第1話 普通は案外ムズカシイ


 都内にしては閑静な住宅街の中にひっそりと佇む、築40年ほどの寂れたアパート。

 エアコンなし、風呂なし、トイレはかろうじてあるという現代で言えば化石のような住まいであり、ここから駅までの所要時間は30分ほどかかる。

 立地と住みやすさは不動産屋お墨付きで最悪であるが、その代わり家賃が一万円ほどと、都内にしては破格だ。

 初めて一人で生計を立てるという不安から、ただひたすらに安い物件を紹介してくれと不動産屋に頼んだ結果がこの廃屋のような家だ。

 そんなオンボロアパートに住むのが、芥見あくたみ弥彦やひこである。


 彼は芥見家の長男であり、跡継ぎでもあったーーが、彼が普通の暮らしを望んだことで、親から縁を切られ、今に至る。


 これまで血生臭い仕事を幾度となくこなしてきた弥彦であるが、私生活は常人とは違ってかなり裕福であった。

 八王子に所在する芥見家本邸は、山一つが全て芥見家の所有物であり、同時に万里の長城のごとき家であった。

 使用人の数も軽く百を超え、仕事以外ではいわゆる『おぼっちゃん』扱いをされてきた。


 春から通う高校生活を楽しみにしつつ彼は、一人暮らしを始めた。


 そんな暮らしを経て、彼は思ったーー


「普通って、案外ムズカシイな……」


 ***


 弥彦がまず第一に悩んだのは買い物だ。

 芥見家ではざっと百名ほどいる使用人が家事洗濯食事全てを任せていたため、買い物などの経験は一切ない。スーパーはおろか、コンビニすら行ったことがなかった。


 勇気を出して財布にありったけの金を詰め込み、スーパーへと足を運び、料理本に乗っていたレシピ通りの食材をカゴに放り込み。

 レジへと進む。


「す、すみません……」


「はい……? どうされましたか?」


「五万円ほどで足りますか?」


「ご、五万!? こちら、全部で千二百円ですけれど……」


「あ……す、すみません」


「は、はい……」


 弥彦は金銭感覚が麻痺していた。

 それも致命的なまでに。


 彼が幼少期からこなしてきた退魔の任務は、場合によるが、単価で百万は裕に超えるだろう。命を賭ける仕事では安くても、それぐらいの対価が支払われるのだ。


 しかし弥彦は、そんな任務をこなすことが日常であったため、大金をもらってもそれがどれほどの価値があるのかわからなかった。

 金を使うことはほとんどない。全て家の使用人が買い揃えてきてくれる。

 もちろんその代金は一家の預金から引き落とされているのだが、父や母がこれまで蓄えてきた金は想像を絶するものなので、おそらく相当な額を引き落としたとしても気づかないであろう。

 それとは別に、弥彦個人の口座にも、中目黒のタワマンに住み、しばらく豪遊できるくらいの貯金額は溜まっていた。

 幼き頃からの蓄えは、もはや学生の範疇を超えている。


 しかし、彼は金銭感覚が麻痺しているため、豪遊の仕方も知らない。また、生活費が足りなくなることを恐れているからか、なるべく安く抑えようとする。


 その結果が、スーパーの店員に引かれるということにつながった。


「そ、そうなのか……てっきり、豚肉とかって1パックでも一万円くらいするのかと思った」


 スーパーでの出来事を思い出し赤面しながら、弥彦は帰路に立った。


 ***


 弥彦は料理を始めることにした。

 外食は実家にいた頃はよくしたもので、いつも数十万のコースを食べていたせいか、外食=お高いという感覚が染み付いている。

 なるべく食費は抑えた方が良いと思い、自炊をマスターしておこうと奮起する。


「おっと、包丁買うの忘れてたな……まあ、斬虎ざんこで切りゃいっか」


 斬虎とは、退魔刀剣の小太刀であり、弥彦が愛用してきた言わば相棒のようなものである。

 退魔刀剣の名工、真田義景が生み出した7本の名剣のうちの一つであり、唯一の小太刀。その切れ味は三日月宗近や鬼丸国綱などの天下五剣にも匹敵する。

 ーーーー故に、野菜を切るのに使うなど以ての外である。


「うわっ!?」


 玉ねぎを切るのに少し力を入れただけだった。

 すると玉ねぎどころかまな板すらも切り裂き、なんとか台所までは斬らずに済んだといったところだ。


「霊魔以外斬ったこと無いから、力加減がわからん……」


 ***


「こうなったら、ファストフード店とやらに手を出してみるか……」


 弥彦は風の噂で聞いた、リーズナブルで美味しい牛丼が食べれる『よし屋』にチャレンジしようと思い至った。

 まな板がダメになった以上、料理はできない。

 包丁は明日買うとして、今晩の夕食は欠かせない。

 背に腹はかえられぬと思い、ファストフード店へと赴く。


 リーズナブルという言葉を信じて、弥彦は現金一万円を握りしめて。


 確か大通りのところによし屋という看板を見かけたなと思い歩いていたら、何やら柄の悪そうな男二人に絡まれているパーカー姿の少女がいた。

 見たところ弥彦と年は変わらなそうだ。


「迷惑なので、帰ってください」


「いいじゃんかよ。見たところ、女子高生でしょ? 俺らも高校生!」


「同年代同士仲良くしようよ。せっかくだしカラオケでも行こーよ?」


「このへんにカラオケなんて無いでしょう? それに、私はまだ中学生です。あなたたち、ロリコンの変態ですか?」


「なっ……! このあま、優しくしてやりゃ調子ん乗りやがって!」


「まあ僕たち、そういう気が強い子を無理矢理っていうのも好きなんだけどねー……!」


「ちょっと……!」


 男二人が少女に手をかけようとした、その時。


「あのーすいません、よし屋ってどこらへんにあるかわかります?」


 弥彦は能天気な声で、男二人に声をかけた。

 当の男二人は「あ?」「なんだこいつ? 空気読めねえの?」と先ほどよりも苛立ちを隠せず、少女はキョトンとしていた。


「いやー、最近この辺に越してきたばかりであんましわかんなくて。よかったら教えてもらえると助かるなーと」


「お前、ボコられてぇの?」


「……はい?」


「いや、KYすぎっしょ。せっかく良い感じのムードになってたところを、よく邪魔しようと思ったな」


「いやいや、道を聞いただけでボコられるの? それに、KYって(笑)それとっくの昔の死語ですよね?」


 弥彦の物言いに、男二人の怒りは爆発した。

 乱暴そうなガタイの良い男が先に殴りかかった。もう一人の細身の男は面白そうにそれを眺めようとしていた。


 だがしかし。


「ごへっ……!?」


 弥彦は条件反射のように、男の拳を避け、腹に正拳をかましていた。

 殴られた男は白目を向き、地面に倒れた。


「……げっ! や、やっちゃった……」


 カウンターをかましてから事態に気づいた弥彦。

 倒れた男はピクリとも動かない。

 完全に空気と化していた少女は驚き、口元を両手で覆っている。


「な……!? 修二! 修二おい! しっかりしろ!」


 細身の男はすぐさま倒れた男に駆け寄る。


「し、死んでる……!」


 息がなかった。弥彦の一撃で事切れてしまったようだ。

 あたりがサーっと青ざめる。


「や、やりすぎた! ちょ、どいて!」


 弥彦は慌てて倒れた男の元に駆け寄る。

 そして、手を平手にし、心の中で唱えた。


 ーー芥見流蘇生術、『八起』!!!


 バンっ!!!

 と轟音が立つほどの威力で、男の心臓部に瓦割りのように手のひらを叩きつけた。


「うぐぉ!? ……え、俺、一体……?」


「修二! よ、よかった、無事だったか……」


「あ、アキラ! 俺、今死んだばあちゃんに会う夢見た……」


 たった数秒であるが、修二という男は死んでいた。

 おそらく三途の川を渡る寸前であったのだろう、「ギリギリセーフ……」と弥彦は安堵する。

 細身のアキラと呼ばれている男は修二に肩を貸し、弥彦に畏怖の表情を浮かべながら二人は去っていった。


「あ、あの、助けていただきありがとうございました」


「ううん、全然。助けるつもりとかは特になかったんだけど……あ、そだ。よし屋ってどこにあるか知ってる?」


「よ、よし屋ですか……」


 その後、少女によし屋の所在地を教えてもらい、弥彦は人生で初めてのよし屋の牛丼にありつけた。

 ここまで美味しいとは、きっと安くないだろうと思っていた弥彦だが、驚きのワンコインということに驚愕し、しばらくはよし屋生活になるだろうと弥彦は思った。











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