第2話 黒薔薇館の吸血鬼

 一人で眠るには明らかに大きいキングサイズの真紅のベットの上に、一糸纏わぬ美しい顔の女が寝転んでいた。彼女の耳には、先程まで熱い夜を過ごしていた男のシャワー音が聞こえてくる。

 ザァザァと聞こえてくる音は心地よいが、彼と離れている事を感じて寂しくもある。

 そんな思いで待っていると、シャワー音が止まり、下半身だけ黒いズボンを履いた男が出て来た。肩には白いタオルをかけ、黒髪は未だ濡れている。髪から落ちた水が僅かに滴るしっかりしている筋肉は、細身ながらもたくましさを感じる。

 その男の血のように赤い目は、氷のように冷ややかだった。

「ねぇ、あともう少し...」

 女の甘えるような艶っぽい声に、男は面倒臭そうに目を向けた。

「...もう、終わりだ。お前、本当はローズベリの事を知らないだろ」

 彼の口から零れた名前に、彼女は僅かに表情を硬くするがすぐに男に媚びるような視線を向けた。

「それなら、私とワインを嗜みませんこと?昨日のメイドさんに頼めば持って来ていただけますでしょう?それから彼女の事はお教えいたしますわ」

 上目遣いで頼む女へ、男はズボンのポケットから桃色の液体の入った小瓶を見せた。それを見た瞬間、女の血相が変わる。

「惚れ薬か何か?中身まで分かんないからさ」

 男の指が小瓶を揺らす度、液体の水面がゆらゆら揺れた。

「..........っなんで...」

「先にシャワー浴びろって言っただろ。その間にな。ドレスの胸ン所に仕込んでたんだな。通りで見た目よりないなと思ってたんだよ」

 無礼な男の発言に、女はカッと頬を朱に染める。

「何が目的で俺に近付いた?暗殺?それとも、」


「金よ、分かってるんでしょ?あーあ、黒薔薇館の主人はイケメンで優しく金持ちなのに未婚って聞いてたから、てっきりイケると思ったのに。最悪だわ」


 女は床に無造作に置かれている自身のワインレッドのドレスを手に取り、特に目立った汚れがないのを確認して、それをサッと着た。

 そして、机の上に置かれた黒革のバックを手に持った。

「さよなら」

 女はそう言って扉を開けようとして、それより先に扉が勝手に開いた。


「旦那様、そろそろ昼時になりますよ。いい加減...ってあら?」


 そこに立っていたのは、六本の腕を持つ黒髪のメイドだった。女は一瞬面食らったように身体を下げたが、すぐにメイドの横を通り過ぎて颯爽と歩いていく。その後ろ姿をメイドは目で見送り、それから主人の居る部屋の中へ入った。

「また情報収集という名の快楽溺れ、ですか?」

「相変わらずズケズケ言うなぁ、お前。普通の主人なら首切りだぞ」

「優しい貴方様に仕える事が出来ているという事を、私は光栄に思っておりますよ」

 メイドはそう言って、男のクローゼットを開いてそこから白いシャツを取り出した。

 男が屋敷内で動くときに着る、簡単な服装として好んでいるものである。

「昼食は食べる。アズリナ、用意してくれているんだろ」

「はい。ですが、どうせなら、リーフェイとノルチェの帰りを待ってはどうでしょう?二人は五番街と四番街の外れの魔素複合体マナ・キマイラを殺しに行きましたので、そろそろ帰ってくる頃合いかと」

「どのくらいで帰って来ると思う?」

 アズリナは少し考えるように顎に手を当て、残りの腕は腕組みをして、それから「三分と四十三秒ほどですかね」と答えた。

「五分もかからねぇの?」

 男の問いかけに、アズリナは静かに頷いた。

「恐らく、大丈夫でしょう」

 彼は渡されたシャツを着て、部屋の外へと出る。その二歩後ろをアズリナは付いて歩く。


「昼食は?」

「サンドウィッチをご用意しております。それとコーヒーを」

「ありがと」

 くあ、と男は欠伸をして食堂のある一階へと階段を降りていく。その時、ピンと小さな音が男の耳へ入って来た。

 彼の住むこの館には、侵入者を感知する特殊な結界が張られている。それが反応したという事は、誰かがここに足を踏み入れたという事になる。

「...出迎えてやっか」

 玄関は今男の居る中央階段の目の前にある。門から玄関まで数分もかからないので、すぐに玄関の扉は開く。

「三分と五十七...でしたか」

 アズリナは残念そうに男の後ろで呟いた。


 そこには男の従者である二人と、男に抱えてられた青年がいた。


「お帰りなさい、リーフェイ、ノルチェ。恐らく滞りなく依頼を完遂したのでしょうが、そちらの方は?」

 アズリナは二人へ近付き、そして細いフレームの眼鏡をした男のリーフェイの腕の中に居る青年に目を落とした。彼は小さな寝息を立てて、静かに眠っていた。

「...え、と?」

 アズリナは目を丸くし、青年の顔をまじまじと見る。その顔は数年前までよく見ていた顔と酷く似ていた。

「ロゼ、様?」

 呟くような声だったが、男はその声を耳にし、すぐにアズリナとリーフェイの間に割って入った。

「......ッ!」

 その顔は五年間思い続けていたの顔だった。


「リーフェイ」

魔素複合体マナ・キマイラを殺したところに丁度いたんや。私やのうて、ノルチェが見つけたんやけど」

「木の下で倒れてたから。魔素複合体マナ・キマイラに襲われてたのかもしれないけど」

「そうか...。アズリナ、いつも掃除している臨時用の客間があるな。そこへこの子を置いてくれ」

「かしこまりました。リーフェイ」

 アズリナは男へ一礼してから、四本の腕で青年の身体を抱き抱える。それから二階の方へと上がっていった。

「リーフェイは、起きた時に彼が飯を食べられるように準備を頼む」

「了解」

 リーフェイは右の拳で左胸辺りをとんとんと叩き、それから男が向かおうとしていた食堂の方へ歩いて行った。

「...私は?」

「部屋で見張りをして、起きたら俺に伝えに来て。...それと結界の強化を」

「分かった、ニア」

 ノルチェは静かに頷いて、アズリナの向かっていった方へ歩いて行く。


 全員の声や足音が聞こえなくなってから、ニアは首にかけている黒薔薇のチャームの付いたネックレスを取り出して握り締めた。

「ローズベリ」

 愛おしい名をその口で紡いで。

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