Episode.1
大監獄
薄暗い牢屋の中に、彼女は居た。
茶髪のボブカット、銀縁の眼鏡。その奥の青い双眸は、牢の中の一点を見つめるばかりだ。唯一没収を免れた万年筆は、首からチェーンに通して彼女の鼓動と呼吸に合わせて少しばかり揺れている。
アイラ・レイン。それが彼女がこの世に生を受けた際に付けられた名である。
「......どう、しよう......」
ここに連れてこられて、一日が経過した。
たった一日だ、と思うが、今まで普通の家で暮らし、少しばかり周りより活発な女の子として生きてきた彼女には、これほど醜悪というしかない場所に押し込められた経験はない。埃っぽい空気、ところどころ苔の生えた石畳。
ついでに食事も不味い。水さえも生臭いと感じるのはどういう事なんだ。
アイラは不満をのせて溜息を吐き、目の前の檻を見る。堅牢な檻は、アイラでは壊せない。
では、ここから抜け出すにはどうするべきか。
その一。ここで労働作業を誰よりもこなし、ムキムキの身体を手に入れる。それならばこの檻も破壊できるであろうし、人もワンパンチで倒せるだろう。
ただ月日は酷くかかるだろうし、食事制限や運動に気を使って保ってきているこの身体とお別れである。
その二。隙を見て脱走。時間はかからないが、捕まった後の事は考えたくもない。そもそもこの場所から脱獄できたという話は聞いた事がない。望み薄だ。
とすると...。
「やはりムキムキに、なるしか......?」
女子としての大切な何かと、ここから脱出する事を心の天秤にかける。
ぐらぐらぐらぐらと、天秤は揺れる。白い天使の自分と黒い悪魔の自分が両隣りでそれぞれの主張を囁く。
ううん、ううんと唸っていた時だった。
「おい、女ぁっ!!」
ガンッと隣から壁を蹴る音と共に、低い男の怒声が発された。
「へひぃ?!」
突然の他人からの干渉に、アイラは頓狂な声を出して、身体をびくりと震わせる。
「へ、え、あ...、な、何でしょうか?あぁ、えっと、煩かったですか?す、すみません」
「ちょっと口閉じろ」
どすの効いた声に、アイラは両手で口を押さえた。
少しの沈黙が訪れる。
「........俺の質問に答えろ」
見えているはずもないのに、アイラはこくこくと頷くしか出来なかった。
「昨日やけに騒いでたよな。無実だとか証拠が何だとか...。お前、なんでここにぶち込まれたんだよ」
少し、アイラは息を呑んだ。それから両手を口からゆっくりと離し、一度呼吸を整えてから言った。
「私はアイラ・レイン。『G・アリステラ』の記者です。私はゴードン氏の回りを調べていたんです。今、彼は有名人で彼のゴシップなら、雑誌が高く売れるだろうっていう編集部からの提案で。私、初めてこんなにも大きな仕事の片棒を担がせてもらえるのが嬉しくて、調べ回って――、確信まで知ってしまった。知ってしまったから、ここに入れられたんです」
溢れ出そうになる思いを胸の奥にしまい込み、彼へ手短に説明する。
「はーん。お前は無理やりここに連れてこられたのか。そういう事か?」
「そう...。早く上に上がらないと、ここから脱出しないと、沢山の人が被害を受けてしまう」
「......脱走、したいのか」
「はい。...でも、私は普通の女だから。一応取材中に何らかのトラブルに巻き込まれた用にスタンガンとか持ってたけど、没収されちゃったから」
アイラがそう言い切ると、声はしなくなってしまった。
こちらへ声を掛けてきたのは気まぐれだったのだろうか。
「なぁ、俺は殺人鬼だ」
「で、でしょうね...」
難攻不落の〈大監獄〉。北アリステラ地区に建てられている、刑務所の中でも最高権威の場所だ。ここには終身刑者と死刑囚しかいないと言われている。
この世の悪を全て入れたような巣窟。
その話を知っているからこそ、アイラは脱獄出来る可能性を低く見積もっていた。
「俺が、殺人鬼でも、俺の言葉を信用してくれるか?」
切迫したような彼の声。彼女は少し悩んだ。
本当に少しだけ、だった。
「......あまりにも荒唐無稽でなければ、信じます」
「っ?......本気で言ってんのか?」
聞いてきた筈の男が大きくなった。
「俺は、人殺しで、お前を殺すかもしれないぞ...?それでもか...?」
「今の貴方は私を殺せないし、それに貴方は嘘をついていません!」
きっぱりとアイラはそう言った。
「なんで言い切れんだ...?」
「私、新米ですけど、記者です。記者が嘘と本当を見抜けなかったらおしまいですよ。だから、私は貴方が嘘吐きではないと見抜いたわけです」
相手の顔は見えないが、アイラは声の聞こえる壁の方に向かって、にっこりと笑って見せた。
「...はーん」
小さな呟きが隣から聞こえた。
ひとまず彼の求めていた言葉を返せたかな、とアイラは胸を撫で下ろす。
突然、ガンッと強い音が鳴った。隣からだ。壁を蹴ってる音ではない、どちらかと言うと金属音に近い音だ。
ガンガンっと立て続けに何度も音が鳴る。
看守は誰も来ない。こんなにも派手な音を立てていれば、慌ててここへ来てもおかしくない。
「ちょっ、ちょっと?お、お隣さん...?」
音は鳴りやまない。徐々に鈍くなってくる。
パキリ、と音がして、その内に凄まじい破壊音が聞こえた。
檻の外から、埃っぽい風が吹き出す。
「は、ひ、...へぇ?」
アイラはその光景に目を奪われていると、その白煙の中に人影が見えたのが分かった。
「ここの看守長は変わり
先程まで隣から聞こえていた声の主だ。アイラは理解した。
ゆっくりと、檻の方へ彼女は歩いた。
「そこで、俺からの提案だ。...なぁ、俺が抜け出す手助けをするなら、お前の事も助けてやる」
カラスの羽根のような黒い髪はこの数年切っていないのだろう、ぼさぼさで長い。黄色い瞳はくすんでおらず、ギラギラと輝いていた。
ここで出されている食事を食べているのだろうか、そうアイラが思うほど彼の身体は男性にしては細身だ。服の合間から覗く、白いを通り越して青白いような肌色はアイラを不安にさせる。この数年の牢獄生活で、日に当たっていないせいなのかもしれない。
記者であるアイラはその顔を知っている。
元指名手配犯、エルリック・ハルバード。主に南アリステラ地区を中心に多くの惨殺死体を生み出した、別称〈
アイラはそう記憶している。
「どうだ、記者さん。俺についてくる気、あるか?」
彼は口角を上げて、檻の外からアイラへと手を伸ばしてきた。
その手は大きく、指先は細い。
「........答えは一つね」
彼女は伸ばされた手を、ぱしんと叩いた。彼は大きく目を見開く。
「貴方は嘘吐きじゃない。貴方の話に私にはメリットしかない。なら、乗るしかないでしょう」
アイラもにんまりと口を三日月形にした。
目を丸くしていた彼は、少ししてからくつくつと彼の口の間から低い笑い声が漏れる。
「最高な答えだな」
彼は、とても満足そうに笑った。
しかし、その笑い声はすぐに止む。そして、ぐいっとアイラの細腕を掴んだ。
「俺の檻、最初の頃に脱走しようとしてひたすら蹴ってたから脆かったんだけどよ、ここはそういう訳にもいかねぇ。でも、お前ならこれくらい横になれば通れるんじゃね?」
とんでもない事を言っている事に突っ込みたかったが、それよりもかなりアイラに無理な事を言っている。
アイラの身体のどの部位を見てそう言ったのかは聞かないが、そもそも檻の間隔は人が通れるほど広くない。
「...私を軟体動物か何かと思ってる?」
「なんたいどうぶつ...」
「......タコ、イカ」
「はぁ?んなわけないだろ、お前人間じゃん」
「あー良かった。それを分かってくれてるならよかった。...ってとにかく、良くない!ここから抜け出す方法は......」
アイラは牢の中を見回す。
トイレ、薄汚れている白いシーツのベット。申し訳程度の替えの洋服。あとは、自分が身に着けている服と、首に下げている万年筆くらいだ。
とてもではないが、檻を砕くには力が弱い。
これでは協力云々の問題ではないのではないだろうか。
「...あー。お前さ、少し離れてろよ」
「へ?」
アイラはゆっくりゆっくり後ずさりした。
彼は地面に転がっている檻の残骸を拾い、重いそれを両手で持ち上げる。
「え?」
その光景にアイラは目を丸くする。彼はにやりと笑った。
「同じ硬さのものをぶちあてりゃあ、壊れんだろっ!」
「え、ちょっ」
アイラの驚きの声は、彼の生み出した破壊の爆音でかき消された。
ぱらぱらと、粉のようになった檻の破片がアイラの足元にまで転がってくる。
「...あー、やっぱ、身体なまってんな」
カランカランと、彼の手から檻の棒が落ちた。そして、肩をぐるりと回す。
「......危なかった」
あともう少し前に居たら、と考えるとぞくりとしてしまう。
しかし、外に出られるようにはなった。
アイラは半壊した檻の隙間に身体を通して、外へ出る。
そして、初めて彼の目の前に立った。
アイラはすっと息を吸って、彼を見上げてすっと手を差し出した。
彼は目を丸くする。
「...改めて、アイラ・レインよ。よろしくね、少しの間の相棒さん」
アイラの言葉に彼は面食らったような、酸っぱい物を食べたような顔をして、それから口元に薄く笑みを見せた。
「俺は、エルリック・ハルバード。殺人鬼だ。よろしく頼むぜ、記者さんよ」
「記者さん、じゃなくてアイラでいいよ。呼びにくいでしょ?」
アイラが少し笑うと、エルリックは「そうか」と小さく呟いた。そして、ふいと目線を反らし、
「......俺は、エルでいい。行くぞ、アイラ。ここから出てった奴等はみんな、看守共が来る扉の方へ行く。まずはそっちの方へ行こうぜ」
「分かった!」
アイラは素直に頷いて、先導するエルリックの後ろを追う。
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