に合いそうだ。じゃっ、これで」


爽やかに、何事も無かったかのように

片手を上げ去って行こうとするその背中に、私は思わず声をかけていた。


「あの、あなたは、…赤い雨を見ませんでしたか?」


深い考えがあったわけではない。


この不可思議なサラリーマンに、おかしな質問をする子だと、一笑にふされてしまうかもしれない。


だけど、少しでも母を取り戻すために手懸かりが欲しい、そんな思いが質問という形をとって口をついて出てきたのかもしれなかった。


きっと笑われるだろう、そんな私の予想を、サラリーマンは驚きの表情で裏切った。


「君は何故…それを知っているんだい?」


こちらに向き直り、両手を広げて近づいて来る。


「分かった。君も見たんだね」


「私もです」


陽ちゃんが横から口を挟む。


「君もか。二人も、あんな不気味なものを目撃した人に会えるなんて。会社で同僚たちに聞いて回ったが、ストレスで頭がおかしくなったんだと思われて、有給をとるように勧められたよ」


ハハ、と乾いた笑いを響かせる。


「大人の社会も、子供の社会も扱いは一緒ね」


陽ちゃんが腕を組んで頬をふくらませる。


「ああ、君たち、こんなことは学校で言わないほうがいいよ…」


「もう手遅れよ」


「あ、あの、黒い人が現れて、誰かが連れ去られたりしませんでしたか?」


私が一番聞きたかったことを切り出すと、サラリーマンは顎に手を当て思案したのち言った。


「いや…、一週間前のあの日…」


「一週間前、ですか」


「君たちは違うのかい?」


「私たちが見たのは二週間前。ね、糸ちゃん」


「うん」


「そうか。あの日俺は…」


サラリーマンは一週間前のことを思い出そうとしているのか、やや上を向いて虚空を見つめる。


二重の幅が広いので、ぼんやりと夢を見ているような顔つきだ。


「あの日はいつものように外回りをしていたんだ。俺は営業の仕事をしていてね。時間は昼過ぎだったと思う。この街の商店街を歩いていたんだ。そしたら、突然生暖かい水滴が空から降ってきてね。見たら血のような真っ赤な雨で、軽くパニックになりながらも、近くのシャッターの閉まった商店の軒先に避難したよ」


思い出して気分が悪くなったのか、サラリーマンが大きく息をはく。


サラリーマンは精悍な顔立ちで、やや油ぎってる感はあるがイケメンの部類に入るだろう。


「なんなんだ、これは一体…、そう思いながら、ひたすら直ぐやむことを祈っていたよ。いつの間にかシャッター街に来てしまっていたのか、辺りの商店は軒並み閉まっていて、人通りも全く無くなっていたよ。見える範囲にいるのは俺一人だった。だんだん心細くなってきてね。


頭がボーッとしてきて自分がちゃんと起きて現実を見ているのか、白昼夢を見ているのか分からなくなってきた頃、人々の往来に気付いてハッと顔を上げると赤い雨はやんでいたんだ」


サラリーマンは疲れたように軽く首を振る。


「もしかして、赤い雨の痕跡はどこにも…」


私の言葉にサラリーマンが頷く。


「ああ、かなり降ったから、当然地面には赤い水溜まりができているだろう、そう思ったがそんなものはどこにも無かったよ。シャッターが閉まっていたはずの辺りの商店も、ずっと開いていたかのように商売をしていたよ」


「そこは一緒ね。ただ、私たちが見たのは二週間前。それに、黒い人が空中にいたと思ったら、突然私たちの乗った車の前に来て、この子…糸ちゃんのお母さんが天高く連れ去られて行ってしまったの」


「そうかい…」


サラリーマンが悲しげな顔で、私を見つめる。


「俺は驚かないよ。あんな不気味な雨の中では、何が起きても不思議じゃないって思えるよ」


サラリーマンが胸ポケットを探って小さな紙片を取り出した。


そこには会社名と名前が印刷されていた。


「これ、俺の名刺。赤い雨のことを誰かに話したいけど誰にも話せなくてツラくなった時にでも、連絡しなよ。じゃ、今日はこれで」


去って行く濃紺のスーツの広い背中を見ながら、陽ちゃんが溜め息をついた。


「最初は不気味な人にしか思えなかったけど、結果いい人だったね」








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