第20話 強くなりたい

 図書室の目の前に辿り着くと、薄っすらと赤い光がドアノブにまとわりついていた。

 ノルチェが闇魔法以外で唯一使える守護魔法が施されているのが、一目で分かる。本来ならばこの赤色も魔導士であるならば消せるのだが、未だ上手く扱えないようで見えてしまうのが難点である。

 ニアは常に持ち歩いている薬をドアノブに垂らし、指先で軽く拭った。ふわりと空気へ解けていくように光は消えていった。

 ドアノブをぐるりと回すと、勢いよく扉が開きニアの腹部に鈍痛が走る。そのまま身体は後ろの壁にぶち当たり、背中にも痛みが走った。

 イヴとの戦いでは彼女の刃を手で受け止めて破壊する以外には一切怪我を負っていなかったのに、こんな所で痛みを感じるとは。

 痛みに顔を顰めながら顔を下へと向けると、ふるふると身体を震わせているメイアンが蹲っていた。顔を腹に押し付けてきており、心なしか当たっている場所がじんわりと温かく広がっていっているような気がする。

「...メイアン」

 怖がるな、とニアはメイアンの髪の毛を梳くように撫でる。

 ぴく、とメイアンの肩が震えて、顔が上がる。その黒い両目は涙で歪んでおり、目の下や縁は赤い。鼻水こそ出していないが、今にも出そうな感じがしている。

「み、皆は、大丈夫、ですかっ」

 しゃくりあげながら、メイアンはぺたりと座り込んでピーピー泣き始める。ニアは宥めるように髪を撫でるだけでなく肩をぽんぽんと叩いてやる。

「大丈夫、生きてるから。落ち着け」

「っう、お、俺、何も出来なくて...ッ」

 ごしごしと目の下を擦って、ひくひくと泣いている。それに胸がつきりと痛んだ。

「メイアン、大丈夫。落ち着いて、な?」

 ゆっくりゆっくりと泣き止ませ、ニアはにこりとメイアンに笑いかけた。

 その所を、

「おわ、メイアンがニアを押し倒してる」

 ベンジャミンがにやにやした笑みで二人を見下ろしてきていた。

 メイアンはそう言われてようやく今の状況に気付き、ばっと後ろに下がった。

「ッおい、馬鹿ッ」

 勢いよく下がったせいで、図書室の扉で後ろ頭を強かに打ち、呻いて打ち付けた箇所を押さえた。

「メイアン!...っベンジー」

「悪かったって!冗談のつもりだったんだよ」

 真に受けるとは、と彼はにやにや笑いを崩す事なくそう言った。ニアは眉を寄せて一瞥し、そして先程とは違う意味で蹲っているメイアンをひょいと担ぎ上げた。

「ッ!?」

 メイアンは目を丸くして、しかしニアにされるがままになっていた。

「部屋、行くぞ」

「うわ、ちょ、」

「ごゆっくりなー」

 ベンジャミンがひらひらと手を振るう。彼の横を通るときに思い切り踏ん付けてやって、心の内に溜めていた苛立ちを晴らした。


 ニアはメイアンの部屋へ彼を運ぶと、優しくベットの上に下ろした。そしてメイアンが先程打ち付けた場所に優しく手を触れる。

「頭は、...たんこぶにはなってないな」

「......っすみません」

「いいよ。家族だろう?」

 ニアは少し照れ臭そうにはにかんで、メイアンはその表情をじっと見つめた。

「......その、やっぱり、俺の目を狙ってきた人達だったんですよね?さっきの...」

「...メイアンが気にする事じゃない。お前は、今まで通りに生活してたらいい」

 ニアは安心させるようにと微笑みかけるが、メイアンの顔は曇るばかりだった。

 自分のせいで他人を傷つけるという事になっているのだと、メイアンは理解していたからだ。

「...でも、俺は守ってもらってばっかりで...」

 ぐっ、とメイアンは唇を噛んだ。

 悔しくて、情けなくて、しょうがない。

 彼の心情を何となく察したニアは、少し考えた結果ピンと妙案を思いついた。

「ノルチェに、話を付けておこうか?」

「へ...」

「あいつは身体を動かすのも好きだからな。読み書きも少しだけ見てもらっていたんだろ?ノルチェは体術にも熱心だから、稽古を付けるように話を通しておくぞ」

 ニアはにっと笑って見せた。メイアンは間髪入れずにコクコクと頷いた。

 少しでも身体を鍛えれば、まだ頼ってもらえるかもしれない。

「お、お願い、します......」

 メイアンの真っ直ぐな瞳に、ニアはただゆっくりと頷いていた。



「スノーが好きなんじゃなかったの?」

「ん?」「ッ」

 ノルチェが結界の法陣を屋敷の敷地内の四隅に書いて回るのを、スノーブルーとベンジャミンが付いて回っていた。

 正しく言えば、スノーブルーがノルチェを支えながら、ベンジャミンが法陣を書く為に必要な道具を取って来た為に、大した作業でもないというのに三人もいるわけなのだが。

 ぱくぱくと口を開閉しているスノーブルーを尻目に、ベンジャミンは飄々とした態度であった。むしろどちらかと言えば嬉しそうである。

「ほぉ、流石聡いなぁ。どうして分かったの?」

「普段の二人の雰囲気で分かる。もっと言えば、時々香水みたいな変な匂いが二人共する時があった。で、さっきスノーが助けてくれた時に首の赤い噛み痕、それベンジーの歯型でしょう?」

 スノーブルーはそれを聞いてすぐさま手を首筋に当てた。その反応にベンジャミンは意外といった表情をする。気付いていて、しょうがなく見せているのだろうと思っていたからだ。

「相変わらず目は細い癖によく見てるよな」

「目が細い、じゃない。目を細めてる、と言って欲しい」

 白いチョークに金色の光を溶かし込みながら、魔法文字を書いていく。真剣な表情で書いているが、頬は膨らんでいる。

「どっちも同じだろ」

「...話の趣旨が反れた。...だからつまり、二人は好き合ってる者同士なら、私がそこに入り込む必要性はない、違う?」

 ノルチェの言い分は尤もである。スノーブルーもそう思う。

 だが、一筋縄の考えを持っていないのが、ベンジャミンという男なのだ。

 彼は帽子の鍔を何度か撫で、それからノルチェに近付いて丸めている彼女の背中の上に身体を乗せる。のしかかるような体勢に、ノルチェは嫌悪感たっぷりな顔をする。作業している為、魔法から集中力を切らす事は出来ないので顔を上手くベンジャミンの方へ向けられない。

「重い」

「俺さ、スノーも好きだけど、お前も好きだ。......その身体も心も、全部俺のにしたいくらい」

 背筋が震える程、それは真面目な声だった。本気、なのだろう。

「おかしいかな。俺、二人共愛してんだよ、本気で。どっちかを手放すのは、嫌だ」

「...........魔族の慣習を知ってる私に、そんな話をするな」

 一夫多妻制も一妻多夫制も見て来たノルチェにとって、沢山の女性、あるいは男性に一人が愛を注ぐという行為に偏見はない。父も迎えた妾には分け隔てない愛情を注いでいるし、それを見て育ったノルチェにとっては日常の一端でしかないのだ。

「で、返事は?ノル、俺のものになってくれない?」

「...........私は、そういった事を考えた事がない」

 それと同じタイミングで文字を書き終える。白い文字は僅かに金色の光を発し、それから地面の中へ溶け込んで見えなくなってしまった。

 それを見届けてから、のしかかっているベンジャミンを黒い霧で作った腕でぽいっと投げ飛ばした。

 予告の無い唐突な動きに、ベンジャミンは無様に尻餅をついて倒れる。スノーブルーは特に手助けする事はなかった。

「いっててて......」

「じゃ」

 すたすたと二人を放ったまま、ノルチェは次の記し場所へと早足で向かっていく。

 ベンジャミンは拗ねたように口を尖らせ、その場に腰を下ろす。

「直球じゃダメかぁ」

「あの子がそう素直に受け入れるような人柄じゃない事、貴方はよく知ってるでしょう?」

「...ヤク、盛るか?」

「そんな事をしたら、ボコボコにしますから。唯一褒められたような顔を」

「酷い」

 ぶーぶーと文句を言う彼を尻目に、スノーブルーは静かに思いを馳せる。

 風が黒い前髪をさらりと撫でた。



「いたたたたた」

「うるさいです、その口閉じてください。顎の傷に消毒が上手く塗れません」

 食堂の椅子を使って、アズリナはリーフェイの傷の手当てをしていた。自分の傷をリーフェイが手際よく手当てしてくれたので、そのお礼だと今度は彼女がリーフェイの手当てをすると申し出たのだ。

 完璧に何でもこなすメイドとして仕えているが、こういった手先作業は苦手であるので、四苦八苦して傷薬を染み込ませたガーゼで傷を撫でる。リーフェイは痛みに顔を顰めて、ふるふると身体を震わせている。

 眼鏡の奥の瞳は、僅かに涙目になっていた。

「...でも、痛い」

「男でしょう。我慢してください」

 厳しい視線でじとりと睨まれ、うっとリーフェイは黙ってしまう。

 薬を塗り終わると、そこに絆創膏を貼って救急箱を閉じた。リーフェイはその箇所を何度か擦る。それからじ、とアズリナの腕の包帯に目を移した。

「...アズは、その傷早う治るかね...」

「腕が六本もあるんですから、一本使えなくても大した事はないです。流石に全部使えなくなったら、困りますが」

「はは、らしい答え」

 リーフェイはそう言って、アズリナの近くにあった救急箱を手にする。その行動にアズリナは僅かに眉を寄せる。

「戻しとく」

「...........ありがとうございます」

 に、とリーフェイは笑って倉庫の方へ戻しに行こうと足を向けていたその背中へ、アズリナは「ねぇ」と声を掛けた。

「どうした?」

「...私は時々分からない時があります。メイアンが、私達にとって有益なのかどうか」


 彼を見ていると、亡き主ローズベリの面影を見る。

 長寿を持て余し荒れていた馬鹿な主を慈悲の目と手で救い出し、天使のように微笑みかけて更生させた聖母のような女性。


 アズリナにとって重要なのは自分の命ではなく、ニアとローズベリが愛した黒薔薇と二人の思い出の詰まった屋敷を守る事だ。


 今回はニアやベンジャミン、スノーブルーが気付いてくれたから良かったものの、もし気付いていなかったら焼き払われていたかもしれない。

「彼をこのまま抱き続けて、この館が壊れるのは嫌なんです。...私の考えは誤っているでしょうか」

 これが続くようであれば、メイアンを追い出す。

 暗にそう言った意図を含んでいるようであった。リーフェイでもそれは分かった。

 ぐっと眼鏡を押し上げて、そして息を深く吐き出した。

「誰の答えも正解や無いと思いますよ。アズの答えもまた正解であり不正解やと思います。...少なくとも私は、メイアンはいい子やから守りたいですねぇ」

 くす、とリーフェイは笑って、そして食堂を後にした。


 リーフェイは大人だ。大人ぶっているだけの自分よりよっぽど。

 アズリナは砂と魔素複合体マナ・キマイラの体液で汚れてしまっているスカートの裾を軽く摘まんだ。


「......お風呂、入りましょう」

 この考えも水と同じく流せてしまえれば。

 アズリナは不毛な事だと考えながら、食堂を後にした。

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