懸河 06

 それから、ユエはしっかりとした意識を取り戻し、自らの状態を理解した。

 端的に言えば、副作用により下半身が動かなくなっているというユエの予想は的中していた。

 ユエは立つこともままならなくなっていた。頼れるものがあれば何とか数歩は歩ける程度だ。

 駆ける事はもう出来ない。

 1人、感傷に浸っていると、扉がノックされて、

「おい、飯だ」

 ウィルソンがお盆にご飯を乗せて入ってきた。

 そんなユエの家に住み込みでサポートをしてくれるようになったのは、ウィルソンだった。動くようにと足を揉んだり、料理を振る舞い、鍛冶屋に宛をつけて車椅子を買ってきたのには、流石のユエも驚いた。

 更に、カウンターの内側に特設の席を作り、身をかがめればある程度の物が取れるように作り直した。

 ユエにとっては有り難かったが、何故彼がここまで気遣ってくれるのか、分からなかった。

 確かにユエはウィルソンを助けた。しかし、それは気まぐれの範疇であり、恩を売りたかった訳では無い。さっさといなくなってくれてもいいのだ。

「ねぇ...」

「あ?」

「どうして...、君は...。私に優しくするの?」

 だから、ユエは底の見えない優しさに慣れてしまう事が、恐ろしいのだ。注がれなくなったその時、自分が耐えられるとは思えないから。

 ユエの言葉に、ウィルソンは僅かに眉を寄せる。そんなもの、恩返し以外の何物でもない。だがそれ以上に、

「.........多分、好きになったからだと、思う」

「...............は?」

 唐突なウィルソンの言葉に、ユエは目を瞬かせる。

「確かにお前を生かす事で、俺は美味い血が飲めるのは事実だ。でもそれ以上に、俺はきっと好きになったんだと思う。だから...、壊れないように優しくしたい」

「な、な.........っ!」

 唇を震わせるユエに、ウィルソンはぼんやりと、あぁこういう表情もするのか、と思った。年相応で、大人ぶっていない子どもの表情。

「...なぁ、もうここに住んでもいいだろ」

「へ?!」

「その方が良いだろ。1人じゃ何もかも満足に出来ねぇだろうし」

 それには反論出来ない。

 厨房で料理を作る為に至るところに椅子を乱立させなければならないし、客の元まで料理を運ぶまでにも手すりや零さないような努力も必要だろう。

 他にも、普段の生活でさえ今の自分ではままならない。

「ユエ」

 ウィルソンがユエと名を呼ぶ。

 それが、初めてウィルソンが『ユエ』と彼女を呼んだ瞬間だった。



「俺がお前の手足になってやる。お前は俺の血のかてになれ」



 ウィルソンの言葉にユエは更に目を丸くする。

 吸血鬼がどういう者なのかは知っている。その言葉の意味も分かる。要は『お前の手足になってやるから、血を寄越せ』という事だ。

「...俺が、お前が生きていくのに必要な事は出来る限り叶うようサポートしてやる。その代わり、血を貰う為に寿命分きっちり生きてもらう」

「私が死にたくなっても、死なせないってこと?」

「そうなるな」

「......へぇ」

 この時、ユエの胸中を渦巻いたのはたった1つの感情だった。

 それは自身の運命を憐れむでもなく、必要とされる事への嬉しさでも無い。




 ──悪くは、無い。




「.........ふふ、いいよ。契約だ」

 ユエはウィルソンの頬を優しく両手で包み込み、そして彼の頬の頂点にキスをする。

「私は今日からウィルのもの、ウィルは今日から私のもの」

 それが、初めてユエがウィルソンの名を呼んだ瞬間だった。



◆◇◆◇◆◇


 アンジュは、彼女の口から語られる事の大きさに、ただ黙って耳を傾ける事しか出来なかった。

「アンジュちゃん、今の君達は昔の私を見ているようだよ」

 ユエはニコリと笑う。その笑みには裏など無い、楽しそうにただただ笑っている。

「何も言わない、私は見守ってあげる。何の答えも提示しないよ、その手で真実を掴み取ってご覧」

「それは...、ここの資料は貸さない、という事でよろしいですか?」

「うん、そうだね。頑張って!」

 頑張らせるように仕向けているのは、他でもないユエだと言うのに。

 アンジュは何も言わずに黙っていると、ユエは口元に手を当てた。

「君なら、すぐに辿り着けるよ、アンジュちゃん。ヒントはあげよう」

 ユエはそこで一呼吸置き、今日一番の愉快そうな笑みを浮かべ、


「今のエリヤの婚約者のミカエラという人物と、この国で崇められている女神ミカエラ...。彼女らは名前以外にどういう関連があるのでしょうか?」



 ◆◇◆◇◆◇


 各市に一つずつ建てられている、王子やその使用人達或いは護衛人の住む壮大な神宮。ラファエロ市では、その神宮を見晴らしの良い海の近くの丘に建てている。

 神宮は各市毎に彩りを変えており、このラファエロ市では、聖なる色として扱われる宗教騎士団の象徴色の白と銀を主体に造られている。

 宗教騎士団の屯所が3つは入りそうな敷地内には、噴水や薔薇園、庭師がすぐに仕事が出来るように建てられている小屋と移動に用いる馬車と馬小屋がある。それらを通り過ぎれば、神宮の本殿だ。

 白銀と輝く建物は、清廉さと美しさを兼ね備えている。大量と言っても過言では無い大きな窓とステンドグラスは月の光を浴びて煌めき、中に入れば水晶で作られたシャンデリアが揺らめき、床には真紅のカーペットが敷かれている。

 そんな神宮の最上階。そこにエリヤ・ルシフェル=カスティアーナ王子とその婚約者であるミカエラは愛を育んでいた。

 恐らく一般市民の年収はあっさりと軽く超えるであろうスワロフスキーのワイングラスに、これまたかなり高価そうな赤ワインが注がれていた。金で彩った赤い布のかけられた机には、酒のつまみには似つかわしくないお菓子類が置かれていた。

 高級感溢れる真紅のソファに腰掛け、エリヤは隣でワインを優雅に口に運ぶミカエラに視線を注いでいた。

「ミカエラ......、美味しいかい?君の為にその赤ワインは用意したんだ」

「えぇ、とても美味しゅうございますエリヤ様。このミカエラの為に、ありがとうございます」

 ミカエラは柔らかく微笑み、ワイングラスを机に置いた。

「エリヤ様...、本当にありがとうございます。私、貴方様にこの生命を助けて頂けて、とても感謝しております」

「何を言ってるんだ、ミカエラ!君のように美しい女性ひとを放っておけるわけがないじゃないか!」

「あぁ、エリヤ様。本当にお優しい御方ですのね。...私、エリヤはに恩返しをしとうございますの」

「恩返し?そんなもの必要など...」

 エリヤはそう言うが、ミカエラの首を横に振るった。

「私の気持ちが収まりませんわ」

「そ、そうか......」

 エリヤはミカエラからの見返りを求めて、彼女をあの洞窟から救い出し、こうして婚約者にした訳では無い。

 彼女の美しい容姿に惹かれ、更に口を開いた時に漏れた小鳥のさえずりのような声に耳を奪われ、彼女の愛らしい瞳に目も奪われ、彼女という存在に心臓を奪われたのだ。

「ねぇ、エリヤ様。お嫌いな方はいらっしゃいますか?嫌いでなくともいい、苦手であったり、邪魔であったり、......そういう御方はいらっしゃいますの?」

 だからこそ、ミカエラの今の言葉と見た目に、違和感を覚えた。

「私の食事は人の生気なのは、エリヤ様はお知りですよね?」

「あ、あぁ」

「ですから、私の食事に今私の申し上げた人間達を連れてくれば良いのですわ。王子である貴方様のお誘いを断れる人間は、このラファエロ市にはいないでしょう?」

 その作り込まれた顔の笑みは、彼女の口から吐き出された言葉によって狂気を孕んでいるように見える。

「だ、だが、」

 それは何かがおかしい、と口にする前に、ミカエラの紫苑の瞳がエリヤの茶色い瞳を射抜く。

「大丈夫ですわ、エリヤ様。貴方は街一番の権力者。誰も逆らいません。そう、警察も宗教騎士団ですら、貴方の手中なのです。......嫌いな人間がいるのでしょう?私が貴方様へ『恩返し』として、そして私に課せられた使命である巫女として、彼等を裁きますわ」

「ミ...、カ......」

「私の言葉に耳を傾けてくだされば良いですわ、エリヤ様。結果は必ず上手くいきます。何にも躊躇う必要など無いのですわ。欲望のままに生きて、何が悪いのです?」

「あぁ.........、ミカエラ、そう.........だな」

 エリヤはミカエラを強く抱き締める。ミカエラもそれを受け入れた。

「あぁ、君は何て優しく素敵な女性なんだ!やはり、君を手に入れておいて正解だったんだ。...ミカエラ、私だけの愛しいミカエラ」

「はい。このミカエラは、エリヤ様だけのものにございます」

 エリヤとミカエラは、更に強く抱擁し合う。


 その間、お互いにお互いの顔を見る事は出来ない。

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