月烏 03

 小鳥のさえずりでアンジュは目を覚ました。

 目の前に広がっているのは、焦げ茶色の木の天井。自室ではない事はすぐに分かる。アンジュの自室は、白い壁で1面が覆われた部屋だからだ。

 アンジュは身体を起こして、"違和感"を感じた。

 まず1つ目。自身の身体を見てみると、服装が異なっていた。黒のワイシャツに、藍色の七分丈のピッタリとしたズボン。アンジュはこんなものを持ってはいない。

 2つ目。右腕の部分が包帯が巻かれて手当てされている。アンジュには、自分の腕を手当てした記憶は無い。

 アンジュはゆっくりと立ち上がり、部屋を見回した。

 広さは自室の半分くらいだろうか。アンジュの寝ていたベットと机と椅子。どれも木製だ。それだけで部屋の大半が埋まっている。窓から見える景色は海。だが、昨日まで居た彼女の仕事場であった教会は見えない。

 そっと、アンジュはドアノブを回して、扉を開けた。そこは、更にもう2室程部屋があり、下へ下りる階段がある。これ以上上へ上がる階段は無いので、ここは2階建ての建物らしいと分かる。

 ゆっくり、左手で手すりを持ちながら、階段を下りていく。

 どうやらここは酒場か何からしい。

 丸い木材テーブルが複数個置いてあり、椅子もそれに見合う個数が置かれている。照明は窓外の明かりを入れているようで、点けられていない。店に小さく流れているのは、ジャズミュージックのようだと分かる。

「やぁ、おはよう」

 そこで唐突に声をかけられ、アンジュは後ろを振り向いた。

 そこにいたのは女だった。アンジュとほぼ同い年くらいだろうか。きっちり眉辺りで切り揃えられた前髪に肩あたりの長さの黒髪を持ち、藤紫色の瞳をしている。白地に薄く空色のチェック柄が入ったワイシャツに、黒のズボンを履いており、腰には黒のエプロンを巻き付けている。首には黒に三日月のチャームが付いたチョーカーをしていた。

「貴方は...」

「まぁ、座ってよ。朝ご飯用意してるから」

「今は...朝なんですか」

「うん、そうだよ」

 アンジュはカウンター席に座り、そこである事に気付いた。

 1つ目は机を隔てた目の前の彼女も、椅子に座っているという事。そして、2つ目。カウンターの見えにくい位置に車椅子が置かれているという事。

 アンジュはそこから導かれる事柄を訊ねる。

「歩けないんですか?」

「完全に、ってわけじゃないよ。手すりに掴まって、少しの距離なら歩けるから。ま、普段は車椅子だよ」

 そう言って彼女はアンジュの目の前に1口サイズに切られたホットケーキの乗った皿が置かれた。それから身をかがめて、蜂蜜の入った瓶とスプーンを取り出して、

「かけようか?」

「...頼みます」

 片腕を無くしたアンジュでは、硬い瓶の蓋は両手で開けられない。

 人に頼るという事はアンジュにとっては苦渋の決断であったが、頼まないと食べられないので、彼女へ頼んだ。

 彼女は嫌な顔一つせず、瓶の蓋を開けて蜂蜜を掬ってかけた。

「腕を失ったばかりだろうから、刺す動作からと思って、切り分けておいたんだけど...。余計なお世話だったかな?」

「いえ。お心遣いありがとうございます。いただきます」

 アンジュは左手でフォークを持ち、ホットケーキを刺して口へ運ぶ。蜂蜜の程よい甘さとふわふわの生地がとても美味しい。口周りを近くのナフキンで拭いながら、アンジュは食べていく。

「...へぇ、良いところのお嬢様みたいだね。どうして海に落ちたの?入水自殺?」

「...貴方が私を助けてくれたんですか?」

「質問に質問で返すか。まぁ、いいけど」

 彼女はやれやれ、と肩を竦めて見せると、それからアンジュの顔を覗き見るように、頬杖をついて首を傾けた。

「私は、ユエ=ワールダット。このカフェ〈夢遊館〉のオーナーをしてる。昨日君を助けたのは、私じゃない。ここに住んでる人間ではあるけど...。今は、この店の唯一の店員を連れて、君の剣の処置をしに行ってるよ。錆びたらいけないから、ってね」

 それを聞いて、愛刀であるアリアドネが無事なのを知り、ホッと安堵の溜息を吐いた。

「私は、アンジュ・リティアナ=ダルシアンです。ホットケーキ、ありがとうございます」

 ユエはアンジュの名前を聞いて、目を丸くした。

 やはりこのラファエル市ではダルシアン家は功名なのだろう。そう考えると、彼女は名前をまた誇らしく思った。が、ユエの口から漏れた言葉は、アンジュの想像とは異なっていた。

「今朝ラジオニュースで聞いたよ。〈神隠し〉に遭った、最初の神兵だってね」

「え......?」

 アンジュはあまりの事に、眩暈を覚えた。


 今まで忠誠を誓い、尽くしてきた人間からの裏切り、そして宗教騎士団からの追放。更に、右腕の消失。


 何の為に今まで生きてきたのか。もうアンジュには分からなくなってきていた。

 その空気がユエにも伝わったのだろう。ユエは気の毒そうな顔をして、しかし何も言わなかった。

「ただいま」「ただいまー」

 そこへ、カランカランと涼し気な鈴が鳴り、扉から2人の男達が入ってきた。

 1人は黒髪に黒いキャスケット帽をかぶった常磐色の瞳をした男。隣にいる男の肩よりやや上─アンジュの頭約1つ分高いくらいの身長だろう。七分丈の深緑色のカーゴパンツに、青地のシャツを身に付けている。

 もう1人は、果物や野菜を入れた茶色い紙袋を持った、白髪を一つに結った薔薇色の瞳を持つ長身の男。群青色のシャツに、黒いピッタリとしたズボンを履いている。腰にはユエと同じ、黒のエプロンを身に付けていた。

「お帰り、お2人さん」

「おー。起きたのか、そいつ」

 長身の男はそう言いながら、紙袋をユエへ渡した。ユエはそれを受け取り、「ありがとう」と言って、身をかがめた。

「起きたんだな」

 黒のキャスケット帽をかぶった青年が、長身の男と似たような言葉に言い、アンジュに目を向けた。

「え...と」

「うん、顔色も良さそうだし、大丈夫そうだな」

「...貴方が、助けてくれたんですか?」

「まぁ...、そうだ。俺は、クロウ・ルーシャ」

「私は、アンジュ・リティアナ=ダルシアンです。この度は生命を救って頂き、ありがとうございます」

「あ?それ朝の」

「お、ウィルでも覚えてたかー。えらいえらい」

 本気で言っているのか、小馬鹿にしているのか。ユエは長身の男を見て言った。

 彼はユエを睨みつけるだけに終わる。しかし明らかに彼のイライラ度が上昇しているのは、初対面のアンジュでも分かるくらいだった。

 アンジュの見る視線を感じ取ったのか、長身の男はアンジュの方を向き、

「...俺はウィルソン・ヴェルディーだ。ウィルでいい」

「分かりました」

「で、自己紹介はともかく...、昨日何で海に落ちてきたんだよ」

 クロウは何の前置きも躊躇いもなく、アンジュへ訊ねる。

「それ、は......」

 アンジュは言葉にしようと懸命に口を動かすが、それは声にはならなかった。

 あまりにも唐突で、非現実的で、信じられない出来事であったから。

 しかし、助けてくれた恩人達に何の説明もしないのは、と思い、何とか息を吐いて気分を落ち着かせる。

「私は、守護の家出身の宗教騎士団の神兵として、このラファエル市を治めるエリヤ様の守衛を勤めていました。昨日、偶然エリヤ様の婚約者と思しきミカエラ様が、少年の生気というものを吸い殺害する場面を見てしまい、師団長のアッシュさんに右腕を切り落とされ、傷心している内に落とされました」

 出来る限り簡潔に、アンジュは彼らへ伝えた。

「そんな事がねぇ...」

 ユエは成程と、頷く。他の2人も納得するように頷いた。その反応にアンジュは目を丸くした。

「......信用してくれるんですか?」

 神の使いと称されている人間を貶すような話だ。普通の信仰者ならば、即刻宗教騎士団を呼び、アンジュは魔女裁判にかけられて処刑されてしまうだろう。

 しかし、彼らはアンジュの言う事をすんなりと受け入れてくれた。

「まぁ...、俺は異教徒だしな」

「っ!?」

「何だ、もう全滅したとでも思ってたのか?異教徒は下層階級の人間が多いこの貧民街じゃあ珍しくない。宗教騎士団だって、あまりの数に余程の事が無い限り、捕まえないからな」

 クロウは何でもないようにそう言って、ヘラヘラと笑う。アンジュは初めて見る異教徒という存在に驚く。

 信仰者と何も変わらない。どこにでもいる、教会で神に祈りを捧げる人間と同じだ。それなのに、信仰者と違うだけで、淘汰される。

「...なぁ、アンジュ。お前、行く宛あるのか?」

「...家があります。...どうも、御世話になりました。後日、御礼の品を送らせてもらいます」

 アンジュはそっと立ち上がり、踵を返して玄関から出ようとしたその足を、

「待てよ」

 クロウは止めた。

「死にたいのか?」

「助けて頂いたのに、すみませんが...、初対面の貴方にとやかく言われる筋合いは無いです」

「頭も常識無ぇんだな!」

「何っ?」

 2人は視線をかち合わせ、火花を散らす。

「考えりゃあすぐ分かるだろ?既に始末した人間が「帰りましたー」とか言って来たら、宗教騎士団へ連絡されるぞ?そして今度こそ確実に仕留められる。それに、親に訴えても頭の硬い人間や盲神教者からすれば、お前の言葉は絶対に信じないだろう。つまり、魔女裁判にかけられて死んじまうだろうな!」

 クロウに言われて、アンジュは唇を噛み締める。確かに彼の言う通りかもしれない、とアンジュは言い返せなかった。

「...なぁ、アンジュ。お前が見たのは、本当なんだよな」

「...どういう事ですか?」

「生気を吸ってた、っていう話」

 クロウの目は真剣そのものだった。アンジュは頷く。

「恐らく真実でしょう。アッシュさんにも否定されませんでしたから、間違っていないと思います」

 はっきりとそう言うと、クロウは考えるように顔を顰め、それから口を開いた。

「なぁ、手を組まないか」

「は......?」

 唐突な提案にアンジュは目を丸くした。

「俺の妹が、先月〈神隠し〉に遭ったんだ。宗教騎士団の人間は早々に捜査を打ち切りやがって...。俺は何か裏があると思って、この情報屋の多い東貧民街に身を寄せている。もし、妹が殺されたんなら...、俺は復讐したい」

「それと、私に何の関係があるのですか?」

「お前は復讐したいと思わないのかよ。片腕...、剣持ってたって事は利き腕を奪われたんだろ?一生戻らないのに...。それなのにお前は何も思わねぇのか?」

 クロウにそう言われ、アンジュは瞼を閉じた。

 右腕を失ったあの瞬間を考えれば考える程、フツフツと涼やかに怒りの感情が湧き上がってくる。

 否、怒りというよりも憤りに近い。何故、罪の無い信仰者の生命を奪った人間が神の名を語り、生命を奪う事が許されるのか。許されることでは無い筈だ。

 アンジュは、ゆっくりと目を開ける。

「......悔しい、と思っています。右腕を失った事は許し難い事です」

「だろ?だから、手を組もうぜ」

 クロウはニヤリと笑った。

「この国をひっくり返すんだ。この世には神なんていないって事を、俺らで証明してやろうぜ!」

 それからアンジュへ笑みを浮かべて、クロウは手を差し伸べた。




「俺がお前の右腕になってやる。お前は俺の頭脳になれ」




「......命令口調で私に指図しないでください。あくまでも私と貴方の対等な関係での契約です」

 アンジュは、差し伸ばされたクロウの手をパシンと叩いた。

「了解、相棒」

「よろしくお願いします、クロウ」

「おやおや。アンジュちゃん、ここで暮らす感じ?」

「あ......。何処かに宿取らないといけないですね」

「いや、あの部屋を使っていいよ」

 ユエはニコッと笑って、ウィルソンを見上げた。ウィルソンはやや目線を合わせ、ユエへ気持ちを伝える。

「ウィルもOKだって。その代わり、〈夢遊館〉の手伝いもしてね。3食付きが更にもう1人増えるから稼がないといけないし」

「勿論です」

 ユエの提案にアンジュはすぐに頷いた。そして、改めてクロウに目を向けた。彼もまたアンジュを見ていた。

 そして、どちらからともなく2人はまた拳を合わせた。


──カチリ、と。アンジュの運命の歯車が動き始めた。

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