Episode.3 Each person's happiness theory.
店の奥のとある一室に男は入った。ユイも入る。
そこにはタンスばかりが所狭しと置かれ、人が二・三人座れそうな空間に男は腰を下ろしていた。
「...来たか」
「え、あ。......っ」
「ここに来い」
言われるがまま、ユイは恐る恐る男へ近付く。男はユイをじっと見て、手にメジャーを持った。
「手を挙げろ」
「っひゃいっ」
低く唸るような声に、ユイは裏返った声で返答し、素早く両手を挙げた。
「......胴回りを計るから、動くなよ」
ユイはコクコクと激しく頷く。それを見て男はメジャーをユイの身体に当てた。
「......っ」
散々他人に嬲られた身体のせいか、誰かに触れられるだけで、少し身体を跳ねさせてしまう。この事が男にバレていないか、とビクビクしながら目をぎゅっと閉じていた。
少しして、男の気配が遠ざかったのを感じた。ユイはゆっくりと目を開ける。
「......細すぎるぞ。食わないと、背丈は伸びん」
「へ、あ...。す、すみま...せん......」
「........まぁ、いいが。少しそこで待ってる」
ユイがその場にちょこんと腰を下ろすと、男は背を向けてタンスの中を探り始める。それから何枚かのシャツをユイの方へ投げた。
「わわっ」
それらはユイの足元へぱさぱさと落ちる。折角畳まれていたのに、すっかりぐちゃぐちゃになってしまった。
ユイは男の方へ目を向けるが、男は少し離れたところにあるタンスを探っていたので、ユイはそうっとシャツに手を伸ばし、一枚一枚折り畳んでいく。
これがシノに助けられてした初めてした、仕事らしい仕事であった。
「ほら、少しこれ履いてみろ」
別のタンスからズボンを取ってきた男は、ユイへその中の一本を手渡した。
ユイはつうっと冷や汗が伝うのが分かる。ゆっくりと手を伸ばしてそれを手に取り、グッと奥歯を噛み締めた。
その反応に、男はフッと息を吐いた。
「........ふうん。履き辛いか」
「へ」
「...マキもそうだったからな」
男はユイの手からズボンを取り、ユイの身体に合わせてからシャツの横へ置く。
「袋を持ってくる。...少し待ってろ」
「は、はい」
男はすたすたと、さらに奥の方へと歩いて行った。
ユイにはその間、先程の言葉を反芻していた。『マキもそうだったからな』。
それはどういう意味を含んでいるのか。ユイには分からなかった。
「ほら、服持ってこい」
「...は、はひっ」
ぼうっと考え込んでいたせいで、ユイは男の声に反応が遅れた。急いで服を追って男の方へ駆け寄る。
二人で手分けして服を入れ、店の方へ顔を出す。
「...おい」
男は店の壁にもたれかかって寝ているシノを、文字通りに蹴り起こした。
「ってて...。酷くない、親父さん」
「うるせぇ。ほら、お気に入りだ」
男は背後に居たユイを抱き上げ、シノの膝の上に下ろした。
「...へぇ、本当に沢山、ありがとうございます」
「あぁ。しばらくここに来なくて済むだろう。ほれ、金」
男は手の平をシノへ突き出す。シノは小さく息を吐いて、金額をきっちりと支払う。
「...ユイ、良かったね」
「...あ、ありがとう、ございます」
ユイはシノと男の二人の顔を交互に見ながらそう言った。シノは嬉しそうに目尻を下げユイの頭を撫で、男は「おー」と一言呟いた。
男は少ししゃがんでシノの耳元に近づく。そして、囁いた。
「大切にしてやれよ」
「...分かってるさ」
優しくない張りつめた声に、男は少し微笑んで離れた。
「また来い、坊主」
男の言葉にユイは頭を下げて、二人は店の外へ出た。
「いいものが手に入って、良かったねぇユイ」
「は、はい」
店から出た後、シノはさも当然であるかのように、ユイの手から袋を取って、自身の肩へ掛けた。荷物というものを持つ以外の経験しか持ち合わせていないユイは、慌ててシノの腕から袋を取ろうとしたが、制されてしまった。
「いいから」と。
「さてと。...次は.........、そろそろ昼ご飯食べよっか」
シノは後ろに居るユイに目を向ける事無くそう言った。頷いても分からないと思ったのか、ユイはギュッと繋いでいる手の力を強める。
「んー。ユイはどういうものが食べたい?」
「ええと......。そ、その.........。シ、シノが、美味しいと思うもの...がいい...です」
「美味しい物...か」
シノは少しだけ視線を迷わせてから「ん」と声を漏らし、佐田遭った方向へと足を進めていく。
そこは、コロッケを売りにしている店であった。
「好き嫌いある?」
シノはユイにそれだけを訊ねた。ユイがフルフルと首を振るう。シノはふっと微笑んで、ユイと繋いでいた手を離して、ユイに服の裾を掴むように誘導する。
シノが手人の中年女性と言葉を交わし、紙袋に収められた牛肉コロッケを二つもらう。
「はい、ユイ」
シノはそっとユイへ手渡した。
「熱っ」
ユイは小さく呟きながらも、そうっとコロッケを両手で熱くならないように持った。
年相応というか彼の無意識の反応に、シノは初めて見たなぁ、とぼんやり考えていた。
「ふふ、気を付けなね。...そのまま、俺について来て」
ユイはシノの背中を見失わないように見上げながら、シノはユイが付いて来る事が出来る速度を気を付けながら、路地の奥に追いやられた期の空箱の積まれた場所に着いた。
「ユイ、座りな」
シノに言われるまま、ユイは木箱の上に腰を下ろした。シノはその横の高く積まれた木箱にもたれかかる。
じいっとユイは、黄金色の衣に身を包むコロッケを観察するように見ていた。
「あはは、見てないで食べなよ、ユイ」
シノはそう言って、自身の手に持つコロッケを食べる。
ユイはじっとまた少し見つめて、それからぱくっと一口食べる。そして大きく目を見開いた。
「..........美味しい?」
コクコクと頷くユイの反応に、シノはくすくすとマスクの下で微笑んで食べ進めていく。
一個でもかなりの大きさのコロッケなので、二人はのんびりとゆっくり咀嚼していく。
その時だった。賑わう商店街から、若い女の甲高い声が上がる。びくっとユイは肩を震わせた。
「...ひったくりかな」
シノは少し低めの声でそう言う。ユイが帽子の下から見た目は、鋭く細められていた。
シノは口の中に残りのコロッケを放り込む。それからユイの帽子を思い切り下げた。
「ここで待ってて。すぐに戻るから。変な人から声をかけられたら、この目の前の道を真っ直ぐ来て」
シノの言葉にユイはこくりと頷く。シノはそのまま市場の方へ行った。ユイはぽつんと一人になる。
少し辺りを警戒しつつ、ユイはパクパクとコロッケを食べ進める。
「...君、迷子?」
その時、背後から声を掛けられ、ユイは大きく肩を跳ねさせた。
そこに居たのは黒髪の、左側を緑色に染めた珍しい髪型の青年だった。ユイは彼の碧の瞳を見ながら、ずるずると逃げようと身体をゆっくりと動かしていく。
その態度に、男は慌てて言葉を継いだ。
「べ、別に君を襲うとかじゃないから!たまたま一人でいるのを見かけたからさ」
「...だ、大丈夫......です」
ユイはゆっくりと勇気を振り絞って、何とかそれだけの言葉を言う。
「そっか。でも気を付けてね。物盗りとか奴隷商人とか...。君みたいに若い子は危ないからね」
青年はそう言って、シノの通って行った道を歩いて行った。
コロッケを全て食べ終えた頃。シノが戻って来た。駆け寄ってくる彼の姿が見え、心細さからユイは急いでシノの元へ駆け寄る。
「っわ!」
丁度シノの胸辺りに頭突きを喰らわせるように、ユイはそこへ頭を埋めた。
その反応にシノは驚きつつも、優しくユイの背中を撫でた。
「...ごめん、不安にさせたね。怖かった?」
ユイは違う違う、と首を左右に振るう。
「......帰ろうか。夕飯もお礼にもらったからね」
ユイはそう言われて顔を上げ、大きく目を見張った。
シノの頬。そこには大きな白い布が当ててあった。白いマスクはなくなっており、彼の整った顔が露わになっている。
ユイはそれを見て目を白黒させて、泣きそうに顔を顰める。シノはどうしてだろうか、とすぐにピンとこなかったが、ユイの視線を辿り数舜遅れて察した。
「全然大した傷じゃないよ。見た目ばっかりが凄いだけ。防いだ時に相手がナイフを振って来たからさ。避けきれずに、マスクの紐ごと頬っぺた切っちゃってさ。大丈夫だよ、ユイ」
シノは安心させようと、ユイと視線を合わせて、彼の目尻に溜まった涙を拭って笑いかける。
「............本当に?」
「...うん、本当」
シノはにっこりと微笑んで、手を指し伸ばした。
「帰ろっか」
「.........ん」
二人は手を繋いで、家の方向へと歩いて行った。
家の前に着くと、昨日のように扉が開くことは無く、シノが鍵を使って扉を開けた。中にマキはいなかった。
「........マキ、さんは、...もう仕事?」
「うん。明け方には帰って来るらしいから、明日の朝には会えるよ」
シノはユイの頭から帽子を取ってリビングのテーブルに置き、それから荷物を椅子の上に置いて片付けをし始める。
「ユイ、お風呂入っておいで」
「...え、あ。......僕も、手伝い...ます」
「でもユイ。今日疲れてない?」
ふるふるとユイは首を振るう。むしろ、ユイにいろいろ手を焼いていたシノの方が疲れているであろう。
「...大丈夫、です。...疲れて、ない...です」
「そう?」
シノは少し心配そうに眉を寄せる。ユイは大丈夫だとシノへアピールするように、コクコクと激しく頷いた。
「んー...。じゃあ、これらを冷蔵庫に入れてくれるかな」
初めてもらえた仕事にユイはこくっと勢い良く頷いて、頼まれた作業を開始する。その後ろ姿はどこか嬉しそうに見えて。
「...うーん...」
シノは少し首を傾げたが、ユイが良いならまぁいいか、と荷物の整理を開始した。
買ってきた物全てを直し終えて、シノはユイへ風呂に入ってくるように言った。
ユイは風呂場へ行き、一糸纏わぬ姿となって、張られた湯船に浸かる。
奴隷として働いていた時には、水道水と石鹸一つで洗っていたので、温かい湯に全身浸かる事が出来るというのは、とても至福であった。
こんなにも幸福でいいのか、と思うほどに。
「........ふー」
一人でいると、色々な事を考えてしまう。
どうして、シノは殺さなかったのだろう。どうして、そのまま助けてくれたんだろう。どうして、二人は優しく接してくれるのか。どうして、どうして...。
考えれば考える程、ぐるぐると思考をし続けてしまう。それを振り払うように首を振るってから、ユイは湯船に顔を浸けた。
どれだけ考えても答えは分からないのかもしれないけれど、シノが向けてくれる優しい目と、温かく撫でてくれる手は確かだ。それさえ分かっていれば今はいい。ユイはそう思った。
「ユイー、ここに服置いとくね」
「はっ、はひっ」
未だに上ずってしまう声だが、いつか流暢に会話する事が出来るだろうか。
奴隷であった頃には考えた事のなかった課題を胸に、ユイは身体を洗うために湯船の外へ出た。
風呂から上がると、夕食の準備を着々と済ませているシノが居た。手には銀色の袋を持っている。
「お!上がったね。じゃ、ご飯にしようか」
シノはパッと笑って、持っているレトルトパウチを沸いた湯の中に放り込んだ。どうやら料理というものは作らないらしい。
「......何を...作る...、ですか?」
「ん?カレーだけど」
自信満々に彼は言った。
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