月烏 02

 夜。このラファエロ市の夜は夏でも肌寒い。

 アンジュは、白いワイシャツに黒の上着を羽織り、足のシルエットを示すような、ぴったりする濃い紫色のパンツを履いていた。宗教騎士団の人間である事を示す為の、銀色の十字架クロスのデザインをしたピンを襟に付けている。そして、護身と警備も兼ねて腰には愛刀─アリアドネを差している。

 目指すのは、資料室。何となく今の自分の考えをまとめたいと思い、置かれている古い文献に触れたいと思ったからだ。

「...ミカエラ、連れて来たよ」

 その時、エリヤの声がアンジュの耳に届く。それはここにいるはずのない、人間の声だった。

 ここには確かに1室程部屋がある。だが、それは王子の寝泊まりする部屋では無い、単なる部屋のはずだ。

 アンジュは薄く開いた扉から、中を覗く。そこにはエリヤと彼の隣にいた人形のような見た目をしていた女がいた。

 エリヤが薄く笑いながら、高級感漂う紅色のソファに座った女─ミカエラに恍惚とした声音でそう言う。

「ありがとう、エリヤ様」

「君の為なら、これくらいなんて事ないさ」

 エリヤがすっと身を避け、少年の背を押した。少年の顔はオドオドしている。このラファエロ市のトップに呼ばれ、背を押されているのだ。信者ならば、恐れ多いと思って当然だ。

 アンジュはその少年を知っていた。今朝、一番乗りだと言った灰色の髪の毛の少年だった。

 ミカエラはソファから下り、膝をついて目線を合わせ、少年の肩に優しく触れる。

「大丈夫よ、坊や。私は神に仕える、言わば巫女。ミカエラ、という者よ。今、貴方には悪魔が取り憑いているの」

「えっ!!?」

「しかもそれは周りの人を不幸にしてしまう、最低な悪魔よ。このままだと、坊やは魔女裁判にかけられてしまうわ」

 その言葉を聞き、少年の顔は恐怖に歪み始めた。

 当たり前だ。魔女裁判という言葉は直結して死を連想させるのだから。

「安心して。私は悪魔を魅了して、身体から引き離す事が出来るから。坊やを魔女裁判にかけたくないのよ。だから宗教騎士団の人に内緒で、エリヤ様に連れてきて頂いたの」

 恐怖に染められた少年の顔は、次第に安らいだ顔になり始めた。

「それじゃあ、少し痛いかもしれないけど、我慢してね」

 ミカエラは少年へ微笑み、少年の目を見た。ジッと黒く純粋な目を見続ける。ミカエラはペロリと唇を舐めた。

「う.........うぅ......っ!」

「目を閉じないで。頑張って」

 苦しそうな少年の歪んだ顔を、エリヤは目を開くように手で押さえる。小さな呻き声は、アンジュのいる外まで聞こえてきた。

 やがてその声は聞こえなくなった。少年はぐったりとしており、ピクリとも動かない。まるで死んでいるように。

 それなのにも関わらず、そんな少年を無視して、ミカエラは再度唇を舐め、それからエリヤに恭しく一礼した。

「ありがとうございます。やはり若い人間の生気は美味ですわ」

「気に入ってもらえて嬉しいよ」

 狂っている、とアンジュは思った。人を殺しておいて、死んだ人間を無視するなど。

 扉から後ずさった時、トンと背中に何かが当たった。慌てて振り向くと、そこには、

「し、......師団長」

「見たのか、ダルシアン」

 鋭い目つきでアンジュを見下ろすアッシュがいた。その口振りに、アンジュは気付く。

「...師団長は、お知りなんですか」

「エリヤ様の側近だ。勿論知っている」

「と、止めないのですか!?罪の無い人間がっ!」

 そこでアンジュは更に気付いてしまった。

「...まさか、神隠しは...っ!」

「そうだ。ミカエラ様の食事として捕らえた人間だ。誰が〈神隠し〉と言い出したかは知らないが、お陰で助かっている」

「...狂ってる」

「そうかもしれないな。だが、ミカエラ様は我らの国神。神が要するものは、世界をより良くする為に必要な生贄だ」

「間違ってる...。そんなのは、生贄とは違います。ただの犠牲者です」

 アンジュの震えた声に、アッシュは何も言わずに剣を抜いた。

「アンジュ・リティアナ=ダルシアン。非常に残念だ...。君はとても優秀な守護の神兵だったからね。しかし、せめてその働きに対して...、楽に殺してやろう」

 アンジュは目を見張って、しかしすぐに剣の柄に手を置いた。その行動にアッシュは驚いたように目を丸くする。

「ダルシアン...。君は聡明な人間であったはずだ。もしや、勝てると思っているのか?」

「...いえ。とりあえず逃げます。こんなの...、本当の神に背いています!」

「させんっ!」

 アッシュはブンッと剣を振るう。アンジュは剣を抜いて、下から上へ剣を弾くように動かす。しかし、彼の剣はビクともしない。アンジュが小さく舌を打ち、更に素早くかつ小刻みに振るう。

 しかし、アッシュに大した傷は与えられず、アンジュはどんどん端に追い詰められていた。

 男女差。力量差。経験不足。どの点に置いても、アッシュの方が勝っている。

「この......っ!!」

 アンジュが得意の鋭い突きを放った瞬間、


「甘い」


 ぼとり、と。伸びていたアンジュの右腕が落ちた。

「え............?」

 アンジュはその光景に目を見張る。現実味のない、自分のアリアドネを持つ右腕が目の前に転がっている状況に、頭は追いついていない。

「さらばだ」

 そのまま、アッシュはアンジュの右肩を突き、アンジュの力の抜けた身体は下へ、海へ落ちていった。

 ドボン、とアッシュの耳朶に水音が入ってきた。

 瞳を閉じて、アッシュは血を払い飛ばし、レイピアを鞘へ収める。

「おい、アッシュ。部屋の前でうるさいぞ。何か遭ったのか?」

 そこへ、ミカエラを連れたエリヤがいた。アッシュは素早く落ちている右腕も下へ落とし、振り返って頭を下げる。

「少々...、五月蝿い鳩が居りました。ですが、逃がしましたので、ご安心を」

「そう...。ねぇ、エリヤ様。私、エリヤ様とお茶がしとうございますわ」

「そうか。早速用意させよう。アッシュ」

「お部屋へお持ちいたしますので、お待ちください」

 アッシュはそのまま、さっさと歩いて行った。


◆◇◆◇◆◇


 黒髪に黒いキャスケット帽をかぶった常磐ときわ色の瞳をした青年─クロウ・ルーシャは、港を歩いていた。

 彼は、この近くを生業とするスリだ。

 彼の家はここからもう少し歩いた、のっぺりとした灰色の建物が群集している、ラファエル市の東地区の貧民街にある。拠点とする家は港から行く方が近いので、いつものように近道で帰っていた。

 そしてまたいつものように、クロウは丘の上にある白い教会を見た。

 あそこにお偉いさんがいて、俺らみたいな貧乏人を見下して笑ってるんだろうな、といつもと同じようにクロウは思う。

 だが、今日はいつもとは違った。

「...何だあれ?」

 彼はそこで見た。何者かが襲われているところを。彼からの距離では金色の髪をした、人間という事だけしか分からない。

 そして、その人間は...、海へ落ちた。

「はっ!?」

 いつもとは違う非日常に、クロウは目を見張る。ドボン、と音がして、大きな水飛沫が上がる。

「...っマジかよ...!」

 クロウは取り分け、親切心や正義感の強い人間では無い。だからと言って、目の前で起こった事を見放す程、人間が出来ていない訳では無かった。

 クロウはキャスケット帽を深くかぶり直し、走る。それからザバザバと水の中に入り、かき分けて、金髪の人間に近付く。近付いて、彼は落ちてきた人間が女だと分かった。

 しかしこの人間が金髪で良かった。もし、闇に溶ける色だったならば、気付かなかっただろう。

 幸いにも、クロウの足がつく程度の位置に落ち、クロウは彼女の身体を抱き寄せ引き上げる。その時、またドボンと何かが落ちてきた。

 クロウは彼女の身体を浜辺へ置き、もう一度その場へ行ってみる。そこには、剣を握った右腕があった。

「は.........っ!?」

 あまりにも非現実的で、クロウはそれを落とす。が、彼はゆっくりと落ち着けるように息をつき、腕に握られた剣だけを取る。それから女の元へ歩いて行く。

 クロウは少しドギマギしながらも、女の身体を見た。

 決して、透けた服の下の下着などを見ようというやましい気持ちでは無い。

 見てみると、やはり右腕は無く、白いワイシャツが血に濡れ、染みを広げていた。襟につけられた銀色の十字架から、彼女がラファエル市の宗教関係の職に就く─つまりクロウにとっての敵である、と分かった。

 このまま捨ておこうかとも考えたが、クロウは何とか彼女を背負い上げる。

 それからズルズルと、いつもの倍も時間をかけて家路についた。

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