第21話 自分とは何者か
拳が振るわれる。空気が強かな音を鳴らし、額から汗が落ちていく。
「...........なんで、ボク達がこうして歩いていていいんだよ」
レイは頬杖を付いて、ぐっと思い切り眉を寄せていた。その横でイヴは薔薇の香りに誘われてやって来た蝶々と遊んでいる。
「逃げなければ、好きにさせてていいんだって。...メイアン、もう少し腰入れて」
「は、はいっ」
ノルチェはメイアンの型を直しながら、レイの問いかけに答えた。それにまたレイは不服そうに頬を膨らませた。
「ボクらが逃げないとは決まったわけじゃないだろう?」
「でもニアは逃げないと思っている。私達従者はそれに従うだけ」
「逃げたら逃げたで、また違う犯人を探すだけなんでしょうね」
ひょこ、と後ろの薔薇の園からスノーブルーが顔を出した。その言葉にノルチェはしっかりと頷いた。
レイはその言葉を聞いて、それからすっと立ち上がった。それでイヴの指先に止まっていた蝶々はひらひらと飛んで行ってしまう。
「おい、ノルチェ。ボクと決闘しろ」
「無理。私はメイアンの護衛及び学習、そして今日から格闘鍛錬を任されている。君達二人の相手は任されていない」
メイアンの腰の位置を手で修正しながら、淡々とノルチェはそう言う。
レイは不機嫌な顔をして、それから唐突に拳を振りぬいた。ノルチェは顔色一つ変えずその拳を足で受け止め、そしてメイアンの腰に添えていた手を足で止めたレイの手首を掴むとそのまま芝生の上に押し倒した。
レイは目をぱちぱちさせた。イヴもレイが倒れているという状況を久し振りに見て、同じように黒目を瞬かせていた。
「..............お前」
「私、家族と違って力が弱いから。こういうので差を縮めようとしていた時期があった。その時に一通り身に付けている」
レイを一瞥して、すぐにメイアンの指導に移った。
メイアンは割合飲み込みが早かった。最初は不器用にあたふたとしていたが、ノルチェが教えるとすぐにそれが出来るようになった。
ただ優しすぎる為か、軽く技をかけていいとノルチェが言ってもあまり積極的に技をかけようとはしなかった。
「上手いね、メイアン」
ただ上手い事は事実であるので、ノルチェは素直に褒めた。メイアンは照れ臭そうに頬を掻く。
「あ、ありがとう...」
「...こんな奴が本当に聖眼を持ってんの?弱っちくて頼りなさそーな奴がさ」
レイは身を起こして、今度はイヴの指先を捏ねくり回して遊び始める。イヴは解くに文句も言わずそれを受け入れていた。
「メイアンにそう言うと...、」
「や、やめて、ノルチェ」
レイに凄んでいたノルチェを、急いでメイアンは制止した。彼の必死な顔を見て、ノルチェはその拳を収めた。
「...一度、シャワーを浴びに戻って、それから今度は読書に入ろう」
ノルチェはメイアンの背中を押して、庭からすたすたと歩いて行ってしまった。
レイとイヴはその後ろ姿をじっと見ていて、レイがけっと悪態を付いた。
「ここの住人は皆、甘すぎる」
「そうかもしれませんね」
スノーブルーは特に否定する事なく、薔薇の剪定をする。
「だって、拘束具もつけずに放ってるなんて。馬鹿でしかないでしょ?しかもボクは君達の仲間を殺そうとしたのに、こうして笑いかけてさ。寝首をかかれるよ?」
「それがないように、深夜には一応両手を拘束しているそうじゃないですか」
スノーブルーの言う通り、レイとイヴは寝る時には手錠をお互いに嵌められてベットの柵にその反対側を掛けられて眠る。
だが、そんな手錠など吸血鬼の力を最大限利用すれば壊す事など容易だ。
それを知っているので、レイは意味が分からないという顔をしてしまう。
「それともなんですか?雁字搦めに拘束される方がお好みですか?」
「ンなわけないじゃん!自由の方が良いに決まってる!ボクらはその為に」
「レイ、喋り過ぎ」
イヴの低めの声に、レイはびくりと身体を震わせてから口を閉ざした。その様子にスノーブルーは僅かに目を瞬かせてから、そして剪定した中から薔薇を二輪手に持った。
庭から出ると、イヴとレイの焦げ茶色の髪に差すようにそっと薔薇の花を添えた。二人は目を丸くしてそれからお互いに顔を見合わせた。
「うん、やはり女性は何を身に付けても映えますね。アズリナさんもノルチェもこういった事を嫌がるので、私個人としては嬉しい限りです」
にこりと、スノーブルーは笑みを溢す。
レイはわなわなと唇を震わせて、イヴは無表情で自身に差された薔薇を少し触って。行動ばかりは違えども照れている時の仕草なのだろう、二人は顔が朱に染まっている。
「な、なななな何す」
「お二人がどういう経緯でボス、とお二人が呼称している方と手を組んでいるのかは知りません。恐らくここの人達は誰も聞かないでしょう。ですので、心配される必要はないと思いますよ」
少女達の目は見開かれる。スノーブルーはただ微笑んだだけで、それから思い出したように「栄養剤が必要でしたね」と呟いて、外の倉庫の方へと足を向けて行った。
揺れる黒い尻尾を、二人はぼうっと見つめるばかりだった。
「ノルチェ、怒ってる?」
メイアンは濡れた髪の毛をノルチェに拭かれながら、後ろの方へ顔を上げようとしてノルチェに制された。
「メイアンを馬鹿にしたから、許せないだけ」
殺されかけた事に対しては怒っていない、というのが変な感じだ。メイアンは思わず小さく笑ってしまう。彼女はそれにまた眉を顰める。
「自分が馬鹿にされたんだ。あれは怒っていい、メイアン」
「うーん、でも怒るってあんまり...。自分も相手もいい気持ちにならないし」
「メイアンは優しすぎる」
やや髪の毛を拭く手が乱雑な扱いになった。
メイアンはくすくすと困ったように笑いながら、そしてどうして怒らないのかというノルチェの言葉に疑問を抱く。
どうして怒らないのか。
怒らない、のではない。怒れないのだ。
何故、怒る事が出来ない。何故なら、声を張り上げてはいけないから。
張り上げたら――、
「...........メイアン?」
ノルチェの声に深い暗闇に沈んでいたメイアンの意識は急速に引き上げられる。
「あ、えっと...ごめん、ぼうっとしちゃってた」
曖昧に笑う彼の顔を、ノルチェはタオルから手を離して両手で包み込んだ。手の大きさがアンバランスなので、右の頬に当たる事になった黒い腕が彼の白い肌と対比されて際立つ。
「記憶?」
「...........かも、しれない。多分、その...よく分からなくて」
「話してみて」
彼女の顔は真剣だった。普段は閉じられている瞳も開眼し、青い空のような瞳がメイアンの心を射抜く。
「...怒る、って聞いて、どうして俺は怒る事が出来ないんだろうって。...そうしたら怒ったら、声を大きく張り上げたら駄目だって思って。どうしてそう思うんだろうって、考えてた...........」
声を張り上げる事を咎められていた。それは何故なのか。ノルチェは一人で考える。
ノルチェが行動を制限されるとき、それは得てして自分が自身の出来る事以上の事をして身体が壊れるのを阻止するときだ。しかしそれは最近の事。
幼い頃親に駄目だといわれた事は、大半は今も変わらずに無茶をする事なのだが、親や兄姉達に迷惑をかけてしまうような行動を取った時だ。例えば兄弟喧嘩とかがそれに該当する。
メイアンの禁止された、怒るという行動。いや、怒るという行為そのものではない、恐らく反抗するという行為を制限されていたのではないだろうか。
ここへ来たばかりの頃に、傷だらけであったとニアから聞いた身体。木から落ちて出来たような痣ではない、殴られたような打撲痕。
導き出される答えを、ノルチェは一つしか知らない。
「メイアンは...」
「うん?」
何でもない純粋無垢な表情のメイアンが、ノルチェの顔を見た。
「...話したら、落ち着いた?」
ふっと再び目を細め、軽く小首を傾げて訊ねる。
確かに彼女に話して不安になっていた気持ちは無くなったかもしれない。
「うん、ありがとう」
「よし。それじゃあ、読み書きだな」
タオルをそのままメイアンの首にかけて、ぽんとある程度乾いた黒髪に優しく触れる。
この事をニアに伝えようと心に決めて。
「旦那様の考えを、私は全く汲み取れません」
「だろうな」
ニアはレイとイヴの証言が吹き込まれたテープを巻き戻しながら、手の中にある資料に目を通していく。アズリナは食堂でニアの息抜きになるようなら、とリーフェイから渡されたミルクティーを机に置いた。ちなみに砂糖とミルクをこれでもかと解かした甘すぎる紅茶である。
「あの二人、殆ど放し飼いも良いところではありませんか。いつ逃げ出してもおかしくありません。ロゼ様の仇討ちを掲げている貴方らしくもない」
「子どもを縛り上げる趣味はないから放ってるだけだ。それにもう欲しい情報は喋ってもらったしな」
「嘘かもしれないですし、
アズリナの気持ちはニアにも分かる。
古くから従者として付き添い、特にローズベリとの関わりはこの屋敷内では一番深いだろう。だからこそ、ニアと同じく早くローズベリを失う要因となった敵を早く見つけたいと願っているのかもしれない。
「急いては事をし損ずる。古き書物の中に書かれていた。落ち着いて考えて事を進めるべきだ」
「...旦那様はどうしようもない色欲魔ですが、その言葉は信用いたしましょう」
「酷い言い草だな」
ニアは苦笑いを浮かべ、資料にまた目を通す。アズリナはその背中をしばらく見た後に、外へと足を運んだ。
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