第3話 名のない青年
「......う、ん......?」
ふわ、と起き上がった意識はぼんやりとしていた。まず最初に、黒いカーテンが目に入った。
先程まで抱き抱えられていたような気がするのだが、いつの間に眠ってしまったんだろうか。
青年は視線を横に動かした。白色の壁には主に黒を基調とした様々な家具が置かれていた。部屋の隅では椅子に座って、ノルチェと呼ばれていた角のある少女が目を閉じていた。
ゆっくりと青年が身体を起こすと、その衣擦れの音で気付いたのか、彼女の身体が微かに動いて首が上がる。彼女はぱちぱちと目を瞬かせた後、その目が青年を捉えた。
「あ.........」
「うん。おはよう...、とは言っても一時間しか君は寝てない。多分、疲れてたんだろう」
ノルチェは椅子から腰を上げて、青年の寝ていたふかふかの大きなベットに上がる。彼女の体重分、僅かに布団がへこんだ。ノルチェの小さな人の手が優しく、青年の頬に触れる。顔の良い彼女の顔が近くにあり、青年は変にドギマギしてしまう。
「うん、顔色はそこそこ。少し待ってて。ニア、呼んでくるから」
「に、にあ、って...?」
「私の主。良い人」
ぽんぽんと、今度は大きな黒い手で青年の頭を撫でてから、布団から降りて部屋の黒い扉の方へ足を向けていく。扉を開けてから、彼女は青年の方へ顔を向けた。
「そこにいて」
それだけ言って、彼女は部屋から出て行った。
すると、どうしようもない不安感に襲われた。記憶は未だに靄がかったように思い出せない。思い出そうとしても、上手く頭が働いてくれない。それがどうしようもない不安なのだろう。
ぐっと、掛けられていた白地に抽象的な黒薔薇の模様が描かれた毛布を握る。そして、その白い手に視線を落とす。
その時、がちゃっと扉のドアノブを捻る音が聞こえた。
「起きたか」
そして低めの男の声が耳に入って来た。顔を上げると、ぼさぼさの黒髪をした男が扉を閉めて立っている。すらりとした長身、美しいと表現するに相応しい顔立ちに思わず目を丸くしてしまう。
だが、容姿に驚いているわけではない。彼の紅い瞳の奥の言いようもない優しさと寂しさを抱いた瞳に目を向けられている事に、思わずこちらが目を瞬かせてしまう。記憶のない青年にとっては、その目の意味が分からなかった。
彼はノルチェの座っていた椅子を持って来て、ベットの側へ持ってくるとそこに腰を下ろした。
「具合は?」
どこか刺々しい口調だった。
「だ、大丈夫、です...」
その声音に気圧されるように、弱弱しい声で彼は言った。
「そっか。良かった。...で、お前は?その、誰?名前とか種族とか」
聞かれるであろう当然の質問に、声にならない悲鳴のようなものが口の中で鳴るのを感じた。
「わ、分からない、です......。記憶、なくて...、思い出せないんです。名前。えと、種族、っていうのは人間、です......」
彼はその言葉に大きく目を見開いた。ぽかんと驚いた顔をしている。
「...ふうん。そうか...」
彼はそう言うと、椅子から身を乗り出して青年の黒髪を梳くように撫でた。その行動に目を瞬いてしまうが、男は気にした様子なくよしよしと撫でている。しばらくして彼はハッとしたような顔になり、バツが悪そうに身を乗り出すのを止めた。
「わ、悪い...。その...、本当に...」
「い、いえ...!」
「......そうか。俺はニア=ヴーエ・メルシエ。この黒薔薇館の主人で、〈
「きゅう、けつき......」
青年は口をゆっくりと動かした。
人間や動物から血を吸う存在。朝や十字架、ニンニクに弱い...、と青年は頭の中で自分の知識を何とか引っ張り出した。どうやらそういった事柄に関しては覚えているらしい。
「珍しいだろうな。この〈箱庭〉じゃあ個体数は少ないし。...それにしても人間、か」
ニアは不思議そうに首を傾げて、まじまじと青年の顔を見た。
「ま、それでいいとして...。名前が思い出せないまでの名前が要るな......」
ニアは小さく唸って、それから胸ポケットから黒薔薇の付いたピンを取り出し、それを長い髪の毛をそれで止めてやった。
「メイアン。思い出せるまで、お前の名前はメイアンだ」
ふわっと微笑むニアの顔に、青年は釘付けになる。
「めい、あん...。めいあん......、メイアン」
改めて声に出すと、何故だかしっくりきた。まるで最初からその名前であったような感覚すらする。
「あの...これは」
それから、メイアンは前髪に付けられたピンに触れる。
「あぁ。この家には不届き者の侵入を知らせる結界が張られている。それを付けていれば結界の中に入っても感知が効かない。ま、早い話がノルチェが駆け付けて攻撃しようとするのを防ぐ役目がある」
ニアは黒薔薇のチャームをトンと叩き、それから椅子から腰を上げる。そしてメイアンの手を取った。
「え」
「飯食う前にまずは風呂だ。その珍しい服、馴染まないから着替えて欲しいしな」
「ぅえ?!」
メイアンはきょろきょろと自分の身体を見る。所々土で汚れているものの、特にこの服に可笑しいと思う所はなかった。
「部屋の中にシャワールームあっから」
ベットから下ろされて彼に手を引かれながら、ベットの隣にあった黒い扉の方へ入る。
「はぁ......」
シャワールームは洗面所とも一体となった場所で、ベットのあった部屋とは少し色の違う薄い灰色の壁になっている。曇りのない鏡には銀色の装飾が施されており、その横の小物を置くサイドテーブルには、替えの服のような物が畳んでおかれていた。
色々な場所にあしらわれている装飾の凄さに、思わず口から感嘆の吐息を溢してしまう。
「ほら、脱げ。アズリナんところに持っていくから」
「え」
メイアンが何かを言う前に、ニアは服の裾を掴んで上へ引っ張り上げた。あっさりと服は脱げ、代わりに赤痣の付いた白い肌が露わになった。
「....................」
「.....................悪い」
すぐに脱げた上の白いシャツをメイアンへ押し付けた。
「あ、いや...。俺も驚いていて...。木から落ちたらしい時に打った、んでしょうね...、多分」
メイアンも記憶を失っているので、この傷が何なのかよく分からない。
だがニアから見れば、その傷は落ちたような打撲の痕というよりは、殴られたり蹴られたりして付いたような傷だ。彼は気付いていないかも知れないが、後ろの鏡に映る白い背中にも傷はあった。
「そうかもな。とりあえず服はそこに置いてていいから。俺はベットの方で待ってる。ゆっくり入っていいからな」
「あ、ありがとうございます」
ニアはクシャとメイアンの黒髪を撫でてから、シャワールームから出て行った。
メイアンはニアが出て行ったのを見てから、ペタペタと平らな胸の上に残る痕に指を滑らせる。
「......あれ」
どうしてかその傷を見ていると胸が締め付けられるようで、目の奥がジンと熱くなる気がした。
シャワーを浴び終え、四苦八苦しながら新しい服へ着替える。
金のボタンが腹部辺りで留められるようになっているベストを白いワイシャツの上に着用し、太腿辺りがふんわりとしている膝小僧を完全に覆うくらいの丈のパンツを履き、濃い赤色の裏地に黒い薔薇のあしらわれているフードコートを羽織って、首の辺りに垂れていた紐で結ぶ。先程まで着ていた服より、明らかに質が良い。
鏡の前でくるりと回ると、上に羽織っているフードコートがぱたぱたとはためいた。
「あ、あのー...。着替え、ました......」
メイアンはそうっとベットルームへ戻る。ニアは部屋の中にあった本を読んでいたようで、部屋の隅にある本棚の横の壁にもたれかかっていた。書物に落とされていた目は、声に反応してメイアンの方を向き、彼は本を本棚に戻してから近付いて来た。
その顔はどこか険しい。
「もう少しゆっくりしててよかったんだぞ。それと、ちゃんと拭いてるのか」
濡れた髪が気になったようで、優しい手付きでニアの手が前髪の一束に触れる。
「ふ、拭きました」
ニアの赤い瞳を見ながら、メイアンは微かに震える声で言った。
彼は少し気になっているようであったが、すぐにメイアンの手を握ると部屋の外へ出る黒い扉の方へ向かう。
「食堂へ行こう。一緒に飯を食おう」
ニアはぐっと扉を押し開ける。
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