第22話 心
何に腹を立てているのか、自分の感情だというのに分からなかった。
ただどうしようもなく、無性に苛々としてしまうのだ。
敬愛していた主、ローズベリは命を失ってしまったのに、メイアンは記憶がなく魔法が使えないからとあんなにまで過保護に守られて。
彼女が強いから。それは守らなくても良いという事にはならない筈なのに。
「アズリナさん、やけに暗いぜ顔」
ネイルに声を掛けられ、桃を掴んでいた手から視線を上げ、彼の方へ視線をやる。
「........いつも通りかと、思いますが」
「それでいつも通りなわけないだろう。喧嘩か?黒薔薇の主人様と」
ネイルはちろちろと炎のような舌先を出して笑う。アズリナは僅かに眉を顰めたが、それ以上は何も口にしなかった。
「...あの子はどうだ?メイアンくん、だったか?」
「...メイアン様を、知っているのですね」
アズリナは少し不思議そうに首を捻った。
それを見たネイルがノルチェと一緒に来た経緯を話した。アズリナはてっきり近場の場所で頼んでいた青果を買っていたとばかり思っていたので、まさかやや遠いここにまで来ているとは考えていなかった。
今、出してほしくはない名前に、アズリナは小さく顔を顰める。
「...聖眼、だろう?」
そして、その言葉にアズリナは目を丸くした。
聖眼。何故知っているのだろうか。
「っははは、いやぁ、フードの下から僅かに見えたんだよ。黒目の奥の紫色の宝石の輝き」
聖眼は、その瞳の奥に宝石の如き煌めきを持つ。膨大な魔力を持つが故に人々を無作為に引き付け、その力が叶えるものは計り知れない。
瞳の色までローズベリとメイアンは同じであるから、アズリナにはさらに二人を重ねて一人で悩んでいるのかもしれない。
だから――、気付けなかったのかもしれない。
ぱしり、と腕の一つが取られた。アズリナが後ろを振り向くと、急に口元を押さえられてふわりと甘い香りが鼻を掠めた。
途端、急激に身体の力が抜けていき瞼が重たくなっていく。
「...驚いたよ、聖眼を持つ者が自ら顔を見せてくれるとはねぇ」
今まで聞いた事もないネイルの嗤う低い声に、アズリナは消え行く意識の中でただただ歯痒く思っていた。
「...メイアン、その文字読み違う」
「うぇ?!」
部屋の中、ノルチェはメイアンの書き留めていた文字を指差した。メイアンは小さく唸って、難しいと一言呟く。
そこへやや大きな音で扉が開いた。二人が目線を向けると、エプロンを付けたままでリーフェイが立っていた。
「どうしたの、リーフェイ」
「アズを見んでしたか?買い物に行ったきり、帰ってきてないんです」
「アズリナさんが?」
ノルチェも訝し気な顔をしていた。メイアンも不安げな顔になる。
メイアンの知るアズリナの性格上、あまり寄り道をするような人ではないし必要な事以外はしないようにも見える。何かに巻き込まれたのではないだろうか。
「...そっか、ここに来てないか。ニアの部屋にも行ってないようやって...。外か?」
悪かった、と言ってリーフェイはメイアンの部屋から歩いて出て行った。
「...アズリナさん..................」
「...大丈夫」
不安がっているメイアンを宥めるように頭を撫で、ノルチェはフワッと微笑んで見せる。
その笑顔が上手く作れていないのに、メイアンは気付いた。
リーフェイは顎を擦って眉を寄せると、そのままスノーブルーがいるであろう薔薇の庭の方へ向かう。
出て行く直前に見せていた無表情の中にも存在していた暗い顔を思い出すと、まだメイアンの事や自分の心について悩んでいるのだろうと考えるのは想像に難くない。
従者の中では古参に入る者同士、絆は強い。それとなく言えば口を開くだろう。
強そうに見せて、胸の奥に一人で飲み込んで悩んでしまう彼女の事は、従者の中でもよく分析できている方だった。
甘い物と紅茶を添えて、彼女の心を少しでも軽く出来たら良いと思う。
玄関ホールへ向かうと、パタンと小さな音が聞こえてきた。階下を見下ろすと、バスケットに野菜や果物を入れたアズリナが帰って来ていた。
「アズ!」
声を掛けて手すりで滑って一階に降りると、アズリナはいつもの無表情で立っていた。
すたん、と降りてカツカツと近付く。
「もう、心配かけさせんといてください。ただでさえ、」
「ごめんなさい」
アズリナは深々と頭を下げ、それからゆっくりと顔を上げた。そこでリーフェイは彼女の赤紫色の瞳が淀んでいる事に気付いた。
「アズ、何か」
目がおかしい、と訊こうとした時、スッと腹に冷たい温度が入ってくる。それを感じた瞬間に一気にそこから温かくなっていき、何かが伝っていく感覚と痛みが襲う。
視線を下に下げると、バスケットの下から突き出されたナイフが、深々と突き刺さっていた。
「...誰もが皆消耗している時に畳みかける。戦の定石だろう?」
アズリナの口調とは全く違う言い方に、冷酷に微笑むその表情。
「ッキ」
赤い光を用いて傷をすぐさま塞ごうとしたが、その口にテープが貼られてしまう。それを剥がそうとしたが、傷口を押さえていないと血が溢れて意識が持っていかれる。
アズリナはリーフェイの足をサッと払い、床の上に倒す。それから今度は後ろに視線を向けた。
「イヴ、レイ」
リーフェイがゆっくりと視線を上げると、黒い薔薇を髪の毛に差したイヴとレイが中へ入ってくる。
「......ッ」
言葉として発さないと、魔法は使えない。
アズリナを睨みつけるが、冷笑は一つも崩せずに二人の少女の方を見た。
「イヴ、レイ。お前達には期待していたんだがな、どうして
「...罰は私が受ける。レイには手を出さないでください」
イヴの言葉にレイは目を見開いた。何か文句を言おうとしていたが、それより早くアズリナが口を開いた。
「ふん、まぁいい。とにかく聖眼はどこにある。ここに何日かいたんだ、それくらいは知っているだろう?」
「...メイアン、は」
レイが言い淀む姿を見て、アズリナは冷笑を止めると彼女の身体を一蹴した。
「いいか?お前は俺の奴隷なんだ。変な考えをここで植え付けられたのかもしれないが、お前達は下の身分という事を忘れるな」
レイに駆け寄ろうとしたイヴだが、その言葉を聞いてぴたりと足を止めた。
奴隷というのはこの街では珍しくない。
不幸にも親に売り払われてしまったり、奴隷商人に捕まってしまったりして奴隷身分に成り下がってしまう。どこの族長も許していないが、裏世界では平然と行なわれている事だ。
彼女達が、そうであったのか。
「...聖眼は、恐らく上の階にいるかと。ボク達は地下で寝泊まりしていた為に上の階に上った事がないので、どこの部屋かまでは分かりません」
イヴはすっとそう言った。アズリナはふぅんと言った後に、階段の方へ上がっていった。イヴはそれを見て、床に蹲っているレイの方へ手を伸ばした。
レイはその手を取った後、何とか身体を起こし「...ありがと」とイヴに言った。
アズリナは既に二階へと上がっている。
レイとイヴは少し顔を見合わせてから、レイがアズリナの方を追って行き、イヴがリーフェイに駆け寄った。
「...傷口を」
言われるがまま、リーフェイは赤く染まっている傷口から手を離す。イヴはそこに顔を近付けて、それから大きく口を開けてそこにぱくりと齧り付いた。
歯を立てるわけではない、甘噛み程度の強さだ。
血を啜り唾液を傷口に塗り込んでいく。
ピリピリとした染みる痛みを感じながら、彼女の行動にただただ驚愕していた。
とんとん、というノック音に、ノルチェとメイアンは顔を上げた。
「はい」
部屋の主であるメイアンが応じると、ゆっくりと扉が開いてアズリナが部屋へ入って来た。
手に、血に汚れたナイフを持って。
それを見てノルチェは僅かに目を開眼させ、それから急いでメイアンを己の背の後ろに隠した。
やはり畳みかけるように何度も襲撃する事で、こちらを疲弊させてメイアンを―聖眼を無理やりにでも手に入れるつもりらしい。
ノルチェは静かに頭を動かすが、もう一方ではアズリナの態度の急変に戸惑っていた。この状況がなぜ生まれているのかが分からない。
「あ、あずりな、さん...っ」
メイアンも、驚愕するしかなかった。
「...お前が、聖眼か」
メイアンを物として見ている言い草に、ノルチェは眉を寄せる。リーフェイの騒いだ様子はないので、彼は気付いていないのかもしれない。
「アズリナさん、なの?それとも、誰?」
「...お前に構っている暇はない、小娘。怪我をしたくなければ、さっさと聖眼を渡せ」
いつもと全く違う物言いに、ノルチェは唇を噛むしかなかった。
遠慮容赦なく力を振るってやりたいが、相手はアズリナなのだ。中身は彼女でないとしても、傷付いてしまうのは彼女の身体だ。影で縛り上げてもいいが、それで穏便に済むとは考えられなかった。
「...お前が誰か知らないけど、メイアンは殺させない。私は、命に代えてもメイアンを守るよう主に言われている」
ノルチェはグッと拳を握る。
アズリナとノルチェの視線の交わし合いを見て、メイアンはぐっと拳を握った。
また、守られてしまっている。
「ほう、あくまでも好戦か、小娘」
「当たり前」
どちらが動くかは分からない。
緊迫した空気の中、
「ッらぁ!」
アズリナの背後からレイが襲い掛かった。
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