第8話 幸せ

「お帰りなさいませ、メイアン様、ノルチェ」

 黒薔薇館に帰り着いてすぐ、玄関ホールには畏まったアズリナが立って待っていた。

 ノルチェは頼まれていたものの入った籠を彼女へ手渡す。

「随分と遅うございましたね。何かありましたか?」

「...ラディットの本屋に行ってた。メイアンが本が欲しいって言ったから」

 嘘でない事をさらりと言い、それ以上何かを聞かれる前に、ノルチェはメイアンの手を引いてそのまま歩いて行く。

「...ありゃ、何かあったやろうなぁ」

 その後ろ姿が見えなくなってから、食堂の扉を開けてひょっこりとリーフェイが顔を覗かせた。

「何も言わないなら聞きません。...ところで、旦那様とベンジャミンはまだ話し込んでいるのですか?」

「でしょうねぇ。魔素複合体マナ・キマイラの事もそうやろうし、...メイアンの存在もまた探ってる筈」

「...海の向こうに居る筈の人間が突然現れたわけですものね」

 リーフェイは静かに頷いた。


 この世界には人間はいる。ただ、それは遠い海の向こうの話。科学力という力を用いて魔物達を追い出した彼らは、海の向こうでこちらとは一切の接触をしてこない。

 彼らが、ここへ来るには海を越え陸を越えなければならない。それを何の荷物も持たずに出来るわけがないのだ。何十日とかかるのだから。


「...何者、やろうかねぇ。あの子は」

「ただ者ではないでしょうね。...それでは、夕食の準備を続けましょう」

「...........触っていいのは、食器だけですよアズ。一応言うときますけど」

「あら、急に畏まらずとも好いですよ。それに、遠慮もいらないです。私が手伝った方が早いでしょう?」

「遠慮やないです。貴方が料理作るとダークマターなんですよ、もう見てられないくらい」

 リーフェイとアズリナはそう言いながら、食堂の調理室へと歩いていった。


「ノルチェ、今日はありがとう」

 部屋についてすぐ、ローブを外しながらメイアンはノルチェへそう言った。その嬉しそうな声に、彼女は少し口元を緩める。しかしすぐに口元を元に戻して、メイアンの方へ振り返る。

「早速勉強するの?」

 メイアンの手の中にある本を見て、彼女はそう訊ねた。

「うーん...、うん!早く文字読めたら図書室の本楽しめそうだし」

 早速メイアンは本を開いて、文字を見た。何度見ても、それらは記号の羅列にしか見えない。

「......ムズカシイ」

 全く分からない。そもそもこれがあいうえお順なのかどうかも微妙なのだ。例文さえもさっぱり読めない。

「......それは、あ、と読む」

 メイアンの横から、ノルチェが口を開いた。

「...教えてもらってもいい?」

「私は、教えるのはそんなに得意ではないんだけど...、それでいいなら」

 こくこくとメイアンは激しく首を縦に振るった。その受動的な態度に彼女は小さく微笑んで、文字を指でなぞりながらゆっくりと教えていった。


 日が傾き始めた頃になると、アズリナが部屋へ訪れて来た。一旦勉強を終えて、食堂へ降りてきた。そこにはニアをはじめ、黒薔薇館の面々が座っていた。

「よぉ、今日はお使いさんだったらしいじゃん。いっつも本か身体を動かすだけのノルが、人付き合いゴフッ」

 へらっとした顔でそんな事を言っていたベンジャミンの顔を、ノルチェの出した黒い霧が殴った。それを庇いに、隣の席に座っていたスノーブルーが駆け寄った。

「やめてあげてください!ただでさえ、いいところはなんにでも化けられる顔と喉だけなんですからっ」

「...........褒められてる気がしない」

「褒めてませんからね」

「ほら、料理持ってきましたよ」

 そう言った言い合いをしている間に、アズリナとリーフェイが料理を運んできた。

 それを全て並べていく。その間にベンジャミンは椅子に腰を下ろし、メイアンとノルチェも腰を下ろす。

「それじゃあ、食べようか」

 ニアの声を始めとして、それぞれがいただきますと声を揃えて食べ始める。

「必要になったら、私に言いよー」

 腕を組んで調理室近くの壁にもたれかかるリーフェイが軽い口調で言い、アズリナはその横で静かに紅茶を嗜んでいた。

 どこかうるさくて、しかし楽しい食事にメイアンは思わず口元を綻ばせてしまう。それをニアは見つけ、

「楽しいか、メイアン」

 頬杖を付いた状態で、彼は楽し気に問うた。メイアンは勢いよく頷く。

「はい、とても!」

 こんな楽しい記憶を作れることが嬉しくて。夜はゆっくりと更けていった。


 ノルチェと別れて、部屋の風呂に入り寝間着に着替えてから、布団の上で本を開く。簡単な文字をノルチェには教えてもらったので、ゆっくりと例文の文字を指で追いながら口に出す。

「...........り、ん......ご...........」

 まだ読むのにはつたないが、それでも読めるという事は嬉しかった。

「あ、...........りが、と......................う。うぅ、難しいなぁ...........」

 これでまだ簡単な方なのだ。難しい方を習っていったらごちゃごちゃしてしまいそうだ、とメイアンは一人考えた。

「ふー...........」

 爆発しそうになったこめかみを叩いて、そのまま後ろに倒れる。ぼふっと布団の上重い頭が落ち、柔らかな感触が包み込んだ。ふわ、と若干の眠気が襲う。

 外を歩いただけであるが、たくさんの者を見て歩いたせいなのだろうか、少し疲れているようである。

 寝ようか、とぼんやり考えて電気のスイッチの方をパチリと切った時、コツコツと何かがつつくような音が聞こえてきた。

「おと...........」

 寝転がっていた身体を起こし、音の聞こえる窓の方へ足を向ける。

 そこには、小さな白い羽根の鳥が身を震わせて窓を突いていた。ここに来て初めて見る普通の動物に、メイアンは目を丸くする。

「わぁ...、可愛い」

 窓を開けて、鳥の方へそうっと指を出した。鳥は警戒しているようで窓から遠ざかったが、すぐに手の方へちょんちょんと寄ってきた。

「ふふふ、可愛いなぁ」

 人懐っこい性格の鳥なのだろう、すぐに慣れてくれたようで嬉しい。

 少しして、ふるふると鳥は寒そうに身体を震わせている事に気付いた。メイアンは鳥を人差し指の上に乗せ、そうっと部屋の中へ運ぼうとする。しかし、流石にそこまで警戒心は緩くないようで、寒いとは分かっているようではあるものの部屋の中までは入ってこなかった。

「っ大丈夫だよ、怖くない」

 ほらほら、とメイアンは笑顔を見せて鳥を誘う。


「ほら、おいで」


 ぷるっ、と鳥の身体が震えた。

 そして、一気に目の前が暗転した。目の前にあるのは、白。白の羽根が顔の横を撫で落ちていく。

 頭がぐらぐらとし、視界も揺らいでいる。驚きすぎて声も出ない。

 目の前には、鋭い瞳の大きな鳥が立っていた。手の部分は鳥の羽根で、足は鳥足。顔も鳥の顔をしている。が、身体は人間よりも大きく二足歩行ですっと建っている。

 その彼にのしかかられるようにして四肢を抑え込まれ、身体が一切動かせない。抵抗が、全く出来ない。

「ッに、」

「黙っていろ」

「っぐ」

 口の中に何かを突っ込まれる。叫び声が上げられない。

 空気が上手く吸えないせいか、それとも恐怖心からか。涙が溢れて出てくる。

 その瞳の下をぐっと引っ張られる。

「あぁ、その紫に仄かと輝く瞳。間違いなし、聖眼そのもの。ローズベリの生まれ変わりか何か知らぬが、その瞳もらい受ける」

 何を言っているのか、メイアンにはさっぱり分からなかった。

 自身の瞳は黒であるにもかかわらず紫と言われている事、聖眼という言葉、ローズベリという名。

 新しい情報が入り過ぎて、頭の中はもうぐちゃぐちゃしていた。

 きらりと鳥の男が持つ短い剣の刃が光る。喉の奥で悲鳴が零れた。


 助けて。助けて。

 ニア、さん。

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