懸河 05

 ユエはまずウィルソンの文通相手を探し始めた。

 ウィルソンから手紙を1つ貰い、それから僅かに香る香水の匂いに気付き、最初は香水を売る化粧品屋を巡った。そこからある1人の女性に辿り着いた。

 その香水自体、好みの分かれるものかつこの貧民街では高価なものなので、すぐに身元を特定出来たのだ。

 次にその人間が裏社会に属する人間であるのか、知り合いの情報屋に聞いて回った。すると、2・3人の口からとある麻薬密売組織の名前が挙げられた。彼女はそこの幹部レベルの構成員らしい。恐らくハニートラップ要員なのだろう、とユエは推察した。

「さて、と」

 そんなこんなで調べ上げて早2ヵ月も過ぎようとしていた。ようやく彼女がいると思われる組織の総本山を突き止めた。

 彼との約束の3ヶ月まであまり日はない。

「どうしようかな」

 ユエは彼らの処遇を決めかねていた。

 このまま立ち去っても構わないだろう。放っておいてもいいかもしれない。警察に突き出して英雄気取りをしたいと考えるような人間でも、ユエは無かった。

 だが、このままにしておくのも嫌だと思った。

 ユエは身元がバレぬように持ってきていた黒のネックウォーマーを目元辺りで固定し、軽く屈伸運動してから開いていた窓から中へ潜入した。

 中は麻薬草であると思われる薬草が栽培されていた。

「火をつけたら...、危ないかな」

 ユエはそう思い、所々に建つ支柱に身体を隠しながら、辺りを見回していく。

「...制御装置...、かな」

 そこで、吹き抜けになっている下の階に複数のボタンが付いた機械が置かれていた。

「...この薬草、もしかして温度調節が必要なのかもしれない」

 ユエは近くの鉄骨を掴み取り、身体を思い切り振って機械の元へ降り立った。

「さぁてと」

 ユエにとって、機会操作は十八番(おはこ)と言っても過言では無い。何度か触って要領を得ると、まるで何年も使っているように操作していく。

 装置を全て切った時だった。ビービーッ、ビービーッと静かな空間を劈く音が鳴り響く。

 ─これは想定外だ。

 口の中で舌を打ち、ユエはすぐ様その場を離れようとしたが、時すでに遅し。

 構成員と思しき人間が逃げ道を塞ぎに次々と来ていた。

「あーあ...。ツイてないなぁ、私」

 そして、攻防戦が幕を開けた。


 ユエは決して戦闘が得意な人間では無い。だが、神兵になろうと努力していただけあり、その技術は第12師団に所属出来る程度の実力を手にしていた。

 ナイフを男の頬に突き刺す。よろめいた男から拳銃を奪い取り、3発撃つ。ユエの頬を弾丸が掠める。無視して、横の人間の腹部をまた突き刺す。そして蹴り上げ、周りがそれに気を取られている内に殴りつけ、また3発撃つ。拳銃を投げ捨て、次の拳銃を。ナイフが腕や身体を切りつけてくる。更に足に被弾する。痛みに顔を顰める。

 しかし、止めない。舞う血の中で、彼女は舞い踊る。

 が、それにも終わりが来た。

 ユエは目の前の事に囚われすぎ、頭上からの狙撃に気付けなかった。


 バン


 それは銃声であり、組織が保険をかけていた爆薬が爆発を起こした音と、ほぼ同時に鳴り響いた。

 ユエの身体はかしぎ、下へ落ちた。それは薬草を入れて運ぶ為に使われるのであろう木箱の上へ落ちた。

 追い打ちをかけてくる人間はいない。誰もがもう、自分の生命を守る事に必死になっている。

「ふー...ふー...」

 ユエは木箱にもたれかかり、焼けた木々や逃げ遅れてしまった人間の焼けた肉のような匂いが、彼女の鼻先を掠める。

 このままここに留まれば、焼け死ぬ事も出来る。

「.........死、かぁ」

 何でもない、彼女が陥れた人間が呟く言葉だ。しかし、ヒタヒタと近付いてくる恐怖にユエは身体の震わせた。

 まだ、生きていたい。両親の元へは、まだ行けない。

 ユエは震える手でポーチを開け、透明な液体が入った注射器を取り出す。それを細腕に打った。

 一滴残さず体内へ流し込み、空になった注射器を投げ捨てた。

 しばらくすると、妙な興奮とエネルギーが身体中を駆け巡り、痛みが消えた。それに気付いてからユエは足に力を入れて立ち上がり、半ば這い蹲うようにその場を後にした。

 建物からある程度離れ、ユエは人通りの少ない路地に倒れ込む。もう立てなかった。力を込めても無理だ。

「......副作用、か」

 ユエは身体を起こす事などもせず倒れたまま、意識の流れに身を任せた。


 ◆◇◆◇◆◇


 ウィルソンは目を丸くして、燃え尽きていく建物を眺めていた。そこは、文通相手に来てくれと言われていた建物だったからだ。

 野次馬の話を盗み聞きする限り、そこは麻薬密売組織の所有していた建物だという。そこで、ウィルソンは気付いた。

 文通相手の女性に、騙されていたのだ、と。恐らく消防士がすぐに来るくらい目が付けられていたのだろう。だからウィルソンになすり付けようとした。

 ウィルソンは奥歯を噛み締め、踵を返して〈夢遊館〉へ帰る。

 帰り道、ウィルソンはトボトボと歩く。偽りであったとはいえ、初めて向けられた好意の裏切りに、悲しみを抱かずにはいられなかった。早く帰り〈夢遊館〉で待とう。

 3ヶ月の約束ももう少しで終わると言うのに、彼女はいつ帰ってくるのだろうか。

 そんな取り留めもない事を考えていた時だった。ウィルソンの鼻に甘い匂いがくすぐった。

 甘い匂い。作られた菓子類の匂いではない、何らかの果実の匂い。何の果実かは定かではないが、甘い。

「何だ...?」

 ウィルソンは興味本位にその方向へ向かう。そこは麻薬密売組織の建物から直線距離でさほど遠くない裏路地。

 そこにユエが倒れていた。

「っ!?」

 おびただしい血の量だと言っていいだろう。彼女が辿ってきたらしい道には血の道が続き、身体中に傷を負い、気を失っている。

 そんな彼女を見て、ウィルソンの頭の中に占めた思いはただ一つ。

 ユエの血を飲みたい。

 3ヶ月間。言われた通りに店を切り盛りし、それに加えて誰の血も飲んでいない。乾いた状態のウィルソンにとって、今のユエは都合の良い餌以外の何物でもない。

 傷口に軽くキスをし、それから辺りにこびりついた血液を舐めとっていく。初めは手、その次に腕。足、首、頬。そこでウィルソンは気付く。

 彼女の身体から香る甘い匂いに混じる硝煙の匂いが、先程の建物の近くで嗅いだ匂いと同じだったのだ。

 ─こいつ、俺を助けようとしたのか...。

 きっとユエが条件を提示し、ウィルソンを引き止めなければ、組織の一員として警察に捕まっていたはずだ。そしてその内に異教徒である事がバレてしまい、魔女裁判にかけられていたかもしれない。そうすれば死刑─死んでいただろう。

「......なんで、お前....、俺を助けたんだよ」

 ウィルソンの質問に、ユエは口を閉ざしたままだ。

 ある程度出血が目立たなくなった彼女の身体を上着で包み込み、〈夢遊館〉へ連れ帰る。

 流石に部屋へ入っていいだろう、とウィルソンは初めてユエの部屋の扉を開けた。そして、その部屋の様相に目を見張る。

 異常なまでの紙の束が、部屋の大半を占めていたのだ。

『ラファエロ市歴書 改訂』の写本らしいもの。ユーピテルの史学が事細やかに書かれた文章、地図、赤い文字で書き込みのされた書物の写し。どう見ても手書きのユエの文字なので、1冊ずつ借りてきては写し取ったのだろう。

 そんな写本が大量に積み置かれていた。

「う......ん......ぅ」

「っ!......起きたか」

 薄く目を開けたユエにウィルソンは声をかける。彼女はどこか不思議そうに視線を泳がせながら、辺りを見回していた。

「.........こ、こ.........」

「文句は後で聞いてやる。寝とけ」

 ウィルソンのその言葉に、ユエはまた気を失ったように、瞳を閉じて身体の力を失った。

 彼女の身体をベットに寝かせ、桶にお湯を入れタオルで身体を拭いてやる。少し躊躇う気持ちもあったが、まだ13歳の少女だ。手早く全身を拭いていった。

 その作業をし終え、ウィルソンは部屋の椅子をベットの近くに運んで、腰掛ける。

「.........本当、死人みてぇに白いし、細ぇな」

 ウィルソンはブツブツと言いながら、暇なので彼女の机の上に置かれた紙束を手に取る。

 赤い文字が恐らく彼女の見解なのだろう。『ミカエラは存在する可能性高い』『封印?』『断罪天使が有力?』と至るところに殴り書きされている。

 そこでウィルソンは理解した。彼女があっさりと彼を異教徒であっても受け入れた理由。脅されて怯えて飲み込んだ理由ではなく、既に彼女の思考は異教徒のそれだったのだ。

 女神ミカエラを盲目的に信奉している信者ならば、あっさりと宗教騎士団に通報しているだろう。

 ウィルソンは運が良かったのだ。それも物凄く。

「......ん」

 寝惚け眼のユエの藤紫の瞳が揺らぐ。

「ん?何かいるもんでもあるのか?」

 ウィルソンがユエの目の前に手をちらつかせる。最初はぼんやりと眺めていただけだったが、突然その手の手首を掴み、枕のように頭の下に入れた。そしてそのまま目を閉じた。

 その行動にウィルソンは目を丸くして、顔を赤くさせる。

「......中身はまだまだガキか」

 ウィルソンは呆れたように溜息を吐いた。引き剥がそうかとも考えたが、

 ─まぁ、たまにはこういうのもいいか。

 彼女が起きるまで、ウィルソンはずっとその体勢のまま待っていた。

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